ラストシーン

ゴカンジョ

すばらしい日々

 ワイヤレスイヤホンから聞こえる『すばらしい日々』のアウトロがフェードアウトしていく中、荒木由香は下ろし立ての黒いショートブーツを「コツコツ」と小気味よく鳴らしながら、伊藤大貴ひろきとの待ち合わせ場所である東京駅の新幹線改札前まで向かっていく。


 ライトブルーのスキニージーンズに白のニットを合わせ、その上からグリーンのスプリングコートを羽織った由香の足取りは、一切の迷いがないように見える。在来線と新幹線の乗り場をつなぐ、多くの人が行き交うコンコースの中で、旅行カバンも持たず右肩にトートバッグを提げるだけの身軽さも手伝って、彼女の歩くペースはひときわ速かった。ナチュラルにカールさせたまつ毛にラメを控えめに乗せ、アイラインをスッと伸ばした両目は涼しげで、しっかりとした歩調に合わせ、切りっぱなしにしたショートボブの毛先が揺れた。


 最後はカッコよく終わりたい。そんな思いで、プチプラファッションとはいえアルバイトで貯めたお金を全部使って入念に準備をしてきた由香の耳に、どこか寂し気なギターリフが聞こえてくる。奥田民生のファンである大貴から教えてもらったユニコーンの曲の中で、由香が一番好きだった『すばらしい日々』のイントロだ。自宅を出てからもう何度目のリピート再生になるのか、由香にも分からなかった。


「新幹線 自動 きっぷうりば」と掲示された細長い案内板が見えてくると、由香は少しずつ歩くスピードを緩め、弁当や土産物の売店が並ぶ通路脇に寄って立ち止まる。それからイヤホンを取り外し、新幹線の改札に目を向けた。


 改札前のたまりは、多くの旅行客で一杯だった。疲れた顔でキャリーバッグを転がすカップル。髭を生やした欧米人バックパッカー。可愛らしいリュックを背負ったままぐずっている小さな女の子と、その子を抱っこしてあやす父親らしき中年男性。いかにも団体旅行客というかしましい中年女性のグループ。卒業旅行にでも向かうのだろうか、由香と同世代らしい大きな旅行カバンを抱えた若い女性の一団も、ガイドブックらしきものを見ながら談笑している。その三メートルほど横に、細身で少し背の高い、薄手のダウンジャケットにジーンズ姿の黒髪の男が立っていた。由香は両手をキュッと握り締める。そしてその男のことを、伊藤大貴のことを、しばらくじっと見ていた。


(よし)


 心の中でそうつぶやいた由香は、強張った身体をほぐすように深呼吸をすると、スマホで時間を確認する。十時四十三分。由香は目をつむる。そしてもう一度ゆっくりと深呼吸をする。身体の中のいろんな思いを吐き出すように。そこから瞑想のような一分が経過すると、由香は目を開き、力強い足取りで再び歩き出した。


「おはよ」


 俯きながら手に持ったスマホを眺めていた大貴に由香が声をかける。


「おっす」


 顔を上げた大貴は、普段よりもめかしこんだ由香を見て、一瞬目を丸めるように眉を上げる。が、結局大貴は出掛かった言葉を飲み込むように、わざとらしく大きなあくびをするだけだった。大貴の細長い両目は充血し、まぶたは腫れている。シュッと頬がこけた面長の顔には無精ひげがうっすら浮かび、顔色も生白いせいで病弱そうにさえ見える。就職活動を始めた大学三年以来、ずっと清潔感を意識していたベリーショートの髪は、いかにも洗いざらしという感じにボサボサだった。


「昨日どれくらい飲んでたの?」


 由香も由香で、大貴の素振りに気づいていない風に訊ねる。


「昨日っていうか、今朝」


 大貴はそう言って口を大きく開けると、由香の顔に向かって「はぁー」と息を吐きだす。ライターをかざせばそのまま火炎となりそうなくらい酒臭い。


「やだもう!」


 由香は顔をしかめながらうんざりしたように笑うと、「ボスっ!」とダウンに覆われた大貴の腰上あたりをグーパンチする。大貴が笑った。


「始発のタイミングでお開きになって、俺はネカフェでシャワー浴びてさっきまで仮眠してた」


「家戻らなかったの?」


「部屋は昨日の朝で引き渡し。家具なんかも全部送ってるから、手荷物はこんだけ」


 大貴は足元のボストンバックを指さす。


「みんなともしばらく会えなくなるしな。どうせ新幹線で寝るし。まあ、飲んだ」


 そう言って顔色が悪いまま笑った大貴は、「あ、そうだ。俺匂い大丈夫だよな?」と由香に訊ねてきた。


「口臭はともかく、服はちゃんと着替えてるから、飲み会の匂いは移ってないと思うんだけど。隣に座った人にヤな顔されたくねえし」


 大貴はそう言ってダウンのジッパーを下げると、中に着ているボタンシャツの胸元を引っ張って匂いを嗅ぐ仕草をする。仕方がないという様子で、由香も大貴の胸元に顔を近づけた。


 これまでに何度も近くで感じてきた、いつもの大貴の匂い。それが今日は、由香の心をひときわ揺さぶった。


「どう? 大丈夫だよな?」


「……加齢臭?」


 由香がいかにもわざとらしい怪訝な表情で答える。すると大貴も「……マジで?」と一度は話に乗ってから、「するかそんなんもん!」とわざとらしくノリツッコミをしてきた。


「大丈夫、臭くなんかないよ。辛うじてだけどね」


 由香の冗談めかした返事に、大貴は「よかった」と安堵する。


(バカみたい)


 大貴に悟られぬよう、由香は自分の唇を小さく噛み締めた。


 改札前で出発時間を待つ人たちのざわめきに混じって、運行情報を伝える構内放送が流れ始める。そして最後に十一時十五分発「のぞみ」がアナウンスされると、電光掲示板にもその予定が表示された。大貴が乗るつもりだと由香に告げていた新幹線だ。改札横の待機所で座っていた人たちの一部が動き始める。


「よし。じゃあ、そろそろホームに行くか。ちょっと早いけど、自由席だし」


 欠伸をしながら「うーん」と身体を伸ばした大貴は、足元に置いていたボストンバックから乗車券の入った紙ケースを取り出すと、バックをひょいと肩に担ぐ。


「あ、入場券買うから、ちょっと待ってて」


 由香は一人券売機に向かう。数人が列を作っていて、自分の番が来るのに結局一〇分ほどかかった。入場券を手にすると、由香は大貴とともに改札を抜け、長いエスカレーターに乗った。


 エスカレーターで昇っている間、由香は前に立つ大貴の左手を見ていた。ギターを弾いていた影響で、指先の皮が固く、右手より少しだけ指が長く、手のひらが大きな大貴の左手を。初めて手をつないだとき、大貴のごつごつした指に由香はビックリしたのを覚えている。


 最後に手をつないだのはいつだったろう、と由香は思う。今年のバレンタインも一緒に過ごしたけれど。去年の大晦日も、クリスマスも、十一月の私の誕生日も、大貴と一緒に過ごしたけれど。


 先に手を離したのは、多分、私の方。いや、大貴かな? ‥‥‥まあ、お互い、かな。お互いが、一緒に。


 手持ちぶさたで宙に浮いたままの大貴の左手から、由香は視線を逸らした。


 ホームに上がり、電光掲示板で自由席となる号車を確認すると、大貴は乗車位置まで歩き始めた。由香もそれについていく。由香はてっきりベンチや待合室があるのだと思っていたのだが、余計な混雑を避けるためなのか、ホーム上に座れる場所はなかった。家族連れや友人グループ、サラリーマンなど、乗客たちはそれぞれ目的の乗車位置近くで立っているか、自動販売機やキオスク、弁当屋で買い物をしている。指定席の乗客は時間ぎりぎりまで改札付近で待っているのだろう。


 ひっきりなしに流れる構内アナウンスやチャイム音。新幹線の発着音。停車中の新幹線から響く冷却ファンの轟音。大きな声で会話する乗客たち。キャリーケースを引きずる音。ホーム上はあらゆる音が飛び交い騒々しい。


 喧騒の中を、由香と大貴は互いに視線も合わせることなく、ただ無言で歩き続けた。


「ここでいいか」


 すでに座席確保のために並んでいる人たちの列を見比べ、どこも大差がないことを確認すると、大貴は三号車の位置で立ち止まった。自分が乗るわけでもない由香に異存はない。二人は十人ほどが並ぶ列の最後尾に加わった。


 陽光が降りそそぐホーム上は、数週間後には桜が開花する季節とは思えぬ寒風が吹き始めていた。大貴はダウンジャケットのジッパーを上げると、ポケットに両手を入れ身体を縮めた。由香はセットした髪が乱れるのを抑えるよう頭に手を添える。新幹線の到着までは、まだ一〇分近くあった。


 由香と大貴の前に並ぶ三人家族が、旅行先で泊まる宿の夕飯について話している。まだ小学生くらいの男の子が、お母さんに刺身ではなくハンバーグが食べたいと駄々をこねていた。並んだときは最後尾だった由香と大貴の後ろには、すでに数名の乗客が並んでいる。列はまだ伸びそうだ。由香は断続的に流れる構内アナウンスに意識を向ける。自動案内の女性の声。男性駅員の地声。そして人の行き交う音、発車ベルなども、あちこちから響いてくる。


 駅のホームって、こんなにうるさかったんだ。あ、東京駅は人が多いからか。ほかの駅だと、ここまでじゃないのかな。


 ボンヤリとそんなことを考えながら、由香はそびえ立つ東京のオフィスビル群に目を向ける。大貴とのドライブ中に一望したときはワクワクした丸の内の景色。しかし今は低い位置から仰ぎ見ているせいか、由香にはなんだか色を失ったように感じられた。由香はホーム上の時計を見上げる。二分しか経っていなかった。


「けっこうさみぃな」


 ふいに大貴が呟いた。由香の顔は見ないまま、まるで独り言みたいに。


「うん。午後は春の陽気だっていってたけど」


「東京はだろ?」


 大貴はポケットから手を出しスマホで天気予報をチェックすると、「お、大阪も今日はあったかいっぽいな」と言った。


「まあ、新幹線で二時間半だしな。近いもんだよ。飛行機もあるし。いつでも会えるよ」


 会おうと思えば。その気になれば。


「休みはこっちに戻ってくるの? ゴールデンウィークとか」


「そのつもり。まあだけど、仕事次第だよな」


「向こうでの付き合いもあるだろうしね」


「由香も大阪遊び来いよ。美味しい店とか調べとくし。タコ焼きとかお好み焼きとか」


「行きたいな。暇ができたらだけど。就活あるし、バイトもしなきゃだし」


 仕事がなければ。時間があれば。お金があれば。その気になれば。


 いつからだろう。お互い腫れ物にでも触るみたいに、本音を言えなくなったのは。


 再びホーム上に新幹線の発着情報のアナウンスが響く。空白を埋め合うような二人の会話は、そこで途切れた。


 十一時十五分発「のぞみ」の乗車が始まった。


「じゃあ、行ってきます。着いたらLINEするよ」


「うん」


 列から外れた由香は、「あのさ」と大貴に声をかけようとする。しかし、座席確保に急ぐ列の波に押されるように、大貴は立ち止まることなくそのまま新幹線に乗り込むことになった。苦笑交じりにため息をついた由香は、仕方なく車窓越しに車内の様子を見る。大貴は窓際にサラリーマンらしき男性が座る、ホーム側三列シートの通路側席を確保していた。由香が車窓まで近づく。ダウンを脱いで席に着いた大貴は、窓際席の乗客に遠慮しながら由香に向かって手を振る。由香もそれに応える。ただ、出発時間まではまだ三分ほどあったため、そこからなんとも間の抜けた時間が流れた。由香と大貴の間に位置する窓際席の中年男性から、居心地が悪そうな微妙な様子が伝わってくる。


 そんな雰囲気に耐えられなくなったのか、不意に立ち上がった大貴が、開いたままの乗車口まで歩いてきた。


「由香」


 車内から体半分を出した大貴が恋人の名前を呼ぶ。しかしその後は押し黙ったまま、しばらくすると由香から視線を逸らすようにソワソワし出す。


 由香は、チャンスをくれた大貴に心の中で感謝した。そして乗車口まで歩み寄ると、明るい声でこう言った。


「今までありがとう。元気でね」


 それは、由香が最後に伝えると決めていたセリフだった。


 由香の言葉に、大貴が再び由香と視線を合わせる。由香は笑顔を浮かべたまま、まっすぐ大貴の目を見つめていた。その表情に、陰は微塵も感じられない。実に晴れやかだった。大貴の新たな門出を、心から祝福するように。


「……うん。由香も元気で。就活頑張れよ」


 大貴も笑顔を浮かべると、「じゃあ」と一人、車内に戻っていった。


 発車ベルが鳴り響く。ややあって、大貴の乗った新幹線のドアが閉まった。そのタイミングで、由香の頭の中に『すばらしい日々』のギターリフが流れ始めた。約二年続いた恋人の思い出とともに――。


 友だちに誘われたけれどまったく乗り気じゃなかった軽音サークルの新歓飲み会。そこで出会った二期上の大貴と、まさか一か月と経たないうちに付き合うことになるとは夢にも思わなかった。奥田民生が大好きで、音楽のことなどろくに知らない私に向かって奥田民生の楽曲のすばらしさを語る彼の姿は滑稽で、でもその純粋さが可愛らしかった。


 お金がないから普段遊ぶ場所はたいてい大貴のバイト割が使えるカラオケボックス。平日三時間の学生パックを目いっぱい使って歌い続け、飽きたらしゃべり続けた。バイトやメルカリで小遣いが貯まると、免許取りたての大貴とレンタカーでお台場や横浜にドライブへ行った。ドライブ中にかかる曲はもちろん奥田民生の『イージュー☆ライダー』と『さすらい』、そして『風は西から』。あまりのベタさには思わず苦笑いを浮かべたけれど、それでも幻想的な海の夕焼けを眺めながら初めて走るレインボーブリッジは、大貴と二人で映画のワンシーンに入り込んだみたいで、本当に素敵だった。


 初めて大喧嘩したのは付き合って一年目の大みそかの大貴の部屋。私が作ったキムチ鍋に大貴が「酸っぱすぎる」と文句を言って、頭にきた私はそのあと一緒に行くはずだった明治神宮の初詣をすっぽかした。三が日の最終日、一人で行った近所の小さな神社のおみくじで、恋愛運に「この人を逃すな」と書いてなかったら、このときに別れていたかもしれない。


 台風に祟られた、初めての一泊二日の沖縄旅行。初参加の夏フェスで舞い上がり、ヘトヘトになったフジロック。初めてコスプレをして、酔っ払いに絡まれたハロウィン。バカみたいに混むからイヤだと最初はゴネて、それでも行ってみたらやっぱり素敵だったクリスマス期間のディズニーランド。人生で初めての体験を、大貴と一緒にたくさん味わうことができた一年半。そして、大阪の会社の内定が出たと大貴が告げてきた、去年の秋。お互いに「終わり」を予感しながら、最後まで別れを切り出せず付き合い続けた最後の半年。


 そのすべてを「いい思い出」として振り返れるときが、きっといつかくるんだろうと、由香は思う。それでも今はまだ、由香の脳裏に浮かぶ二人の思い出は、あまりにも鮮烈だった。笑って振り返るには時間が、「すばらしい日々」が必要だった。


 君は僕を 忘れるから

 そのころには 君にすぐに会いに行ける


 ゆっくりと動き出した新幹線を見送りながら、由香は震える声で「さよなら」と呟いた。(了)

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ラストシーン ゴカンジョ @katai_unko

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