第5話 鈴と幻

 私が出会った「女の子」は、私の命を救った小熊だった。


 やはり間違いはないのだ。そう理解しつつも、まだ実感は追いついていなかった。


 女の子の姿形も、声も、他愛ない会話も。

 全ては私が、死の淵で見た幻影なのだ。


「私はその熊に助けられたんですね。感謝しなければ」

 食事をあげると言った時の、目を輝かせて喜ぶ女の子の顔が思い出される。そのあと彼女は、幻想の中ではお礼に熊鈴までくれたのだ。お礼をすべきなのは、私の方だというのに。


「感謝するのはいいけれど」

 老婆はその声に、わずかに鋭さをしのばせた。

「少しでも親しみを感じたり、感情移入しては、絶対にだめよ」


 私は神妙な顔で頷いた。

 確かに、彼女の言う通りだった。今回は襲われずに済んだ。助けてすらもらった。だがそれはただの偶然であり、奇跡的なことなのだ。熊という生き物は、決して人に慣れることはない。そして、人間など簡単に殺せてしまう存在だ。


 しかし、夢の中で見た女の子——に化けていた小熊——は、私たち人間と同じような喜怒哀楽を持ち、血の通った存在だった。

 あの映像が、自分の妄想が作り出した幻覚とは考えづらかった。信じられない話だが、小熊の霊か、魂か、そのような「あやかし」の類が、私の意識の内側に迷い込んだのだろう。


 その考えに至ってしまっては、もはや感情移入するなというのは無理な話だった。


「間違っても、熊があなたを哀れんで、そのようなことをしたなんて思わないこと。あれはただの、熊の気まぐれだったのよ。実際に、あなた以外の人間には敵意を剥き出しにしていたというし、その場に居合わせた人が言うには、人間を恐れているようにも見えなかった。

 泉門池は多くの人が通る名勝よ。登山客の安全をこれ以上脅かさないよう、救助隊は猟友会を呼んで、。もちろん、警察の許可も得ているわ」


 淡々と事実だけを告げる声が、がらんどうの胸中に幾重にもこだました。私はしばらくの間、その場から動けなかった。


 老婆は木の椅子に座ると、窓の外に目をやった。

「……責めないのね」

 そう、躊躇いがちに言った。


「ええ。たとえ殺されなかったとしても、私があの女の子に会うことは、もう一生ないでしょうから。それに……熊は危険な生き物なのでしょう。地元の方の判断です。私が言えることは何もありませんよ」


 老婆は表情を崩さずにいるつもりだったのだろう。

 それでもわずかに緩む口元を、私は見逃さずにはいられなかった。

「あなたは理性のある方なのね。こういうことがニュースになると、決まって批判の声があがるものなのよ。もっとも、それはほとんど都会の、からだけど」


 彼女の言葉が深々と突き刺さった。私は浅くなる呼吸に戸惑いながら言った。

「もちろん、これは命のやりとりです。殺さずにいられるのが理想なのだとは思います。それでも……『彼岸』の幻影を目にしたとき、私は心から思ったんです。自然というのは、ただ美しいだけのものではない、と」


 老婆は何度も、大きく頷いた。

「その通りなのよ。それを分かってくれる人が、一人でも増えてくれればいいのだけれど」


 彼女が考えるように、あの女の子も、その「ただ美しいだけではない」ものの一部だったのだろう。



 それでも。



 彼女が笑ったとき、果てしなく荒れた、広大無辺の原野に、確かに光は差した。

 彼女が声を発したとき、灰色だった木々に、空に、確かに色彩は宿った。


 彼女の存在は幻でも、彼女が私に向けた笑顔も優しさも、決して幻などではなかった。


「……彼女は、本当に人間に敵意があったのでしょうか」


 思いがけず、そんな言葉が口をついて出ていた。

 老婆の視線がこちらを向く。

 何かが溢れそうになり、私はそれを必死に押し留めていた。

「出会ったとき、彼女は迷子でした。誰に声をかけても振り向いてくれないと嘆いていた。みんな知らないふりをして、あるいは逃げてしまうと……。あの子熊は、ただ遊び相手が欲しかっただけなんじゃないでしょうか。母親からはぐれて、ただ寂しかっただけじゃ……」


 声が出てこなくなり、右頬を熱いものが伝うのが分かった。私は慌てて顔を拭った。


「たとえそうだとしても」

 その声はいくぶん穏やかになっていたが、それでも老婆はきっぱりと言い切った。

「私たちの命を奪う可能性を、黙って見過ごすわけにはいかないのよ」


 私はまぶたをギュッと閉じ、小刻みに首をふった。肩に手が乗せられるのを感じた。

「熊が人間を襲うのは、身を守ったり食べたりするためだけじゃないの。遊び相手と認識して、戯れようとすることもある。向こうは遊びのつもりでも、人間にとっては致命傷よ。熊というのは、それだけの力を秘めた動物なの」


 彼女は双眸を細め、遠い目をした。

「あの小熊が今日はじめて出てきたのなら、罠か麻酔銃で捕まえて山に放したでしょう。私たちだって、熊を恐れてばかりいるわけじゃない。かわいい小熊を殺すのは、誰だって胸が痛むわよ。ただ……今回ばかりは、決断せざるを得なかった。その子は過去にも二度、人を襲っているのよ」


 そう言うと、老婆は左腕の袖をまくった。


 私は目を疑った。

 左の前腕に、白く盛り上がった引っ掻き傷が走っていたのだ。傷跡は細いが長く、肘から手首の近くまで三本、まっすぐに続いている。

「鈴はつけていたのだけれど……今思えば、鈴があるから大丈夫だろうと油断していたのかもしれないわね。鉈を持っていなければ死んでいたわ」


 にわかに、女の子が言っていたことを思い出した。


 ——みんなすたこら逃げちゃうんだよ。かと言って、遊んでもくれないしさ。


 それは彼女の心から出た、嘘偽りのない言葉だったのだろう。二度にわたって負傷者を出したというその熊は、その実、ただ遊んで欲しかっただけなのだ。


 それでも、目の前の老婆の古傷は、「戯れ」などという生易しい言葉で形容していいものではなかった。

 あの女の子は間違いなく、人を殺しかけたのだ。


「その子は母親とはぐれていると言っていたわね。あれは二年前、猟友会が母熊を射殺したからのよ。そのとき、そばにいた小熊も一緒に撃とうとしたけれど、仕損じた。それ以来、その子はずっと、猟友会に目を付けられていたの」


 熊は一度自らに銃口を向けた者の顔を決して忘れないと、彼女は言った。命ある限り、熊はその人という「危険」を排除するため、執拗に命を狙い続けると。

「母熊を撃った猟友会の人たちも、もちろん熊鈴をつけていた。それが理由かは分からないけれど、その小熊は二回とも、熊鈴をつけた登山客だけを狙ったという話だわ」


 私は手にしていた毛布を取り落とした。泉門池でのやりとりを思い出したのだ。

 彼女はお礼にと、私に鈴をくれていた。あれは、過去に襲った人間から奪ったものだというのか。そして、私が襲われなかったのは、たまたま鈴を付けていなかったからだというのか。


「あなたが助かったのは、本当に、ただの偶然だったということよ」

 もはや反論の言葉すらなかった。あらゆる因果が絡み合い、その動かしがたい帰結として、小熊は殺された。そこに私の意思が介在する余地などなかった。

 全ては必然だったのだ。


 老婆は私に、お粥の入った腕を手渡した。

「腹ごしらえができたら、集会場に行きましょう。私が連れて行くわ。警察や救助隊の方もいらっしゃるから、あなたの口からも、何があったか話しなさい」

 その声色は、私が目を覚ましたときのゆったりしたものに戻っていた。


「小熊の死体は……どうなったんですか」

 聞かないでおこうかとも思ったが、それはできなかった。

 いずれはこうなっていたとはいえ、自分がきっかけで命を奪われたのだ、目を背けるのは罪だと感じた。


「その集会場に安置されているわよ。見たいなら止めはしないけど……おすすめはしないわ。見ていて気分のいいものじゃないもの」

 たとえ気まぐれでも、自分を助けてくれた熊だ。その姿を見ておかねばならないような気はした。一方で、銃弾で非業の死を遂げた獣を目にするのは、やはり気がひけるのだった。




 外の空気が吸いたくて、私は部屋をあとにした。

 道路に出ると、すっかり晴れた青空が私を包みこんだ。空気は冷たいが、日の光は柔らかく、どこまでも優しかった。


 小熊の亡骸を見ようか、見まいか。どちらともつかずに逡巡するうちに、風が身に染みてきた。私はなんの気なしに、ポケットの中に手を突っ込んだ。


 指先が硬いものに当たった。


 私はハッとして、それをつまんだ。

 小さな鉄の塊のようなそれは、体温にあてられてじんわりと温かい。取り憑かれたようにそれをポケットから引っ張り出すと、私は思わず息を飲み込んだ。


 手の中には、紐のついた熊鈴が二つ、確かに握られていた。


 自分を取り囲む世界が、ぐらりと傾いた。しかし、驚いたのは束の間だった。

 やがて、この日差しのように暖かな充足感が、ゆっくりと体を覆っていった。


 あの女の子は幻でも、彼女の優しさは、幻などではなかった。


 その思いが、まるで鍵が鍵穴にはまるかのごとく、すっぽりと胸の内におさまった。


 私の中に、確信めいた決意が湧いてきた。

 彼女とたどり着いた泉門池の清らかな水のように、静かに湧いてきた。


 それが満ちたとき、もはや迷いなど消え失せていた。

 私は鈴を握りしめ、確かな足取りで部屋へと歩き出した。

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