水鳥

 稲の刈り取りも終わり、山の木々は葉を赤や黄に染め、肌寒さが身を刺すようになってきた季節。


(空が、高い……)


 見上げた秋の高く青い空を、蜻蛉がすい、と飛んでいく。空も、木々の色づきも、広い田畑も――すべて、十五年の人生ですっかり見慣れた、故郷の風景だ。

 はこの日、土埃に塗れ、随所が朽ちてささくれた木の荷車に乗せられ、生まれ育った農村を離れようとしていた。


「お前の家族は運がいい。お前には、それなりの値がつくからな。田舎の小作人なら、冬を越して余りある金さ」


 くくるを乗せた荷車を引く馬の手綱を握るのは、人買いの男。

 がたごと、と大きく揺れながら、馬車と呼ぶには粗末な荷車が、凸凹の田舎道を走り出す。


「そうですね」


 くくるは淡々と、粗末な麻の衣から伸びる枷を嵌められた己の手足を見つめ、答えた。

 自分が身を売ることで、不作により今年は冬を越せるかわからなかった家族が生き延びられるなら、これでよかったのだろう。


 けれど、生まれてから十五年過ごした村を振り返っても、その家族の見送りはない。野次馬じみた物好きな村人が数人、好奇の目を注いでくるのみだ。

 誰も、くくるとの別れを惜しまず、寂しさなど抱かない。その心にあるのは、わずかな安堵くらいであろう。


「それにしても、十五とはいえ、自分が売られるってときに、お前ほど落ち着いているのも珍しいや。そういう奴は、俺は好きだぜ」

「……ありがとうございます」


 前方から目を離すことなく、話しかけてくる人買いの男に礼を言うと、微かに息を呑む気配が伝わってきた。


「ああ、なるほど。……こんな状況で礼を言えるなんぞ、まともじゃあねえな。お前が売られたのにも納得だ」


 男が吐き捨てた言葉に、黙りこむ。不気味なものを前にしたときは、だいたいの人間が似たような反応をする。

 今生のくくるにはもう、ずいぶんと慣れたやりとりだ。


 生まれたときから、自分とは違う者の鮮明な記憶がある。

 この国の、とある地方豪族の娘として生まれ、十六で賊に命を奪われて人生を終えた、同じ名の少女の記憶。

 そのせいで、くくるは物心ついたときには誰に教わるでもなく、読み書きも算術も十分以上にでき、立ち居振る舞いは裕福な家の者然としていた。

 村には、文字のひとつもありはしないのに。


 おそらく生まれた場所が違っていれば『神童』と呼ばれることもあっただろう。

 けれど、田舎の農村ではくくるが持っていた能力はどれも不要なうえに、ひどく異質だった。


 おかしなもの、不気味なもの、理解しがたい特異なもの。そういったものに、小さな集落の中の人々は冷たい。

 彼らの中で、きっとくくるは、人の皮を被った得体の知れぬ物の怪にでも見えていたに違いない。

 疎ましがられ、煙たがられ、人に話しかけただけで殴られるのは日常だった。

 身体中に散る赤紫の痣は消えることなく、いつも生傷が絶えない。それが、普通はないはずの二度目の生を手にしたくくるが払うべき、代償なのかもしれなかった。


 ただ、くくるだけが苦しむならまだしも、家族にもまた影響は及ぶ。

 異質なくくるが紛れ込んだせいで、祖父母も両親も、兄弟たちにもずいぶんと窮屈で、悲しい思いをさせたのだ。


(だから、わたしが売られるのが、家族にとっても村にとっても最善だった)


 くくるさえいなくなれば、家族も村人たちも平穏に暮らせる。

 それに、人と違って、くくるには年の数に加えて十六年もの余分な経験――しかも、穏やかとは言い難い最期を迎えた記憶があり、これほど落ち着いていられるのだから。


「まあ、残り少ない人生、せいぜい悔いのねえようにやるんだな」


 男の苦々しい声に、くくるは小さくうなずいて返した。

 くくるが厄介者だったのは、何も、別人の記憶がある不気味な娘だからというだけではない。


(人買いに売られる先なんて、まともなところではないだろうけれど)


 たとえ、奴隷のごとくこき使われようと、殴られ蹴られようと、殺されようと。どうせ、命運は変えられない。

 くくるの前世の一番の心残りを消化できる日だって、来やしない。


「……さよなら」


 膝を抱えながら再度うしろを振り返り、くくるは二度目の生を授けてくれた故郷へと、別れを告げた。



   ***



 くくるが数日かけて荷車で運ばれた先は、大海に浮かぶ島国である巫桑国の都、木和。


 神樹と呼ばれる生命の大樹が中央に高くそびえたち、その根元からは滾々と澄んだ水が溢れ、泉を作る。水は清らかさを保ちながら、瀑布となって零れ落ち、都全体、国全体に張り巡らされた水路へと流れ込む。


 巫桑国のすべての生命、また水の源。それが、神樹――扶桑樹だ。


 そして、神樹を守るように囲っているのは、神樹の代弁者である女神、大日女と、その眷属たる大烏を顕現させた十人の人神、十日が住まう宮殿、新枝宮。

 これらを中心に木和という都市、ひいては巫桑国が成り立つ。


 故郷を旅立ち、駅路を進み、幾晩かの野営を経て。

 木和の入り口である、色づく紅葉に彩られた深紅の大鳥居を抜けると、賑やかな街並みが広がっていた。

 前と今、どちらの生でも地方では見かけなかった店が並び、布地をたっぷり使って作られた衣をまとう豊かな人々が、平らな路を往来する。


(……前は、悠長に街を眺めている余裕なんてなかったものね)


 くくるは荷車に被せられた布の下から外をうかがい、空を覆うかのように大枝を広げた神樹を見上げる。


 郡司の娘であった九々流が命を落としてから、実に八十八年もの時が流れた。

 けれども、大鳥居も新枝宮も、そして当然ながら神樹も。少しも変わらず、そこにある。

 とわの国――巫桑国は、そう呼ばれることもあるのだと、前の生で聞いたのをくくるは思い出した。


 ひとえにそれは、国を治める要たる神樹、および大日女、十日が神であり、その任に就いたときから年をとらず、老いないからであると。


(八十八年前から、大日女は変わっていない。十日の顔ぶれも)


 只人は八十八年も経てばもう生きてはいない。しかし、大日女や十日は違う。

 時の流れが、枯れる早さが、普通とは違うのだ。神樹に『はかりの儀』でその任を解かれぬかぎり、彼らは若さを保ち、生き続ける。

 神樹を巨木の幹とすると、例えるなら、多くの巫桑国の民は巨木についた葉だ。短い時を生き、やがて枯れて落ちる。一方で、大日女や十日は巨木の枝。葉よりも長く落ちずにいて、しかし老いさらばえれば、振り落とされることもある。


(支緒……)


 くくるは、無意識に胸元に手をおく。あの黒曜石の玉を失ってから、死んで生まれ変わり、何年も経つというのに。


 十日の顔ぶれが変わっていないならば、支緒もまた、若さを保ったまま生き続けているはず。

 九々流が死んで、彼は何を思っただろう。少しは悲しんだだろうか。でなければ、好きだったわけでもなく、終わった関係の女のことだと九々流の死を知りもしないか。


 考えても無意味な話だ。

 都に来たからといって、農民の娘と十日では立場が違いすぎる。郡司の娘と十日だった前の生よりも、さらに。

 おそらく、くくるが死ぬまでに会うこともないので、真相を知るすべはない。




 そう思っていた。けれど、くくるの想像よりもはるかに、神樹は戯れを好むらしい。


 人買いの男に連れられ、くくるが足を踏み入れたのは、新枝宮――へと至る、濃茶の木材で精密に組み立てられた、長い、長いきざはし


 神樹の立つ都の中央は円柱状に地面が高く隆起しており、神樹の根から溢れた泉の水が流れ落ちて、大きな滝を作っている。

 神樹やそれを囲む新枝宮に近づくためには、その滝の落差の分だけ階を昇らねばならない。


 九々流だったとき、あれだけ拒まれた新枝宮に続く門を、くくるはいともあっさり通り抜ける。

 すると、階の手前で、人買いの男から新枝宮で働く、官人らしき身なりの良い壮年の男にくくるの身柄は引き渡された。


「それが此度の商品か」

「ええ。ご注文通りの品にございます。しかも今回は、読み書き算術をこなし、行儀作法もある程度身につけた質の良い品で」


 人買いの男は、くくるに向けるのとはまるで異なる丁寧な口調で、官人の男に説明する。

 官人は説明を聞くと、一度、鼻を鳴らしてくくるを見遣った。


「本当か? ただの小汚い貧民の娘にしか見えんが」

「間違いありません。仕入れる前に確認いたしましたので。最低でも読み書きができれば用途も増えるでしょうし、今回は多少値が張るのですが……」


 にやけ面で手を揉む人買いの男を睨みつけ、官人は懐から布袋を取り出す。

 じゃらり、という金属の擦れ合う音と、大きく丸みを帯びた袋の形から、ずいぶんと大きな額の金銭が中に入っているのがわかった。


「まあいいだろう。品を手に入れるためならば、御上は金に糸目を付けぬゆえな。ほら、代金だ」


 官人が取り出した布袋を無造作に渡すと、人買いの男は恭しくそれを受けとり、一礼してそそくさとこの場をあとにする。

 その間、くくるには見向きもしなかったが、商品に対してならばこんなものなのかもしれない。


 官人は取り残されたくくるを、頭頂部から爪先までまじまじと不躾に観察する。


「やはり、どこをどう見ても寒村の貧しい小作人の娘にしか思えん。本当に作法も読み書きも身につけているのか……? あの商人、詐欺師ではあるまいな……まあ、いい」


 官人はひとりでぶつぶつと呟いたのち、くくるを一瞥し、階のほうへ顎をしゃくった。


「ついてこい」

「……はい」


 ここでは、『商品』は名すら聞かれぬらしい。

 おそらく郡司の娘であった頃なら、また今生でも、生まれて間もない頃ならば、抗議をしただろう。自分は人間だ、名もある。物ではない、人に対する礼を失していると。


 だが、くくるの心は今生の十五年で、大きく変わった。

 どれほど学問に基づいた知識や技術があろうとも、矜持を持とうとも。純粋な――ただ日々を懸命に生きる人の営みの中では、なんの意味もない。

 どれだけの理不尽にさらされても、弱者は力で簡単に捻じ伏せられて、しまいだ。

 どう足搔こうと覆せないものだらけなのだ、この世は。


 ここでくくるが官人に食ってかかっても、一蹴されるのみであろう。

 抗うだけ、時間と体力の無駄だ。


 長い階を一段一段、昇っていく。

 足首に嵌められていた枷は外されているが、手は依然として不自由なままで、少し歩きずらい。

 くくるの歩く速さを考えてくれるはずもない官人には、ついていくのがやっとだ。


「お前にはとある貴人の世話をしてもらう」


 官人は歩きながら、振り返らずに言った。


「最低限の生活の世話だけでよい。それ以外は望まぬ。読み書きができるなどと言っても、せいぜい一文字二文字わかる程度であろう? くれぐれも余計な気を回すでないぞ」

「はい」

「……それと、お前にはこの新枝宮の中を自由に出歩く権はない。お前が勤めることとなるかの方の住まいから、無断で出かけてはならない」

「はい」

「かの方の関心を引けるよう、くれぐれも努めよ。立派に役目を果たせば、お前のような『さづかりぞこない』でも、死後は神樹さまの御許へ還れるかもしれぬらな」

「……はい」


 ひと言も口答えせず、問い返しもしないくくるを、官人は一瞬だけ顧みる。

 しかし、すぐに興味を失った様子で、また視線を前に戻した。


 ようやく階を昇りきる。

 開け放たれたままの簡素な門を抜けると、真っ白な砂利が敷き詰められた別世界があった。

 雅やかな木造の宮殿。街にいるときはひどく高く、大きかった瀑布が足の下にあり、いくつかの建物を隔てた先には神樹が間近に迫る。


 身なりのよい官人や宮女が行き来する廊下へ上がることは、くくるには許されないため、砂利の上をざく、ざくと進む。

 しかし白い砂利を踏むことさえ、くくるの薄汚れた足が穢れを残しそうで心苦しい。


 どれだけ歩いただろうか。新枝宮は広大で、しかも入り組んでおり、もう階へと繋がる門がどこだったかすらも定かでない。

 だが、官人に案内された建物が奥まっていて、人が寄りつかない場所なのだけはわかる。

 たどり着いたのは、主屋とは細い渡り廊下でだけ繋がった、小さな別棟。

 装飾のひとつもなく、華美さとは無縁で、小綺麗ではあるが、周囲に人の気配がまるでない。

 官人はとある貴人の住まいであると言った。

 ここがそうなのだろうか。とても、貴人が住まうとは思えない場所だが。


「お前の部屋は、あの池に面した部屋の反対側、柊の木の立つあたりだ。前任の者の私物などもあるので、すぐにわかるだろう」

「はい」


 どうやら、官人は中まで案内をするつもりはないらしい。


 この建物の主は、相当な人嫌いなのだろうか。それとも、官人が貴人と相対する面倒を避けただけか。

 別にどちらでもいいが、すると、くくるが自ずからその貴人に挨拶しにいかなければならない。それは、とても億劫だ。


 ちょうどそのとき、その建物の簾の隙間から、背の高いひとりの男が顔を出す。

 官人は男の姿を認めると、さっと居住まいを正して礼をした。くくるも、彼に倣ってすぐさま砂利の上に両膝をつき、うずくまるように深々と平伏する。


「……若君。大変ご無礼を」

「仕事か?」


 若君、と呼ばれた男は、官人の言などまるで聞いていないかのように、端的に問う。

 その声は低く、しかしそれだけではなく、深く、深く、泥濘にからめとらているごとく、沈んでいる印象を受けた。

 怒っているのでも、悲しんでいるのでもない。ただ、ひどく重たい。


「い、いえ。お勤めはございませぬ。新しい世話係の者のことで、少し。――おい、顔を上げよ」


 官人に指示され、くくるはゆっくりと面を上げる。そして、男の顔を見、瞠目した。


 若君の容貌は、よく似た面影を有していた。九々流の許婚であった、九々流を裏切った、支緒と。

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