すばらしい日々
ゴカンジョ
ラストシーン
ワイヤレスイヤホンから聞こえる『すばらしい日々』のアウトロがフェードアウトしていく中、荒木由香は下ろし立ての黒いショートブーツを「コツコツ」と小気味よく鳴らしながら、伊藤
ライトブルーのスキニージーンズに白のニットを合わせ、その上からグリーンのスプリングコートを羽織っている由香の足取りは迷いがないように見える。在来線乗り場と新幹線乗り場をつなぐ、多くの旅行客が行き交うコンコースの中で、旅行カバンも持たずミニトートを右肩に提げるだけの身軽さも手伝って、彼女の歩くペースはひときわ速かった。ナチュラルにカールさせたまつ毛にラメを控えめに乗せ、アイラインをスッと伸ばした両目は涼しげで、しっかりとした歩調に合わせ、切りっぱなしにしたショートボブの毛先が揺れた。
最後はカッコよく決めたい。そう思って、プチプラファッションとはいえアルバイトで貯めたそれなりのお金を全部使って入念に準備をしてきた由香の耳に、どこか寂し気なギターリフが聞こえてくる。奥田民生ファンである大貴から教えてもらったユニコーンの曲の中で、自分が一番好きな『すばらしい日々』のイントロだ。自宅を出てからもう何度目のリピート再生になるのか、由香にも分からなかった。
☆☆☆
「新幹線で行く春の学生旅行」というポスターが張られた駅構内の柱を何本も通り過ぎた由香の視界に、「新幹線 自動 きっぷうりば」と大きく掲示された細長いサインボードが入ってきた。
新幹線乗り場の電光掲示板には、まだ大貴が乗る予定の「のぞみ」の情報は表示されていなかった。掲示板横の時計はまもなく十時四十分を示そうとしている。
由香は少しずつ歩くスピードを緩めると、行き交う人の邪魔にならぬよう、弁当や土産物の売店が並ぶ通路脇に寄って立ち止まる。それからトートバックの中からイヤホンケースを取り出し、耳につけたワイヤレスイヤホンを外してケースにしまった。
改札前のたまりは、これから春休みの旅行に向かう人々で一杯だった。疲れた顔でキャリーバッグをコロコロと転がすカップル。一人で電光掲示板を眺めている、髭を生やした多分欧米人のバックパッカー。可愛らしいリュックを背負ったままぐずっている小さな男の子と、その子を抱っこしてあやす父親らしき中年男性。いかにも団体旅行客というかしましいおば様たち。卒業旅行にでも向かうのだろうか、由香と同世代らしい大きな旅行カバンを抱えた女の子の一団も、USJのガイドブックを見ながら談笑している。その三メートルほど横に細身で少し背の高い、眠そうな顔した黒髪の男が立っていた。由香はしばらくその男のことを、伊藤大貴のことを見ていた。
(よし)
心でそうつぶやいた由香は、ゆっくり深呼吸する。目をじっとつむりながら息をいっぱいに吸い込み、それからたっぷりと時間をかけて吐ききると、目を開けて再び歩き出した。
☆☆☆
「おはよ」
俯きながら手に持ったスマホを眺めていた大貴に由香が声をかける。大貴は顔を上げると笑顔で「おっす」と返事をした。しかし、笑顔のわりに細長い両目は充血していてまぶたは腫れぼったい。シュッと頬がこけた面長の顔には無精ひげがうっすら浮かび、顔色も生白いせいで病弱そうにさえ見える。去年の就職活動開始からずっと清潔感を意識していたベリーショートの髪は、いかにも洗いざらしという感じにボサボサだった。薄手のダウンの下に着ているボタンシャツの襟やすそはヨレヨレでだらしなく、着ている服からタバコやらアルコールやらニンニクやら揚げ物やらの匂いが入り混じった追い出し会の残り香が漂っている。
「昨日どれくらい飲んでたの?」と由香。
「昨日っていうか、今朝」
大貴はそう言ってわざとらしく口を大きく開けると、「はぁー」と息を吐きだす。ライターをかざせばそのまま火炎となりそうなくらい酒臭い。由香は「やだもう!」と顔をしかめながら笑い、「ボスっ!」と大貴のジーンズの腰上あたりをグーパンチする。
「始発のタイミングでお開きになって、俺はネカフェでシャワー浴びてさっきまで仮眠してた」
「家戻らなかったの?」
「もう部屋は空っぽだよ。家具なんかは全部送ってるし、手荷物はこんだけ」
大貴は足元のボストンバックを指さす。
「みんなともしばらく会えなくなるしな。どうせ新幹線で寝るし。まあ、飲んだ」
明らかに酒が残っている大貴は、そう言って顔色が悪いまま笑った。
☆☆☆
改札前で出発時間を待つ乗車客たちのざわめきに混じって、新幹線の発車情報を伝える構内放送が流れ始める。そして最後に十一時十五分発「のぞみ」がアナウンスされ、改札上にある電光掲示板の一番下にもその予定が表示される。大貴が乗るつもりだと由香に告げていた新幹線だ。
「よし。じゃあ、そろそろホームに行くわ。ちょっと早いけど、自由席だし」
欠伸をしながら「うーん」と身体を伸ばした大貴はそう言うと、足元に置いていたボストンバックから乗車券の入った紙ケースを取り出し、それを片手にボストンバックをひょいと肩にかける。由香も「うん」と応えると、通学定期券のモバイルアプリを入れたスマホを取り出し、念のためチャージ残高が入場金額分あることを確認する。そして二人は改札に向かった。
長いエスカレーターを伝ってホームに着いた由香と大貴は、ホーム上の電光掲示板で自由席となる号車を確認すると、乗車位置まで歩き始める。由香はてっきりホーム上にベンチや待合室があるのだと思っていたのだが、余計な混雑を避けるためなのか、ホーム上に座れる場所はなかった。旅行バッグを抱える多くの乗客たちはそれぞれ目的の乗車位置近くで立っているか、キオスクでお菓子や雑誌を購入している。指定席の客は時間ぎりぎりまで改札付近やホーム下の待合室で待っているのだろう。
二人は会話がないまま、歩き続けた。
「ここでいいか」
すでに座席確保のために並んでいる人たちの列を見比べ、どこも大差がないことを確認すると、大貴は三号車の位置で立ち止まった。自分が乗るわけでもない由香に異存はない。二人は二十人ほどが並ぶ列の最後尾に加わった。
ホーム上は間もなく桜が咲き始める季節とは思えぬ寒風が吹き始めていた。大貴はダウンジャケットのポケットに両手をツッコみ、身体を縮めている。
「けっこう寒ぃな」
「うん。午後は春の陽気だっていってたけど」
「東京はだろ? 大阪はどうなんだろ?」
大貴はポケットから手を出しスマホで全国の天気をチェックすると、「お、大阪も今日はあったかいっぽいな」と言った。「まあ大阪まで新幹線で二時間半だしな。近いもんだよ。飛行機もあるし。いつでも会えるよ」
会おうと思えば。その気になれば。
「休みはこっちに戻ってくるの? ゴールデンウィークとか」
「そのつもり。まあ、仕事次第だけどな」
「向こうでの付き合いもあるだろうしね」
「由香も大阪遊び来いよ。俺美味しい店とか調べとくし。タコ焼きとかお好み焼きとか」
「行きたいな。暇ができたらだけど。就職活動あるし、バイトもしなきゃだし」
仕事がなければ。時間があれば。お金があれば。その気になれば。
ホーム上に新幹線の発車予定情報がアナウンスされ、二人の会話は途切れた。
☆☆☆
「じゃあ、行ってきます」
十一時十五分発の「のぞみ」への乗車が始まったホーム上で、大貴が由香にそう言った。
「着いたら連絡するよ」
「うん」
自由席の座席確保に急ぐ列に押されるように、別れのハグもキスも握手も何もないまま大貴は新幹線に乗り込む。車窓越しに車内の大貴の様子を見ていた由香は、大貴がすでに窓際にサラリーマンらしき男性が座る、ホーム側三列シートの通路席を一つ確保したのを確認すると、その席が見えるの車窓まで近づく。ダウンを脱いだ大貴は、窓際席に座る乗客に遠慮しながら由香に向かって手を振る。由香もそれに応える。ただ出発時間まではまだ三分ほどあったため、そこからなんとも間の抜けた時間が流れた。由香と大貴の間に位置する窓際席の中年男性からは、微妙に居心地が悪そうな様子が伝わってくる。
そんな雰囲気に耐え切れなくなったのか、不意に立ち上がった大貴が、開けっ放しの乗車口まで歩いてきた。
「由香」
車内から体半分を出した大貴が恋人の名前を呼ぶ。しかしその後になんと続けていいのかわからないといった風に、大貴はうつむき加減にそわそわし出す。
乗車口まで歩み寄った由香は、立ち止まるとまっすぐ大貴を見つめた。
「大貴、仕事頑張ってね」
由香の言葉に大貴は顔を上げる。由香は笑顔だった。まるで、自分の選択を本当に応援してくれているようだと、大貴は感じた。そうだと信じたかった。
「……うん。お前も就活頑張れよ」
大貴は由香の言葉に促されるように応えると、それから「じゃあ、元気で」と告げ、車内に戻っていった。
ホーム上に発車ベルが鳴り響くと、由香の頭の中に、『すばらしい日々』のギターリフが流れ始めた。そして、三年近く続いた恋人との思い出が蘇る。
友だちに誘われたけれどまったく乗り気じゃなかった軽音サークルの新歓飲み会。そこで出会った二期上の大貴と、まさか一か月と経たないうちに付き合うことになるとは夢にも思わなかった。奥田民生が大好きで、音楽のことなどろくに知らない私に向かって奥田民生の楽曲のすばらしさを語る彼の姿は滑稽で、でもその純粋さに、私の胸は知らないうちに熱くなった。お金がないから遊ぶ場所はたいてい大貴のバイト割が使えるカラオケボックス。平日三時間の学生パックを目いっぱい使って歌い続け、飽きたらしゃべり続けた。バイトやメルカリで小遣いが貯まると、レンタカーを借りてお台場や湘南、横浜にドライブへ行った。ドライブ中にかかる曲はもちろん『イージューライダー』と『さすらい』。そして『風は西から』。あまりのベタさ加減には苦笑いするしかないけど、それでも、レインボーブリッジを眺めながら聴く『イージューライダー』は、本当に気持ちがよかった。
初めて大喧嘩したのは付き合って一年目の大みそかの大貴の部屋。私が作ったキムチ鍋を大貴が「酸っぱすぎる」と文句を言って、頭にきた私はそのあと一緒に行くはずだった明治神宮の初詣をキャンセルした。三が日の最終日、近所の小さな神社で引いたおみくじの恋愛運で「この人を逃すな」と書いてなかったら、別れていたかもしれない。
雨に祟られた一泊二日の伊豆旅行。毎年参加したフジロックとサマソニ。軽音サークルのみんなとKISSのコスプレしたハロウィン。バカみたいに混んでて、それでもやっぱり素敵だったクリスマス期間のディズニーランド。ただ同じ空間で、同じ時間を過ごすだけで毎日が楽しかった。そして、大阪の会社に就職が決まったと大貴が告げてきた、去年の春。お互いが別れを切り出せず、とりあえず「遠距離でも頑張ろう」とその場しのぎの微笑みを浮かべ、でもお互いに終わりを予感しながら付き合い続けた約一年。
そのすべてを「いい思い出」として振り返るときが、いつかくるのだろう。それでも今はまだ、二人の思い出はあまりにも明瞭で、鮮烈過ぎた。笑って振り返るには時間が、「すばらしい日々」が必要だ。
君は僕を忘れるから
そのころには君にすぐに会いに行ける
ゆっくりと動き出した新幹線を見送りながら、由香は震える声で「さよなら」と呟いた。
すばらしい日々 ゴカンジョ @katai_unko
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