玉鬘 一

 ――蒼穹に溶け込んだ雲のような、淡い青を含む白縹の髪と、強い光と仄かな熱を滲ませた鬱金色の瞳。


 九々流が大好きだった、支緒の色彩。

 簾の隙間からこちらを見下ろす青年に、それらは存在しない。


 白糸の流れに木炭を紛れ込ませたような濁った髪の色も、沼底に溜まった澱を思わせる鬱々とした瞳も――支緒とは、似ても似つかない。

 けれど、彼の顔の造作は、かつて九々流が愛した男そのものだ。ある程度の不健康そうな影は垣間見えても、当時のそのままであった。


 咄嗟に、くくるは驚愕を抑え込む。


 今のくくるは、九々流ではない。名も必要とされない、下働きだ。

 そのような者が、官人から「若君」と呼ばれて敬われている彼に、何かを問いかけたり、反応を示したりしてはならない。


「若君。この者が若君の、新たな小間使いにございます」


 官人は神妙な態度で、男にくくるを紹介する。

 男の目はこちらを見ているようで、何も映していないようだった。瞳はそこにあるのに、まるで節穴を向けられている心地になる。


「いらぬ」


 男が返したのは、短い拒絶の言葉のみ。その声は淡々とし、感情など微塵も感じられない。

 すると、官人はみるからに慌てて、男へ言い募った。


「そ、そうおっしゃいましても、御上は必ず若君に小姓ないしは小間使いをつけよとおおせで……若君がそれらを必要としていらっしゃらないのは重々承知なれど、どうかご了承いただきたく」

「……勝手にせよ」


 官人が言葉を重ねれば重ねるほど、男の眉根が寄る。

 男は会話を交わすことすら厭うのか、煩わしそうにすとん、とひと言だけを残して、再び簾の向こうへと引っ込んでしまった。

 その途端、大きく息を吐き出した官人は礼の姿勢を解き、くくるを見下ろした。


「今の方が、お前がこれから死ぬまでお仕えすべきお方だ。くれぐれも失礼のないように。少しでも打ち解けられるよう、努力せよ」

「はい」


 ――関心を引け、打ち解けろ。

 官人は先ほどからそのようなことを言うが、是と答えながらもくくるは内心、納得しかねていた。


 くくるは『さづかりぞこない』だ。


 成人の儀である『きさづけの儀』で、巫女に将来が見えないと匙を投げられた者、それが『さづかりぞこない』。

 本来、成人の儀では、人々は授かった神樹の葉を呑み込み、すると儀を取り仕切る社の巫女から将来についての神託が下される。

 例えば、その者がどんな職業に向いているだとか、誰と婚姻を結ぶべきだとか。あるいは、いつ頃にこういう作物を植えたほうがいいだとか、何年後かに運よく大金を手に入れるだろうだとか。

 そういった神託を下されたのち、桑紋と呼ばれる、小さな葉を模した紋章が体表のどこかに浮かび、成人と認められる。


 一方、さづかりぞこないは、将来が見えないと言われた者。

 すなわち、長く生きられず、桑紋も表れなければ、神樹に神樹の民と成ることも認めてもらえず、死後の魂が神樹の許へ還ることもない、はぐれ者を指す。

 若くして死ぬ運命にあっても、それを回避できる道があれば神託は下る。かくいうくくるも、前生では早逝したが確かに桑紋もあったし、神託ももらっている。

 神託が下らないというのは、もうどう足掻こうが命を落とす運命は変えられない、打つ手なしという意味にほかならない。

 ゆえに、さづかりぞこないの存在は珍しく、また彼らの命は例外なく、成人の儀から一、二年の内に確実に枯れ落ちると言われていた。


 くくるが売られた理由のもうひとつが、それだ。

 ただでさえ不作で貧しいのに、残り数年も持たずに死ぬ者に飯を食わせるなど無駄の極み、というわけである。


 官人のつい先ほどの言を振り返るに、彼はくくるがさづかりぞこないであると承知したうえで、くくるを買った。であれば、くくるの命が持ってあと一年と少々であることも当然知っているはず。

 それなのに打ち解けろというのは、ひどく酷な話ではなかろうか。

 仲良くなればなるほど、別れがつらくなるだけというのに。

 密かに首を捻りながらも、それをおくびにも出さず、くくるは官人の話を聞く。


「生活に必要な物は、部屋にすべて揃っている。前任者たちの私物も使ってよい。特に、服はすぐ着替えるように」

「はい」

「炊事、洗濯、掃除。そのくらいはできるのであろうな? 何でもよいが、かの方の機嫌を損ねる真似だけはするでないぞ」

「はい」


 ひとしきり注意事項を述べた官人は、満足したのか、鼻を鳴らして大股で去っていく。

 官人の後ろ姿を見送ったくくるは、ため息を呑み込みながらようやく、こじんまりとした建物の中へと進んだのだった。




 この別棟の主へのくくるの紹介は済んでいるということにして、くくるはまず、官人に教えられた、小間使いのための部屋を訪れた。


 中にたいしたものはない。

 くくるがどうにか足を伸ばして寝られるほどの広さの板間で、隅に畳んで置かれた寝具と、葛籠がひとつあるだけだ。

 蓋をとった葛籠の中には、いくつかの衣類に、あまり使われていなそうな筆、簡素な安物の簪と櫛、数枚の手拭いが入っている。

 衣類の内容は、麻の布地を用いた小袖や裳、男性用の水干や袴。それぞれ大きさや色柄もまちまちで、どうも別々の者の持ち物らしい。

 また、たいそう年季が入り、何度も着られて擦り切れているものもあれば、まだ縫われて数年しか経っていない新しそうなものもある。


 くくるは、葛籠の中では割り合い、古びたり擦り切れていない薄緑の小袖を手にとり、身に纏う。

 それほど高価な着物ではないが、今の、麻袋に首と手足の分の穴を空けただけのような、粗末な上下よりましだ。


「着物の着方を忘れていなかったのは、幸いね」


 まともな服装をし、自身の姿を見下ろすと、前の生が嫌でも思い出される。

 九々流の生まれた郡司の家は、国の中では裕福なほうだった。

 学問をおさめることもできたし、衣の布地は麻でも色つきで、古着でないものを着ることもできた。

 麻袋ではなく、このような小袖をいくつも持っていた。


「……でも、見た目はずいぶん変わってしまった」


 鏡なんてたいそうな物がなくともわかる。


 美人と讃えられた九々流と違い、藁色のごわごわとした髪に平凡な黒の瞳のくくるには、このような可愛らしい小袖は似合わない。

 生まれの違いをまざまざと思い知らされる。

 しかし、どんなに分不相応なちぐはぐさでも、官人に指示された手前、着替えないわけにはいかないし、さすがに麻袋のような服装では宮中に相応しくない。


(仕方ない)


 諦めから、くくるは大きく息を吐く。

 どうせあと、たった一、二年の辛抱。似合っていようがなかろうが、仕事ができれば問題なかろう。


(いよいよ――あの、高貴な方と対面ね)


 着替え終わったくくるは、葛籠の中にあった櫛を使って髪を整え、簪で簡単に括って部屋を出る。


 廊下はやや、埃っぽい。

 何十日も放置されていたわけではなさそうだが、少なくとも十数日は掃除されていないように見える。

 おそらく、前任者が辞してから今日まで、誰も掃除していないのだろう。


(高貴な方のはずなのに)


 あの、支緒によく似た青年は、もしかしたらひどく嫌われているのかもしれない。あるいは、青年自身が周囲を寄せ付けないのか、その両方もありうる。

 どちらにしても、小間使いとなったくくるにとって楽な職場ではなさそうだった。

 下ろされた簾の前にくると、くくるは小さく深呼吸する。


(……この先に)


 脳裏には、鮮明に愛しく思っていた男の顔が焼き付いている。けれど、そこに怒りや憎しみの感情はない。燃えるような激情は、この十五年にすっかり失われた。

 ただ、深い悲しみ――それだけが、今もずっと渦巻いている。


(落ち着いて、私のすべきことはひとつよ)


 これから会う人物が、本人でもそうでなくても。残り少ない命しかないくくるがすることは、変わらない。任された、彼の世話のみだ。


「失礼いたします」


 はるか昔に教わった礼儀作法を記憶の底から掘り起こし、簾の向こうに声をかける。


「…………」


 心臓が早鐘を打つのを感じつつ、じっと応答を待つ。だが、一向に何も返ってこない。

 普通、答えがなければ入室しないのが作法というもの。とはいえ、このまま引き返しては、物事が進まない。世話は、主人を知らねば万全に行えないのだ。


 くくるはやや逡巡してから、「失礼いたします」とひと言断り、軽く簾を避けて室内にそろりと足を踏み入れた。


 貴人の私室は、先ほどの小間使いの部屋よりも広い板間だった。ただし、建物自体が大きくないので、広いといっても八畳くらいにとどまる。

 それよりも、物が少なかった小間使いの部屋と比べると、この部屋は相当散らかっていた。

 床のあちこちに書物の塔が築かれ、書き損じらしき紙屑が転がる。また、黒ずんだ染みのある衣類や布類、使ってから洗われていない様子の酒器や食器まで。

 埃に、黴に、蜘蛛の巣。ざらりとした床の表面に散るのは、土や砂の粒か。まるで、汚れという汚れがこの部屋に集められているようだ。


「き、汚い……」


 つい、本音が零れ落ちる。

 くくるは声に出してしまってから、はっとして口を覆い、部屋の主の姿を探した。すると、思わぬ小さな漆黒の瞳とぶつかり、肩が跳ねる。


(……烏)


 思わず、両手で口元を押さえた。


 部屋の隅に大きな止まり木が設けられており、上に大人の上半身ほどはありそうな巨躯の真っ黒な鳥がじっと止まっている。

 目が合ってもぴくりとも動かない烏は、まるで置物のよう。

 だが、得も言われぬ畏怖と寒気が胸に湧き上がり、それが置物でもただの大きな烏でもないのをくくるは瞬時に理解する。


「大烏、いえ……日烏にちう、さま?」


 この国に十羽のみ存在し、神力を持つ神鳥。太陽の化身とされ、不死のその身には神樹から分け与えられた神力を宿す。尊称は『日烏』。

 くくるは、前の生で見た、きさづけの儀の光景を思い出しながら、目の前の神鳥に対し礼の姿勢をとる。


「――奇妙な」


 烏が、抑揚のない声音でひと言告げた。

 聞いただけで震えそうになるのをこらえ、首を垂れる。

 日烏は、人語を解す。彼らはただの鳥と違い、神霊の類であるからだ。形こそ鳥であり、実体もあるが、神が人ごときの言語を解さないわけはない。


(でも、奇妙って、どういう意味かしら)


 日烏の意図ははかりかねるが、ひとまず置いておくことにする。何だって構わない。元より、くくるの存在はどこもかしこも奇妙だ。


「これから、こちらで厄介になります。よろしくお願いいたします」


 くくるが言うと烏は何も返さず、また微動だにしなくなった。

 ここに留まることを承認されたのだと判断し、もう一度一礼してから、くくるは再び部屋の主の姿を探す。


 室内の最奥に帳の下ろされた御床があった。あの青年の姿があるかと思ったが、人影らしきものは見つけられない。

 ではどこに……と再度視線を巡らせて、床に散らばった雑多な物たちの間、簡素な籐製の寝床兼座所だろうか、低い台のようなところに人が寝転がっているのを認めた。


 そろり、と忍び足で、近づく。


 濁った白糸の髪が、籐製の座所から流れこぼれて床にまで広がっている。横たわった男の澱の沈んだ瞳は閉じた瞼に隠れており、顔色はひどく青白い。眠っているようだが、死んでいるかと思うほど呼吸は小さかった。


 ――彼は、支緒だ。


 間近で見て、くくるは、はっきり確信する。


 最後に会ったときと外見の年齢は変わっていない。二十そこそこの、淡い幼さを奥に秘めた、細身のようで骨ばって逞しい身体つきをしている、大人の男。

 はるか昔、九々流は傷つけられた。深く、深く傷つき、そのまま死んだ。絶望と悲哀が胸に満ち、憎しみよりも虚しさと「どうして」という疑問ばかり抱いて、何も解決せぬまま。


 けれど、本人を前にして、彼が支緒だと確信して、どんな思いが一番に湧いてきたといえば、涙が出そうなほどの歓喜に違いなかった。

 心に満ちていた悲しみと新たに生まれた喜びが、混ざり合って涙となって流れていくようだ。……実際に泣くことはなくとも。


(呆れるわ。わたしに、まだこんな感情が残っていたなんて)


 くくるは、男の顔を覗き込んだ状態で無意識にそっと手を伸ばす。

 だが、視線の先にあるものを見つけて、動きを止めた。彼の首に、首飾りのような、少しくたびれた紐がかかっていたからだ。同時に、――まさか、と思う。


(いいえ、そんなはずない)


 軽く、頭を横に振る。


 支緒が旅立つ前夜に九々流に贈った、あの首飾りではないだろう。あれは、九々流の命とともに失われた。仮に燃えていなかったとしても、あのような小さなものを焼け跡から誰かが拾ったわけもないし、ましてや支緒に手に渡るなんてありえない話だ。

 そもそも、支緒は九々流をどうとも思っていなかったのだから。

 恥ずかしい妄想をしてしまった。どうやら、くくるの思考までかつての最愛の人との再会で浮かれているらしい。


「……支緒」


 けれど、だからだろうか。ぽつり、とその名が唇からこぼれた。


 刹那。

 ぱっと、眠っていた男の目が最大まで見開かれる。驚いたくくるが身を引くよりも速く、男は上体を起こしてくくるの伸ばしていた手を強く掴む。

 しまった、と思う暇もないほど素早い動きだった。


「誰だ、お前は」


 殺気を帯びた鋭い眼光に貫かれ、くくるは言葉を失う。

 ついさっきこの男は支緒だとはっきり思ったにもかかわらず、似ても似つかぬその瞳に射貫かれた瞬間、自信は儚く薄れていった。


 最期のあの日でさえ、彼はこんな目をする人ではなかった。

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