根蓴菜

 さっと身を翻し、言い逃げのように早足で去っていく新たな小間使いの背に、紫於は一筋の、やや赤みを帯びた陽だまりの色の髪を見た気がした。

 それは、紫於にとって――支緒にとって、特別な女人ひとのもの。


『くくる、です』


 そう、同じ名を聞いたからだ。懐かしくて、真っ黒な気持ちを掘り起こされる、その名を。

 紫於は持っていた筆を置き、息を吐く。次いで先ほど、くくると名乗った小間使いが持ってきた食事に視線を向けた。


 なんとも、奇妙な気分だった。


 ここ数十年、紫於は常に同じ態度をとってきた。十五そこそこの小姓や小間使いたちがやってくるたび、なるべく接触を避け、言葉を交わさないように。

 彼らは皆、初対面の紫於の冷たい態度に委縮し、及び腰となり、そのうち紫於と意思疎通することをあきらめる。


 応答がないのに平気で部屋に入ってきたり、勝手に文字を読んでみせたりする者など、ひとりもいなかったのだ。

 しかも何の因果か、紫於にとって印象深いあの名である。終ぞ思い出すことを拒んでいた遠い昔の面影を見てしまった。


(九々流がここにいても、同じことをしそうだから……)


 自ら封じていた記憶が色褪せることなく、溢れ出す。

 彼女だったら、おそらく紫於の拒絶などものともせず、部屋に入って食事をとらせるだろう。別れの文を受けとってもなお、都まで紫於の意思を確認しにやってきたあの時と同じく。


『……私、あなたに会いにきたのよ』


 自然と思考が厳重に封じたはずのあの日に向かってしまい、紫於は奥歯を噛みしめる。どくり、どくり、と心臓が強く脈打ち、胸に痛みを覚えた。

 嫌だ、思い出したくない。紫於の心の中に棲む、幼いままの『支緒』が訴えてくる。


(そろそろ刻限だ)


 紫於はすべての感情を振り払ってその場に捨て、立ち上がった。

 最後に一度だけ、置かれた膳を振り返ったが、結局いっさい手をつけずに。



 ***



 大昔、まだ天地が分かたれていない始まりの時代。


 初めに、三つの種が生まれた。種は芽を出し、育ち、三本の大樹となった。これが『賢木さかき』、この世のあらゆる生命の源となる神樹であった。

 神樹が育ち、幹と枝の伸びたほうが天、根の広がったほうが地と分かれ。

 やがて、三本の神樹の枝から落ちた葉が根の上に積もっておかができ、それぞれ三つの島を作った。

 同時に、神樹のうちの一本である扶桑樹は、自身が生きるために光が必要であると気づき、その枝から十枚の葉を落として、十のたいようを生んだ。


 ――かわるがわる、己と陸を照らすように。


 扶桑樹は日に言い、照らし終わった日がその身の穢れを洗い流せるよう、根から清き水を溢れさせ、泉を作った。

 昼に大地を照らした日は、夜には烏の姿となって泉で洗われる。一日昼を作ったら、九日休み、また一日昼を作る。

 烏を洗い、御する役は、再び扶桑樹が一葉落として生まれた、ひとりの女神が請け負った。


 一本の神樹に、十の日と、ひとりの女神だけが生きる扶桑の島。

 長く、長く、彼らの生は続き、十の昼と夜を幾度も繰り返して悠久の時が流れた。


 しかし、しだいに烏たちと女神は、ただ扶桑樹を世話して過ごすだけの生に飽いてしまう。

 烏は扶桑樹と陸を照らすのを怠け、女神も役目を放り出して、彼らは何かにつけ争うようになった。

 世話を疎かにされた扶桑樹からは、枯れた葉がたくさん落ちた。落ちた葉の一葉、一葉は命となり、人や獣、草木が陸に満ちる。


 いつしか、島には生命が溢れていた。


 それを見た扶桑樹は、今までの十の烏のうちの九の烏と、女神をその任から解く。

 そして、新たに生まれた人々の中から自身の世話をする役に相応しい者を選び直し、新たな烏と女神――十日と大日女に任じた。

 新たな十日と大日女は、扶桑樹に仕え、また島に生まれた人々を統べるようになり、扶桑の島には扶桑樹の国が生まれたという。


 それが、今日の巫桑国であった。





 ――現在。常の国、巫桑国。


 神話の時代から今まで、神樹である扶桑樹から神力を分け与えられた、十の烏と女神たる大日女が頂点に立つ。

 彼らは神樹から任を解かれるまで老いず、生き永らえ、人々を導く。

 現在の大日女は、名を梓といい――紫於の斜め後ろの御座に座する美しい女であった。


「其方は、わたくしの命に背いたわね。どうして?」


 梓は丁寧に梳かれた艶やかな黒髪をするりと白い繊手で撫で、緩慢な仕草で首を傾げて問う。

 彼女の前でひれ伏す、身なりのよい男はその背を震わせながら答えた。


「こ、今年は一部の地域で天候の不順により、不作でありまして……例年通りに税を徴収しますと、貧しい者たちは冬を越せませぬ。それゆえ、致しかたなく税を――」

「わたくしは、税を下げるなと命じたはずね?」


 国司を務める男の説明を最後まで聞くことなく、梓が問い返す。

 男は息を呑み、そのまま黙り込んでしまった。それもそのはず、問われたことについて正確に答えたにもかかわらず、再び問いで返されてしまったのだ。


 そもそも、この場――新枝宮の奥、大日女との接見の間に呼ばれたときから、男は覚悟していただろう。

 大日女の命に背いた自身の行く末を。

 なぜなら、彼女に「民のためだから」という言い訳は通用しない。


「神樹の民が神樹さまのためにのみ存在していること、また、その神樹さまの守り手であり、代弁者たる大日女さまの命が絶対であることは、重々承知しております。ですが、我々貴族、そして国司の役目は、下々の民の暮らしを守ることにございます」


 浅い呼吸で、しかしひと息に告げた男に、しばし身動きを止めて静かな視線を向ける梓。

 長年の付き合いから、紫於にはそれが、事の前触れであるとわかっていた。


「言いたいことは、それだけかしら」


 梓の声音は、怒りも苛立ちも含んではいない。が、彼女は決して男を許しはしない。


「わたくしの命に背いたばかりか、そのように神樹さまとわたくしを軽んじる言葉を堂々と口にするなど……到底、見過ごせないわね」


 豪奢な錦の布地を張った肘掛けに寄りかかり、気だるげな、無造作な口調で梓は言う。

 その瞳がちらりと、紫於のほうを向いた。……初めの頃は、この目が嫌で嫌で堪らなかった。こんなことのために、十日になったのではないはずだと反発心を抱いた。


 けれど今は、何も思わない。感じない。ただ凪いだままの、空っぽの心があるだけだ。


「紫於、わたくしの愛しい烏。処分を、お願いするわね。さあ」


 紫於は黙って命じられた通りに立ち上がり、佩刀していた愛用の太刀を抜く。

 なお平伏したままの国司の男から明らかな恐怖が伝わり、傍らに控える紫於自身の部下からは軽蔑した目で射貫かれたが、紫於は気にせず抜いた太刀を構える。

 それをひと息に振り下ろして――板間に、はた、はた、と真っ赤な血が飛び、男の絶叫が響いた。




 紫於の手で『処分』された男はまだ息があるため、官人たちにより別の場所へ運ばれ、床の木板に散った赤は綺麗に片付けられた。

 室内には未だ生々しい鉄臭さが漂っているが、紫於は気にせず、己の頬に飛んだものを左手の甲で雑に拭い、大日女の前に跪く。


「紫於、ご苦労さま。いつもながら、わたくしの意を正しく汲んでくれるあなたには感心だわ」


 梓は、す、と御座から立ち、大日女にのみ許された紫の裳裾を翻して、跪く紫於の傍らに寄って膝をついた。

 その玻璃ごとき繊細な指先が、紫於の頬をゆっくりとなぞる。


「好きよ、紫於。あなたのその名も、心も、身体も、全部わたくしのもの、そうね?」

「ああ」

「あなたやわたくしには、互いしかいないのよ。さっきの者のように、只人の命は儚くて嫌になるわ。でもわたくしたちは違う。そうでしょう?」

「ああ。……おれも、同じ気持ちだ」


 何も考えず、ただ梓の言葉に頷きを返す。

 梓は満足そうにうっそりと微笑んだ。


「よかった」


 やがて、彼女は紫於たちを解放した。来たときは夕刻だったのに、すでにとっぷりと夜が更けている。

 黙って自分のねぐらへ向かう紫於の前に、ずっと口を開かず付き従っていた部下――十日のうち『きのと』の位にある青年、波矢知はやちが足を踏み鳴らして立ちはだかった。


「紫於。あんたが十日に選ばれ、ここに来てから何年になる」


 荒々しかった足取りとは裏腹に、感情を押し殺した声で波矢知は問うてくる。


 彼の外見は、むしろ紫於よりもやや幼い十代後半くらいであるが、彼自身は紫於よりも年上であり、長く十日を務める先達であった。

 きさづけの儀で烏を顕現させた紫於が上京し、新枝宮で暮らすことになったばかりのとき、よく面倒を見てくれたのも、彼だ。


「……覚えていない」


 紫於は波矢知の目を真っ直ぐ見返すことなく、短く答えた。


 そんなものを数えても、意味はない。

 十日や大日女の命は、神樹に見限られさえしなければ永遠に続く。しかも、争いが起きたり、役目を放棄したりしなければ……己の存在が脅かされさえしなければ、神樹は十日や大日女を不適格とはみなさない。


 例えば、梓は今年の秋口、国の西側一帯で不作になりそうだという報告と、西側の国司たちから税を下げてもよいかと問い合わせを受けた。

 だが、彼女はそれを許さなかった。

 税を下げるというのは、同時に神樹および国への捧げ物が減るということであり、すなわち神樹を軽んずる行為だ、という理由で。

 結果、自身の命を惜しんだ国司は税をそのままに、一部の農民を見殺しにする道を選び、今回、紫於の手で処分した男は、民のために梓の指示に背き、徴収する税を減らした。


 一連の梓の対応は、賢明な君主が聞けば眉を顰めるものだろう。

 けれども、そのような暴挙に出た彼女に、神樹が罰を下すことはない。何しろ、この手の身勝手な政をして、梓は九十年以上も大日女を続けてこられた。


 そもそも、大日女は神職の頂点であって、厳密には為政者とは異なる。

 無論、政を取り仕切る権限も持っているが、それを行使するか否かは歴代の大日女たち個人の判断に委ねられてきた。つまり、政で大日女が何をするかは神樹にとって大事ではないのだ。

 よほど国に損害を与え、神樹の生命存続にかかわる事態に陥らなければ。


(大日女さまは儀式などの祭祀をきちんとこなしている。十年に一度、大日女としての適性を問われる『はかりの儀』も幾度も通過してきた。神樹の怒りに触れる行為はしていないのだろう)


 苦痛な年月を数えても、終わる見込みのない生に絶望を重ねるだけ。紫於はこの九十年近くの長き十日としての生ですっかり悟った。


 紫於の態度に、波矢知は嫌悪感を露わにする。


「九十三年だ。僕たちはいつからあんな暴政を看過するようになってしまった? あれをあのままにしておいて、黙って従うだけで、どうして良いと思える?」

「……そう感じるなら、君が異を唱えればいい。おれも君も同じ十日なのだから、大日女さまに諫言する権利も義務もある」

「同じではない!」


 波矢知は前のめりになって声を荒らげた。


「同じではないからこうして言っているんだ。大日女さまが耳を貸すのはあんたしかいない。まさか、このままでいいと思っているわけではないよな?」


 紫於は何も答えないままに、立ちふさがる波矢知の脇を通り抜ける。


 彼の論のほうが正しいことくらいわかっている。大日女の暴虐は度を越しているし、彼女を諫めるのは十日の仕事。大日女と十日は、同じように神樹から神力を授かった身ゆえに。

 それを誰も変えようと動くことなく、何十年も、ただ停滞した時間を過ごしている。


 だが、紫於には行動を起こす意欲がまったくなかった。いや、長い年月をかけて、じっくり丁寧に削がれてしまった、というほうが正しい。

 梓に異を唱えてその結果、何が起きたか。波矢知とて、忘れているわけではなかろうに。

 波矢知は追ってはこなかった。そのまま、紫於は自身の小さな住まいに戻る。


(そういえば――)


 見慣れすぎてうんざりする自らの住まいを見て、ふと、夕方に「くくる」と名乗った少女の姿を思い出した。

 よく考えれば、その名の少女を放ってはおけない。そのままにしておいて、梓の耳に入ったらきっとただではすまない。


 何らかの手を打つ必要がある。


『ありがとう、支緒。私、待っているね』


 今の紫於を九々流が見たら、どう思うだろうか。大日女の言いなりになって、民を苦しめる手伝いをしている紫於を見たら。


(いいや、おれにそんな想像をする資格はない)


 九々流の思いを踏みにじり、あったはずの絆を引き裂いたのは、支緒自身。彼女が命を落とすきっかけになったのも。


 あれから、八十八年経ってもまだ……後悔は消えない。

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むすび葉の恋 顎木あくみ @agitogi_akumi

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