破裂、する
溢水
第1話
いつの間にか、世界とわたしの境界線が曖昧になってしまって。わたしは、大きな大木やみずうみのなかに泳ぐ鯉、あなたが冬に吐く白い息なんかに、姿を変えて存在し続けていた。記憶は日を重ねるごとに遠のいてゆく。わたし自身、わたしが いつか黒髪の美しい、たったひとりの少女であったことを忘れているのだった。
*
「いつから生きているの」
紫煙をくゆらせながら問う少年の姿。いつの記憶だか、分からない。
「分からないけど、それでも ずっと よ。」
「ずっと?」
「うん、ずっと」
少年と目線を水平にして喋るのは、なんだか気持ちが良かったし、なんだか胸のうちが痒くなるような気がした。
「永遠に生きるのかな、きみって」
小さな火種を消して、もう立ち去ってしまう。硝子みたいに脆いものらしい、人間というのは。ちからを込めたら、骨は簡単にぱきぱきと折れてしまうし。煙草を持つ指の細さはわたしのことを驚かせた。
「永遠に生きるのなら、また会えるよね。僕たち」
*
あれから、またわたしは姿を変えながらもそこに存在し続けた。蛙になったり、水面の波になったりした。少年はもうずっとやって来ない。一度しか会わないのに、わたしは少年のことばかりを考える。柔らかそうな髪の毛、白くてきれいな手首の骨。細くて、折れてしまいそうな指。
「永遠に生きるのなら、また会えるよね。僕たち」。少年の言葉を、思い出す。永遠っていうのは、わたしはよく分からないけれど。きっと、たぶん そんなに長くはないものだろうと思うから。直ぐに会えるはずだ、と念じてみるのだった。
*
少年はもう、ずっとやって来ない。何日経っても、わたしがなにかに姿を変え続けていても。いつだって、現れない。さみしかった。身体が、どこか締め付けられるような。いても立っても居られない、そんなさみしさだった。少年の、薄い身体の線。
*
海のなかに沈むような、魚にばかり姿が変わるようになった。いつかわたしは、ここにあるみずうみを出て、大きな海へ行かなくてはならなくなっているらしい。ビワアンコウの雌に、姿が変わっていることに気が付く。深海魚になってしまったから、光りに近い水面の辺りは居心地がわるい。内臓が、破裂しそうになる。
「アンコウになったの、きみ」
「ビワアンコウになったのよ」
少年は、すこしくたびれているようだった。
「アンコウなら、こんなところに居ちゃいけないんじゃない」
「いまにも内臓が破裂しそうで、暴れてるの」
身体を捩ってみせた。鱗が光っている。
「死んでしまうの、きみ」
少年の眼に水が張る。
「また会えたのに、もうお別れなのね」
「切ないよ、切なくて、どうにかなりそうだ」
最後の力を振り絞って、低く跳ねてみると 少年の唇に水しぶきが数滴かかったのが分かった。瞬間、身体が内側から破裂するのを感じる。ぱん、という鈍い音を立てて、いのちはとうとう尽きてしまった。最後に見たのが、少年のかおで良かった。少年の、あの。薄く水が張った眼球に、どのわたしが焼き付いたろうか。深く、青い空は、どこまでも高いままだった。
破裂、する 溢水 @issu__i
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