玉鬘 二

「わたしは、あなたさまの新たな小間使いを仰せつかった者です」


 少し息を吐き、冷静さを取り戻してから、くくるは静かに答える。


 二人と一羽しかいない部屋中からはそれきり音が消え、わずかな黴臭さと、しんとした空気の流れだけが満ちる。

 男は黙したまましばし記憶の糸を手繰り寄せているようで、しかし、それが完了しても警戒を解く素振りを見せない。


「なぜ、名を呼んだ」


 官人はくくるに、この男の名を教えていない。貴人の名を下々の者がみだりに呼んではならないので、仕える相手の名を知らなくとも不都合がないのだろう。官人自身も、『若君』としか呼んでいなかった。

 ゆえに、くくるが彼の名を呼ぶのは、非常におかしなことだった。

 誤魔化しは通用しなそうだ。男のやや血走った泥色の瞳は、少しの異常も逃すまいとくくるを見つめている。


(どう説明すれば)


 莫迦正直に、「わたしは九々流の生まれ変わりで本人だ」などとは絶対に言えない。

 彼が本当に支緒だとして、その事実は共有しないほうが互いに幸せだろう。素直に再会を喜ぶにはいろいろとありすぎて、抱えた感情は複雑になりすぎた。


「……書面に」


 くくるは悩んだ末、周囲に散らばった書物や書簡に必死に目を凝らしながら答える。


「お名前が記してありました」


 幸いにも、目当てのものは視界に入る範囲内で見つかった。

 署名をし、印を捺した、おそらく国の運営にかかわる書簡が文机に広げて置いてある。彼の名を知りたくて、この書面を見ながら声に出して読んでしまった、ということにすればいい。


 けれど、見つけた書面に書いてある署名欄の文字列をよく見ると、くくるは冷や水を浴びせられた気持ちになった。

 欄には、こうあった。


 ――十日、甲。紫於しお


「……そうか」


 男は未だ怪訝な表情をしつつ一応は納得したようで、掴んでいたくくるの手を離す。

 悪寒が背筋を走り、身体が震えている。それを、男――紫於は、くくるが怯えているのだととったらしい。

 そうではない、そうではないけれど、深く何かを考える余裕は、今のくくるにはなかった。


「し、失礼しました。また来ますので」


 必死になんとかそれだけ言い残すと、くくるは一目散に自室へと戻った。




 与えられたばかりの自室には、当然ながら何もない。

 くくるは慌てたまま、物のない空虚な部屋の中に居たたまれなさを感じながら、板戸で仕切られた隅に蹲る。


(どうして、支緒の名が変わって……)


 同じ顔をし、同じ十日の甲の位にあり、名も同じ『しお』。彼は、支緒で間違いないのに、どうして。


 息を整え、平静を取り戻してから、くくるはあらためて考える。


 あの書面には、『紫於』と書かれていた。紫は、巫桑国において、公式の場で大日女しか身に着けることを許されない貴色とされる。つまり、普通は名前に『紫』という文字は使わないし、使ってはならない。

 だというのに、支緒は堂々と使っている。公文書にまで。

 であれば、支緒は『紫』を自由に扱える唯一の人物、大日女から新たな名を賜った可能性が高い。


「わたし、莫迦みたい」


 冷静に判断すれば、動転するような出来事ではない。

 支緒が支緒ではなかった、そんな些細なことでこれほど取り乱すなど、今もなお強く彼を意識し続けていると証明したようなものだ。

 あんなにひどい別れ方をし、裏切られて深く傷ついていたのに、である。


(でも、捨てなくちゃ)


 九々流の心の名残りは、今のうちに捨てておかねばならない。なにしろ、別れはすぐにやってくる。

 くくるが支緒――紫於に仕えていられるのは、長くて一年と少し。きっとあっという間に過ぎていく短い期間だ。


 忘れよう。


 死の瞬間がどのように訪れるのかは、くくる自身もわからない。だが、今日のこの距離を保ったまま、出会ったばかりの他人の距離のままで過ごしたほうがいい。

 でないと、紫於がどう思うかはわからないが、くくるのほうがつらくなる。

 しばらく蹲ったまま、くくるは九々流の心の残滓を丁寧に胸の奥深くにしまいこむ。


(動揺しないのよ、わたし。この十五年間で、感情を削ぎ落とすのは得意になったじゃない)


 前の生では考えられなかった、辛酸を舐める暮らしをして、心も身体も傷を隠すのは上手になったと自負している。

 いつも通り、何事もなかったかのように、『九々流』ではなく『くくる』として過ごすのだ。


 くくるは気持ちの整理をつけてから、気を取り直し、炊事場へと足を運んだ。


 炊事場は小間使いの部屋の隣、板戸を開けた先の一段低い土間に、小さな石の竈と水瓶、木製の台の上に包丁や菜箸などの道具と、少ない膳や器類が置いてあるだけだった。

 農民の家ならこれが普通だが、貴人の住まいの炊事場としては、ずいぶん貧相である。

 しかも、竈はしばらく火を入れた様子がない上に灰と煤が溜まり、水瓶は中に蜘蛛の巣が張っていて、底のわずかに残った水面に塵がたくさん浮いている。

 これでは、とてもすぐには使えない。外に目を遣れば、すでに日が傾き始めているというのに。


「今まで、どう過ごしてきたのかしら……」


 まさか、水路から直接水を飲んでいたとか。


 それが悪いというわけではない。この国では、国全体に大小さまざまな水路と、その底に神樹の根が張り巡らされていて、生活用水はすべてそこから汲む。

 水路の水は神樹の力で常に清浄に保たれているので、直接飲んでも、汲んで飲んでも同じことだ。むしろ、水路から汲んだあとの水は時間が経てば経つほど清浄さを失う。

 だからといって、貴人が水路から直接――となると、見栄えも行儀もよくない。


(……支緒はきちんとしていた、けれど)


 もう比べても仕方がない。名と容姿が変わってしまったように、彼の生活とて大きく様変わりしているのだろう。


「でも、食事の用意はどうしたら」


 汚れた道具はすぐそこにある水路を使って洗えばいいとしても、材料がない。

 今までどうしていたのかと紫於に訊きたいところだが、あの様子では素直に答えてもらえないだろう。小間使いを煩わしいとしか感じていないようだから。


 悩みながらも手は動かそうと、くくるはまず、水瓶を抱えて水路に向かう。


 水路の水は、澄みきっている。

 巫桑国では水に困ることはいっさいない。大日女が世話をし、十日が照らす神樹は、その根から清き水を無限に溢れさせている。

 流れる水に手を浸すと、凍るように冷たい。水瓶を洗い始めると、あっという間に指先が赤くなった。


「早くしないと」


 じきに暗くなる。そうしたら、汚れが見えなくなってしまって都合が悪い。


 日が落ちきる前に、こびりついた頑固な汚れやぬめりを急いでなんとか落とし、くくるは綺麗になった水瓶に水を汲んで炊事場へ戻ろうとした。

 すると、新枝宮の主屋のほうから、真っ赤な夕日に照らされ、二つの積み上げた膳を持った小さな宮人らしき人影が近づいてくるのが見えた。


「あれ、あなた……ああ、そうだった。今日からまた変わったのだっけ」


 宮人は前方に立つくくるの姿を認め、初めに小首を傾げてから、納得したように呟く。


 年の頃は、くくると同じくらいか。宮人の少女は大きな目の愛嬌のある顔立ちをしていて、背はくくるよりもわずかに高い。

 くくるは水瓶を置き、目上の立場の者にするように少女へ膝を曲げ、頭を下げた。


「え、ちょっと……私にはそんな礼はいらないよ。立場はあまり変わらないんだから」


 宮人の少女は目を丸くし、早口でそう言いながら足早に土間に入り、膳を炊事場の台の上に置く。

 おそらく、膳は紫於とくくるの分の夕食だろう。高貴な身分である紫於は当然としても、くくるの分まで満足なものを用意されるとは思っていなかったので、内心で驚く。


「申し訳ございません。物を知らなくて……」


 姿勢を元に戻してから、くくるが謝ると少女は「仕方ないわ」と嫌みなく笑う。


「宮中の作法を、外から来た人が詳しく知っていたらそのほうが問題だからね。見たところ、あなたは今までのここの小間使いの中でも、ちゃんとできているほうだよ。所作に品があるもの」

「そうでしたか」


 褒められているわけでもないだろうと、くくるが素っ気なく返せば、土間から一段高い上がり框に腰かけた少女は、また目を瞠って瞬きした。


「私、冬衣とえというの。ここに食事を運ぶのは、だいたい私の仕事ね。あなたは?」


 ここへきて初めて、名を訊かれた。

 新枝宮ではここの小間使いに対して、あの官人のような態度をとる人間だけだと思っていたので、少し意外だった。


「くくるです」

「くくる、かぁ。可愛らしい名前ね。それに、面白いわ。あなた」


 冬衣はくくるを上から下まで、あらためてよくよく眺めてひとつうなずく。


「私、十の頃から同じように食事をここへ運んでいるけれど、あなたみたいにおどおどしていない子は初めてだよ」


 確かに、くくるは、物怖じしていないかもしれない。

 宮中での仕事に気後れがないとは言わないが、そもそも売られた時点でまともに残りの時間を過ごすのは難しいと覚悟していたし、ここに到着したらしたで紫於に会ってしまうという重大な問題に直面した。


 余計なことを考えて、何かを恐れる余裕はまったくなかったのだ。


「……冬衣さま、は」

「冬衣、でいいよ。くくる」

「冬衣は、前に私と同じ仕事をしていた人たちに詳しいのですか?」


 訊ねると、冬衣は視線を宙へさまよわせ、小さく唸る。


「ううん、詳しいってほどではないの。今までの子たちは見た目からして、たぶん生まれ育ちが貧しかったんだろうけれど……さっきも言った通り、皆おどおどしていて、話しかけてもあまり会話らしい会話が続かなかったから」


 なるほど、これまでの小姓や小間使いもくくると似た境遇の者たちだったわけだ。

 さづかりぞこないだったかはわからないが、実家が貧しく、売られたような者たちだったのだろう。


 くくるは前の生の記憶があるから普通にしていられるけれど、生まれが違えば、言葉遣いや振る舞いなど明らかに異なったはずだ。

 誰でもひと目でわかるくらいには。

 言葉遣いひとつ違うだけで、会話が嚙み合わないこともある。だからこそ、前の生を引きずっているくくるは、故郷で浮いていた。


「そうだったんですね……」


 自分とは逆に、農民の生まれでありながら宮中に放り込まれ、浮いている子どもを想像し、くくるは胸が苦しくなった。


「うん。でも、私がここの食事を運ぶ仕事に就く前は、身分の高い子どもも何人か小姓や小間使いをしていたと聞いたことがあるよ。ただ、どの子も例外なく、一、二年でやめてしまうのだけれど」

「やめてしまう……のですか? どうして?」

「そこまでは知らないなぁ。だいたい、ある日突然、辞めたらしいって連絡が回って、しばらくしたら新顔に変わっているの。だから――」


 冬衣は、いったん言葉を切り、そっと顔をくくるの耳元に近づけ、聞こえるか聞こえないかくらいまで声を低くして囁いた。


「『甲さま』が、買ってきた貧しい家の子どもを十分に太らせてから、殺して食べてしまうのではないかって、噂している人もいるよ」

「まさか」


 甲さま、とは、十日の十ある位のうち、最上位である『甲』の位に就いている者を指しているのだろう。すなわち、紫於のことだ。


 紫於が子どもを殺して食べている? とんだ荒唐無稽な噂話だった。


 十日とて、神力を持ち、不老不死ではあるが、絶対に死なないわけではなく、その暮らしぶりは人と変わらぬという。

 人が人を食らうのは、世の理に反する大罪だ。

 莫迦莫迦しい、という、くくるの気持ちが表に漏れていたのだろう。

 冬衣は、眉を下げ、笑って両手を振る。


「そうだよね。さすがにそんな話、私も本気にはしていないよ。……ただ、ね」


 ――あの、甲さま、だから。

 続く冬衣のどこか含みのある言葉は、苦々しく、また、微かな畏れが滲んでいた。

 どういう意味だろう。あの、という言い方は、何かまた別の噂や事情があることを示唆しているような気がする。


「それって……」

「ごめんね、なんだか話しこんでしまって。早く戻らないと、上役に怒られる」


 そう言って、冬衣はぱっと元気よく立ち上がる。

 わざと会話を打ち切られた、と考えるのは、深読みしすぎであろう。けれど、紫於の噂についてはこれ以上聞けなくなってしまった。


「あ、膳は下が甲さまのお食事で、上があなたの食事ね。何か不足があったら、次の食事のときに言って。食事が終わったら器はすすいで置いておいてね、次のときに回収するから」

「わかりました」


 主屋のほうへ帰っていく冬衣の背を見送り、くくるは小さく息を吐く。

 ほとんど唯一のかかわりとなるに違いない宮人の冬衣が、気難しい付き合いづらい人でなくてよかった。

 それにしても。


(紫於の噂……やっぱり、何かわたしの知らない事情がありそうね)


 莫迦莫迦しい噂ではあるが、冬衣の口ぶりから察するに、少なくない人間がその噂をしているのだろう。

 だとすれば、噂が本当かもしれないと大勢に思わせる何かが、紫於にはある。

 また、くくると似た経緯でここへ来たと思われる前任者たちがことごとく一、二年で辞めているという事実。


 積極的に探っていくつもりはないが、気に留めておいたほうがよさそうだ。


(自分の身に降りかかる火の粉を警戒しているだけよ。紫於を意識しているわけではないわ)


 誰にともなく言い訳じみた思考をし、くくるは急いで冬衣が運んできた膳を確認する。


 綺麗に磨かれた美しい漆塗りの器に、白米や焼いて塩を振った鮎、芋の煮つけ、根菜の漬物、貝の汁物などが盛りつけられていた。

 作られてからいくらか時が経っているようで、どれも冷めたり、表面が少々乾いたりしている。


 紫於の分は品数と量が多く、くくるの分は少ないが、それでも実家での食事と比べると雲泥の差なので文句をつけるつもりは毛頭ない。

 農民はだいたいが米ではない穀物を蒸した飯に青菜と、時たま川でとれた魚や罠にかかった鹿や猪の肉を食べる程度だ。それも、不作だった今年の冬はなお難しい。

 売られたくくるのほうがいいものを食べることになろうとは、両親も想像していなかっただろう。


 くくるは膳を持ち、紫於の部屋を訪ねた。

 せめて白湯くらいは共に用意したかったが、水は汲めるようになってもまだ竈が使えないので、どうしようもない。


「失礼いたします」


 つい先刻の出来事などなかったかのように、平静を装って声をかける。しかし、やはり返事はない。

 簾の向こうには行灯の灯りが見え、微かに動く人の影と、筆と紙の擦れる音が聞こえているのに、だ。


 居留守か。はたまた、小間使いの声など聞こえぬとでもいうのか。

 この調子ではますます料理が乾き、くくるもいつまでも食事できないし、次のことに取り掛かれない。


 返事を待つのは、やめにしよう。

 くくるは開き直り、未だ応答のない簾の内側に足を踏み入れる。


「お食事をお持ちしました」


 くくるは淡々と告げて散らかった床を注意深く歩き、わずかに空いた場所へ膳を置いた。

 その間、紫於は文机に向かい、書面に筆を滑らせていて、くくるのほうを一瞥すらしない。


 だが、くくるにとってはむしろ、こちらのほうがやりやすいかもしれなかった。会話をしなければ、くくるが九々流であることも紫於は永遠に気づかないだろうし、仲良くしなけば、最期の別れもきっとつらくない。

 しばらくしたら、器を取りにまたこよう。

 くくるが黙ってそっと部屋を出て行こうとすると、そのときになってようやく、紫於が文机から視線を上げた。


「……そなた」

「はい」


 今さら話しかけてくるくらいなら、最初からちゃんと受け答えしてくれればいいのに。

 くくるは恨みがましく思いつつ、刺々しさを含ませた口調で答える。


「なぜ、無断で入ってきた」


 無断で、とは心外な。

 入室する前には断ったし、食事を置いてもなお何も言わず、無視し続けたのは紫於のほうだ。

 恨み言を言っても仕方ないので、決して口にしはしないけれど。


「お返事がありませんでしたので……申し訳ございません」


 その場に膝をつき、平伏して謝罪する。

 ふわりと漂う床板の木の香りは、どうしてか幸せだった前の生をほのかに思い起こさせる。郷愁に似た懐かしさのようでもあった。


「そう、だったか」


 ほんのわずかなばつの悪さを滲ませた言葉に、くくるが知る――九々流が知っていた支緒の面影が垣間見えた。

 どうしても昔との繋がりを探してしまう自分が嫌になる。わかっている、無意味だ。そんなものを探しても、あの日々は戻ってこない。

 支緒は九々流を拒絶し、九々流はくくるとなったのだ。


「いえ、では失礼いたします」


 閉じても閉じても溢れる感傷に内心で自嘲し、くくるは立ち上がる。けれども、そのまま踵を返したとき、再び紫於が口を開いた。


「そなた、名は?」

「……くくる、です」


 別に、覚えていなくてもいい。


 ただ、ひと欠片でも彼の記憶に、前の自分の記憶が残っているなら……そしてもし、九々流の最期を知るのなら、この名を聞いて何かを感じるだろう。


 自分ばかり昔に縛られて、不公平だ。


 このとき素直に名乗ったのは、そう思ったくくるの、小さな、小さな、いたずら心だった。

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