欲望と罪を食らう者

 砂嵐の中に手放した意識は、時間をかけて再び戻ろうとしていた。嵐の中に霧散した砂の一粒一粒が寄り集まるようにして、意識が形を成していく。

 何か、わずかに気配がした。取り戻した意識に、己が仰向けに倒れているのだと自覚する。うっすら目を開いたら、男の懐に伸びる、何者かの手が見えた。

「……っ!」

 うごめく気配を捕まえたら、息を飲むような音が聞こえた。起き上がろうとすると、掴んだままの何かが激しく暴れた。

 男の片手での拘束を振りほどくこともできない腕は細く、子どもか、女か。

 金属の腕輪が何重にも連なった細腕を視線で辿っていくと、大きな布をまとった肩越しに顔が見えた。

 驚愕にひきつった顔は女のもの。

 鮮やかな金の糸を束ねた房飾りに縁どられた布を被っているが、こちらは低い姿勢から見上げているので顔はよく見える。

 美しい顔だ。目鼻立ちがはっきりとして、強く存在を主張してくる。

 驚くべきはその瞳の色。猛禽のような金色の瞳は、まさしく黄金のようだった。黄金は欲の色だと、そんなことを考えた。

 女は渾身の力で男の手を振り払う。腕輪がしゃららと音を立てた。こちらを注意深く伺いながら、女はゆっくりと後ずさる。


「こんなもんしか、くれてやれんぞ」

 座り込んだままで、女が手を伸ばした懐にあった紅を投げてよこす。ほとんど反射的にそれをつかみ取った相手は、手の中のものをじっくりと観察した。入れ物が二つに割れ、中が紅だとわかると、女はわずかにその黄金の瞳を揺らした、気がした。

「ここはどこだ」

 発した声はかすれた。砂を吸い込んだのか、喉が枯れたのか。

 周りは石壁に囲まれていて、建物の中のように思われる。天井が高いのか、見上げた頭上のほとんどは真っ暗闇に覆われて、まるで深い穴にでも落ちたようだ。

「わかるか、娘さん」

 女は自分よりまだ若いようだった。駱駝売りの少女ほど幼くもないが、十代終わりの方か。

「お前こそ、何者」

 初めて女が口を開いた。誰何の声はやはり男のように乾いていて、暗い響きがする。立ち上がると男の方が背が高いから、女の顔は布の影になってしまう。

「俺は人を探して、ここまで来たんだが」

「もしかして、あの大仰な連中の連れか」

「……ここに来たのか、王の軍勢が」

「そのように名乗っていたかな」

 女は砂まみれの床を踏み鳴らしながら、体の向きを変えた。

「ついてこい」

 命令のように――いや、そのものなのだろう――言い放って、女は歩き始めた。まったく状況が見えない中で、男としても従う他なくついて行く。


「連中は、ずいぶんと欲深いやつらだった」

「そういうもんだ、王様だからな」

 前を歩く女の被る布がちらちら光る。刺繍は駱駝売りの少女が纏っていたものだって見事だったが、この女の身に着けている布は、その大半が金銀糸の模様で彩られていた。目の揃った正確無比な美しい刺繍、所々で特に強く輝く小さな飾り玉は、もしかしたら宝石を縫い留めたものかもしれない。

「じゃあお前はなんだ」

 歩みを止めずに、女が問う。あまりに堂々としていた。だから女が盗人というよりは、自分の方が彼女の領内に勝手に入り込んだ、侵入者なのかもしれない。

「俺は王子様だよ」

 女は足を止めた。ゆっくりと振り返る。

「お前が? その割に、お前の目の色は、欲が薄い」

 女は睨むように、金色の目を細めた。黄金のようなその瞳は、瞼で半分蓋をしても眩しい。

「俺の欲が薄いって? 見る目がないな、娘さん。俺は欲深いよ、大きなものを欲しがっている」


「お前の目は、奪われ、取り上げられた者の色をしている。欲しがるのはそのせいだろう」

「……なんだ、娘さん。まさか占者じゃあないだろうな」

 金の瞳に射抜かれて、背筋がぞくりとした。

「違う。単に私自身が欲深くて、そして人から多く奪ってきたからだ。だから見慣れている」

 足元で、黄金を灰にでもしたような砂が音を立てる。

 建物の中は砂っぽく、一足進むごとにその量は増してきた。だんだんと足元を阻む砂は、砂漠を歩いているのと変わらなくなってくる。

 建物は広いらしく、部屋と部屋を通り抜けるように進んでいった。家具や調度品のようなものは見当たらず、室内の所々で砂山が盛り上がっていたり、それが崩れたようになっていたりした。出入り口のようなものは時折見かけたが先はどこまでも暗く、見上げた天井も闇が塞いでいるだけ。明かりは石壁に点々と松明が取り付けてあるけれど、この閉じたような空間で、こうも明るく燃えるものだろうか。


「ここだ」

 通された場所は、大きな広間のようであった。今まで通ってきたどの場所よりも砂で黄色く霞んでいて、思わず口を覆う。

 床一面の砂、砂。あちこちで砂山が盛り上がり、砂山の表面には樹木の肌のようなものが見えた。そこら中に倒木が転がっているような有様に、言いようのない寒気を覚える。

「人間」

 樹木のように見えたそれは、人間の亡骸だった。干上がって土人形のようになった人間の成れの果ては、ものによっては砂となって崩れて、すでに形を亡くしているものもあった。

 ならばこの広間中にある砂は。建物中にあった砂山は。

「私が触れると、みんなそうなる」

 砂が埋める広い空間に、女の声が響いた。

「私が触れたら、人は干からびて、最後には砂になるんだ」

「なんだこれは。呪いか?」

 言いながら、ここに来るまでに語られた呪いの話が脳裏に蘇る。

 一夜にして砂に飲み込まれた、呪われた都の話。


「呪い。そう、まさしく呪いなんだろう。この城は、都は。私の父が治めた地だった」

 それは何白年と時代を遡る、歴史物語。

「水の豊かな、美しい都だった……」

 遠い昔を懐かしむように。本当に一瞬、女は夢見るように目元を和ませた。

「なのに父は、渇きに苦しむ民たちを顧みなかった。手を差し伸べなかった、分け与えなかった。……私も」

 乾いた唇を震わせて、女は言った。

「私は、今にも渇き死にそうで苦しんでいた者に、言い捨てたのだ。お前にくれてやる水など、一滴もないと」

 無慈悲に、冷酷に。人間の所業ではなかったと、女は淡々と言い募った。

「その時から、私には呪いが染みついた。人に触れると、その者が渇いて砂になってしまう。父も、母も。侍女も護衛も。奴隷も、獣も……民も。すべて失ってしまった」

 女は唇を噛む。黒く乾いた唇に、滲む血はない。


「それで、ここに転がってる連中も?」

「都が砂に埋もれても、時折紛れ込んでくる者たちがいるのだ。迷った旅人くらいなら見逃してやったりもしたが……欲の深いものたちは駄目だ。私のようになると、ためにならない。だから砂にする」

 女はつま先で、足元の砂を蹴り飛ばした。

「よくもまあ、この人数を」

「私を剣で斬り捨てても、槍で貫いても、傷をつけることはできぬからな」

 女は足元にあった刃物を取り上げた。おそらく兵士が持っていたものだろう。兵士の中には善良なものも、哀れな奴隷たちもいた。その者たちには、思わず心を寄せてしまう。

 女は切り落とす勢いで、己の腕に剣を振り下ろした。

「この通り、身を傷つけようとしても、砂に変わる」

 けれど腕が落ちることも、血が拭きあがることもなく。傷口からは砂が流れ出し、それらが集まると再び傷口を元通りに繋げてしまった。

「だからどんなに人数がいても、私をしとめることが連中にはできなかった。こっちは時間こそかかるが、少しずつ一人ずつでも、確実にな」

 なんという執念。それほどまでに、欲に飲まれた人間が憎いのか。己も、含めた。

 それとも単に、滅びぬ体で生きる永い時間に飽いて、面白がっているだけなのか。


「だがなぜ、お前は砂にならなかった?」

「なにが」

「お前に腕を掴まれたが、お前は指の一本も砂にならなかった」

 ああ、と言いながら男は右腕を掲げる。嵌めてある革手袋を引き抜いた。

「生身の腕じゃないんだ」

 手袋の下には、鉄の細工でできた作り物の腕があった。女は目を見開く。

「そのせいじゃないか、砂にならなかったのは」

「それは、生まれついてか。それとも戦か何かのせいか」

「生まれついてだ。だからそもそも、戦に出たことがない。父親に目をかけてもらったことすらない」

 布に覆われた肘のあたりを押さえる。右腕の肘から下が生まれついて欠けていた男は、王の一人目の男児でありながらその存在をないがしろにされていた。

 王城に居住できるだけましで、他の王子王女たちと比べて粗末でも、衣食住が確保されているだけで十分だったかもしれない。実際、男自身は、うまいこと立ち回れば学ぶことだってできる環境は、悪くなかったと思っている。

 生まれてすぐ、間引かれなかっただけでも。

 

 ただ、母は。

 己の産んだ子を、認めてもらえず。次の子を成すことさえ、許されなくなった母は。

 後宮に数多いる女たちの多くがそうであるように、どこからか略奪されてきた母は、王の望む子を産むことができぬまま、使い捨てられた。

 父から贈られた小さな紅の入れ物を、やせ細った指先に握りしめて死んでいった母は、あまりにも、哀れだ。

「だからまあ、本当は俺が殺してやろうと思ってたんだけどな。それで単独、こんなとこまで王様一行を追っかけてきたわけだが。砂漠のお姫さんが、俺に代わってやってくれたとはな」

 自分の手で討ちたくなかったかといえば、嘘になる。

 けれど欲深い王がその報いを受けたというなら、悪くはない。

「別に、お前のためにやったわけじゃない」

 女は顔を背けた。感謝など求めていないとばかりに。


「これは返す」

 首元に巻いた布の隙間から、女は紅を取り出した。

 あの時、盗みを働こうとしたとかではなく。単に男が何者かを、探ろうとしたゆえの行為なのだろう。

「いい、やるよ。俺が持ってても仕方ない」

 母の形見ではあるけれど。着飾ることも忘れた母のもとでは、紅はほとんど減らなかった。他の誰かの唇を彩った方が、よほどいいだろう。

「……いい、のか」

「塗ってみればいい。ものは悪くないぞ」

 女は紅入れの蓋を開ける。細い小指の先に紅を乗せた。

 女が化粧品の類を手にするのは、いったいどれくらいぶりのことか。男の前で思わず紅を引こうとする姿が、欲を抑え込んできたその時間の長さを語るようだった。

 ぎこちない手つきで、女は紅を唇へと塗り重ねる。

 紅筆もなければ鏡もなく、赤く染まった女の唇は不格好であったが。

 それでも美しいな、と思うのだった。

 

「で、クソ野郎のご遺体はどれでしょうかね。もう全部、砂になっちまったかな」

 積もった砂を、足で乱暴にかき回す。女は構わず部屋の中央にすたすた進むと、そこにあったものを拾い上げた。

「これだ」

 何のためらいもなく、女は頭を一つ持ち上げた。

 顔の上半分が崩れ去ったそれが王であり、己の父親であり、母を捨てたクソ野郎なのかは、もはや判別がつかない。

「あれ、なんだこれ。口の中にずいぶんぎっちり、砂が詰まってるな」

 残った口の中は、砂が押し込まれたようになっていた。これだけ砂まみれの中に転がっていたのだから、おかしくはないが。

「ああ、それか。そいつはここに押し入って私を見つけた時、ずいぶんと顔を近づけてきたから。唇に噛みついてやった」

「は?」

「あの態度は、この世の女はすべて自分のものだと言わんばかりだった。あんまり強欲だったから、口の中から砂に変えてやった。そうすると息ができなくなって、死に方が苦しい」

 風化した顔では、表情まではわからない。

 けれど母を、女をもののように扱った男は。

 女によって、滅ぼされたのだ。

「ああ、それは。そいつは、さぞかし!」

 あまりにも愉快で、声を上げて笑ってしまった。


「だから、お前のためじゃないって言っているだろう」

 強欲な王の命を食らった、呪われた砂漠の姫君。

 唇を彩る紅は鮮烈で、血のように赤い。

 あまりにも、愉快で。

 男は呪いを受け付けない右手で女の顎を掴むと、そのまま紅に染まった唇に食らいついた。

 瞬間、口周りが干上がるような感覚があって、唇からぱらぱらと砂が零れ落ちた。すぐに女の唇から自分の唇を離すが、砂に変わっていくのは止まらない。

 歪んでいく己の唇に鉄の指先で触れれば、女の唇から移った紅がわずかに残っていて。

 わななく女の唇には、男の唇から移った、干からびた黄金のような砂粒がくっついていた。

「なんだ。紅が魔除けになるってのは、ありゃ嘘だな」

 言葉が不明瞭になるその前に、そう口にして。

 男は崩れゆく唇で笑った。

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砂漠の欲と罪食いの紅 いいの すけこ @sukeko

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