春花 二

 九々流は両親と口を利かぬまま、深夜に家を抜け出した。

 月明かりを頼りに厩まで行き、迷わず自身の栗毛の馬を引っ張り出す。


「お嬢さま」

「ああ、手留彦てるひこ。ごめんなさい、付き合わせて」


 手留彦は三十がらみの逞しい男で、九々流の家に仕える忠実な武人だ。支緒の剣の師でもあり、幼少の頃から九々流もずいぶん世話になっている。

 彼に支緒との事情を話したら、都へついてきてくれることになった。自分も都に行ったきり顔も見ていない支緒が心配だからと。

 さすがに女のひとり旅は不安だったので、彼がいてくれれば安心だと申し出をありがたく受け入れたのだ。


「構いません。お館さまに見つかる前に早く出ましょう。旅支度も二人分、整えてありますから」

「ええ。私も、駅符を持ってきたわ。これで駅家に泊まれるはずよ」


 一族の紋の入った駅符は、貴族や豪族、神職の者が旅先で駅家に泊まるために必要となる身元確認のための木札だ。

 これがあれば夜の寝床には道中、困らずに済む。


「でも、意外だったわ。手留彦が協力してくれるなんて。父さまの意思に背くことになるのに」

「それは……自分も、お嬢さまと結ばれるのは支緒しかありえぬと考えておりましたので。お嬢さまが行くと仰られずとも、自分だけで確かめに行くつもりでした」


 手留彦はいかにも生真面目に、神妙な表情で言った。


 二人は都へと繋がる駅路を進んだ。明け方から馬を駆り続け、夜は休息をとることにして都までは四日はかかる。

 九々流の出奔に気づいた両親が追手をかけるだろうが、彼らも無休で走り続けられはしないので、この強行軍ならば追いつけまい。

 九々流はひたすらに馬を走らせた。砂埃にまみれ、手綱を握る掌が擦りむけて血が滲んでも、全身の節々が痛んでも、構ってはいられない。


 支緒にさえ会えれば。彼はきっと九々流を拒絶したりしない。

 昔と変わらぬ優しげな微笑みを浮かべて、九々流との再会を喜び、一緒に間違いの文が届いたことに憤ってくれるはずだ。

 その時が訪れる希望だけを胸に抱き、九々流はがむしゃらに進んだ。


 都には予定通り、四日後の夕刻に着いた。

 追手には追いつかれていない。支緒に再会した後ならいくらでも捕まって構わないから、九々流にとってこの一時の家出は成功と言ってよかった。


 最寄りの駅家の厩舎に馬を繋ぎ、門から都――巫桑国の首都、『木和きわ』に足を踏み入れる。


「手留彦、どこに行ったら支緒に会えるかしら」

「支緒は十日ですから……おそらく、新枝宮にいえのみやではないかと」


 手留彦と見上げた先には、橙の夕日に照らされた荘厳な巨木が堂々とそそり立つ。

 あれがこの国の要であり、主であり、神である神樹――そして、この場からは見えないが、それを取り囲むように、国の政治の中心である大日女や十日が住まう、新枝宮がある。


 二人は都の中央を走る最も広い路を歩き、新枝宮の門前で衛士に掛け合った。


「はあ、十日の甲さまに会いたいと。身元ははっきりしているようだが……」


 衛士は渡した駅符を注意深く観察したのち、九々流と手留彦を上から下まで眺め、首を横に振った。


「豪族といえど、地下家じげけの者は通せない。あまつさえ、約束もないのでは」


 約束、という一語が、今の九々流にはとても苦々しく感じられた。

 約束ならある。婚姻を結ぶという約束だ。支緒の許婚だといえば、ここを通してもらえやしないだろうか。


「……無理ね」


 自嘲が零れた。

 これが、この門を通れるか否かの差が、今の九々流と支緒の差であると突きつけられたようなものだ。

 九々流は登殿すら許されない身分。一方で、支緒は。


「――九々流?」


 背後から、九々流の名を呼ぶ声がした。

 手留彦ではない。若い、男の声。この都で、九々流の名を知る男はただひとり。


「支緒?」


 振り返ると、数歩分離れた場所に美しい青年が立っている。

 人目の忍んでいるのだろうか、町人のような質素な服を着、顔も身体もすっかり麗しく成長しているものの、緩く編んだ煌めく白縹色の髪や、鬱金の瞳は変わっていない。

 やっと、会えた。五年ぶりに、九々流の愛しい許婚に。自然と瞳が潤む。歓喜が湧き上がり、足はひとりでに彼へ向かおうとした。


 けれども、途中でぴたりと、思いとどまる。彼は、ひとりではなかったのだ。


「あら、だぁれ? この子」


 支緒の腕に掴まって、こちらを品定めするように見る女。

 年の頃は九々流よりも少々上か。たっぷりとした濡れ羽色の髪と真珠の輝きを持つ白い肌に、真っ赤な唇が印象的な、妖艶な美女だ。

 きっと、彼女は支緒の友人か何かだろう。だから、支緒は九々流を許婚であると、彼女にそう言って紹介してくれるはず。


 だが、五年ぶりに会った許婚がその女に返したのは、素っ気なく、信じがたい言葉だった。


「……妹分だよ、ただの」

「え」


 ただの、妹分。間違ってはいない。確かに共に育った支緒を兄のように慕っていた時期もあった。けれども、正しくもない。


「それは」


 違う、と言いかけて、支緒の有無を言わせぬ冷たい圧を感じ、呑み込む。


 支緒に会えたら言おうと思っていたことがたくさんあった。

 今までどうしていたのかとか、なぜ今年は手紙を返してくれなかったのかとか。夫婦になる約束はまだ有効かとか……何ひとつ、上手く出てこない。


「し、支緒。わ、私は、その」

「何をしにきたんだ。用がないなら、早く帰ってくれないか」


 言葉を遮り、許嫁に何を訊ねるでもなく帰れと言う。以前の支緒からは、考えられない行為に、九々流は目を丸くした。


「……私、あなたに会いにきたのよ」

「そう。なら、すぐに用件を言って、さっさと済ませて」


 素っ気ない支緒の言動は、そのたびに九々流の心を刺して抉る。

 まだ何も訊いていないのにあの文が真実だと、もうお前と夫婦になる気はないのだと告げられているようで。

 凍りつく空気に、九々流は努めて明るさを装った笑みを浮かべた。


「あ、あのね、家におかしな文が届いたの。その、あなたが、私との許婚の関係を――」


 気を取り直し、冗談めかして事情を話す。しかし、九々流がひと言口にするたび、みるみる支緒の表情が歪んだ。


「……何を言っている」

「え?」


 先ほどとは比べ物にならないほど、鋭い口調。呆然と九々流は黙り込む。


 低い大声は九々流の知っている支緒ではないようにすら感じられ、身体が震えた。

 支緒は九々流に冷たく、乱暴な口調を向けたりしない。

 髪色と瞳の色が同じで顔が似ているだけの別人ではないか。否、別人であってほしい。どうしようもなく情けない考えが脳裏に浮かんだ。


「お前となんて、一緒になるわけがない。あんなその場しのぎの口約束を今の今まで信じていたのか? さすがに間抜けすぎるだろう」


 支緒の口から放たれる数々の言葉が、遠い。

 まるで薄い膜で耳を覆われているように耳鳴りがひどく、響く音はくぐもって頭の中に入ってこない。


「……どういう、意味」

「文は何もおかしくないって意味だよ。まさかと思って念のために送ったが、こんなところまで確かめにくるほど本気にしていたなんて、信じられない。こっちは最初からお前と夫婦になる気なんて、さらさらなかった」

「う、嘘。嘘よね?」


 どうして、そんなことを言い、そんな態度をとる?

 呼吸が浅くなる。まるで、支緒に嫌われ、疎んじられているようで。


「嘘なものか。……お前が駄々をこねるから、仕方なく冗談を言うしかなかった。親のいないおれが郡司の娘と夫婦になれるなら、ご機嫌とりも必要かと思って飯事に付き合っていたが、本音を言うとお前のことはずっと鬱陶しかったし、憎らしかった」


 眼前のこの青年は、本当に優しかったあの支緒なのか。

 九々流の思考は止まり、あまりのことに言葉を失ったまま、動けない。


「今の地位があれば、木っ端豪族の娘の夫の座ごときなぞいらぬ。だから、ご機嫌とりも必要なくなった。それだけのことだ」


 嘲笑。侮蔑。間違えようもなく、強く伝わってくる。


 約束だけではない、そもそも最初から、九々流の一方的な想いしか存在していなかった。

 支緒は自身の将来の地位にしか眼中になく、そのために仕方なく九々流に付き合っていた。

 頭で理解しても、告げられた内容は、とても信じられない。信じたくない。

 けれど、何をどう返せばいいのかすら、今の九々流には見当もつかない。


「ねぇ、さすがに可哀想よ」


 嗤い交じりに言ったのは、支緒に寄りそう黒髪の女だった。


「大事な妹分なのではないの? そんなふうに突き放したら、哀れだわ。この子、あまりにも幼稚だもの。それに、あんな薄汚い格好になってまではるばる来てくれたのよ」

「おい、余計なことを言うな」


 一瞬、九々流を庇ってくれたのかと思った。だが、女を窘める支緒の声や視線は、苦々しくも柔らかい。九々流に向けたものと、まったく違う。

 愛情が籠っていると、言動の端々から伝わってくる。


「あら、その子の肩を持つの?」

「そんなんじゃない。ただ、勘違い女にわざわざ貴女を付き合わせるのが、もったいないだけだ」

「そう。ならば、許すわ」


 くすり、と笑った女は艶やかで美しい。

 格好は町人風でも、隠し切れない気品と優雅さが滲み出ている。おそらく、良家の姫君なのだろう。九々流の家とは比べ物にならないほどの。


「行きましょう」

「ああ……そうだな」


 微笑み合う支緒と女は仲睦まじそうで、どこからどう見ても、麗しく、雅な雰囲気が似合いの恋人同士。

 二人は寄り添いながら門をくぐり、宮のほうへ消えてゆく。九々流には入れない、新枝宮の中へ。

 こちらを振り返った女は、優越感に満ちた笑みで九々流を見下す。

 けれど、支緒はただの一度も、九々流を顧みることはなかった。




 馬を繋いだ、都に最寄りの駅家に九々流と手留彦は戻る。

 その頃にはすっかり日が暮れ、両親からの追手に追いつかれてもおかしくなかったが、もうそんなことはどうでもよかった。


 九々流の心の中は、空っぽだ。


 駅家まで戻る道すがら、手留彦は憤慨し、支緒への文句をしきりに吐いていたが、呆然とし、何も言えないでいる九々流を見ると気まずそうに口を噤んだ。


「私は今まで、支緒だけを想って生きてきたのに……」


 支緒に郡司の娘としか見られていなかったなんて、考えもしなかった。だって、ともに暮らしていたあの頃、支緒はいつだって優しかったから。

 しかし、あの、鋭く九々流を見下ろした瞳は、本物だ。幻だったらどれほどよかったかと願っても。


 駅家には九々流たちの他にも、宿泊する者があった。

 神職の者が二人と、身なりからしてどこかの良家の者らしき親子四人。食事のときなど、手留彦は他の者たちといくらか言葉を交わしていたようだが、九々流はそんな気になれず、延々と黙りこくっていた。


 夜が更け、各自が部屋に引き上げると、九々流は夜着の中でうずくまる。


 ひとりになれば、どうしても考えずにはいられない。ひどい、どうして。信じられない、夢か幻ではないのか。

 愛する人に裏切られた悲しみに、涙がたまらず溢れ出す。


「支緒。信じていたのに」


 彼から預かっていた、胸元の黒曜石の首飾りを引きちぎって、投げ捨てたい。

 あまりに滑稽だ。許婚だなんだと、約束なのだと浮かれて。支緒の目に、九々流の姿はさぞばかばかしく映っていたに違いない。


 泣きながら、いつしか九々流は寝入っていた。

 次に目を覚ますと、まだ月が中天を少し過ぎた頃だった。


「お嬢さま! お嬢さま、起きてください!」


 部屋の外から、ずいぶんと焦った調子の手留彦の呼びかけが聞こえる。尋常ではない様子で、聞かなかったふりはとてもできそうにない。

 九々流は泣き疲れ、何日も馬で駆けたために重たくなった身体をなんとか起こした。


「どうしたの?」


 部屋の木製の引き戸を開けて問うと、手留彦は険しい顔で、


「失礼」


 とひと言断り、九々流の手首を掴んだ。

 これは本当に、ただ事ではない。臣下が主家の娘に許しなく触れるなど、到底ありえないことだ。


「いったい何が……」


 九々流は、そこで言葉を切る。部屋を出た途端、絹を裂くような悲鳴が耳朶を打ったのだ。

 にわかに真っ暗な駅家の中を、騒めきが満たす。複数の足音、怒号、そして――顔をしかめてしまうほどの、きな臭さ。

 手留彦は九々流の手を引き、大股で駅家の出入り口へと進んでいく。


「な、何が起きているの」

「足を止めないでください。賊です、急いでここを脱しなければ――」


 どこからか流れてきた煙が、もうもうと天井を覆い始める。

 暗いはずの夜の駅家の、ひとつ戸を隔てた向こうでは火が燃えているようで、その明るさが漏れ出していた。

 疲れていたせいもあるだろうが、こんな状況で呑気に眠っていた自分にぞっとする。


 と、不意に手留彦が、掴んでいた九々流の手首を放した。

 同時に響くのは、金属がぶつかり合う、甲高い音。


「お嬢さま、お逃げください!」


 黒装束に身を包んだ何者かが立ち塞がり、剣を振り下ろしていた。それを手留彦が自身の剣で受け止めている。

 殺そうと、しているのだ。賊は、九々流たちの命を躊躇いなく、奪おうとしている。


「手留彦、でも」

「いいから、お早く!」


 ともに逃げようとは、言えなかった。

 切羽詰まった手留彦の声は、彼が眼前の賊を容易には蹴散らせないことを示していた。


 臣下の忠心を無駄にするわけにはいかない。

 郡司の娘として育てられてきた九々流はそれ以上食い下がることなく、別の出入り口へ向かうべく身を翻す。

 来た道は、すでに燃えて倒れた柱が塞いでいる。気づけば、火の手が駅家全体に広がり、建物はいつ焼け落ちてもおかしくないほどだ。

 とにかく、逃げなければ命はない。

 九々流は外へ出られそうな場所を探し、火がまだ来ていない廊下を走る。


 ――ふと、どこかで、子どもの泣き声が聞こえて、足を止めた。

 確か、宿泊する者の中に親子連れがあり、小さな子どもがいたことを思い出す。壁が崩れ、出られそうな隙間にあと少し走ればたどり着ける、その矢先のこと。


 子どもの声は遠くないが、姿が近くに見えるわけでもない。

 この火と、賊の脅威にさらされている中だ。助けようとすれば、逃げる機会を逸してしまうかもしれない。


「……私は、生き残らなければ」


 裏切られ、傷つき、泣いて、けれども、九々流は自棄になってはいない。もう死んでもいい、そんなふうに思うほど、愚かではないつもりだった。

 しかし、子どもを放って自分だけ逃げて平然としていられるほど、非情にもなれない。


 知らぬうちに、九々流は引き返し、声をするほうへ進んだ。

 火が、すぐそばまで迫る。木造のため、燃えやすかった駅家は、あっという間に壁も梁も柱も焼けて崩れてくる。


「どこにいるの! 返事をして!」


 呼びかけて、咳き込む。

 口元を袖で覆っても、煙が喉を詰まらせ、子どもの泣き声も次第に弱くなっていく。


 やがて、九々流はある一室で倒れている子どもを見つけた。

 おそらく取り残されてどうしようもなくなり、泣いていたのだろう。幸いまだ息があり、火に出口を阻まれてもいない。

 今ならこの子どもを抱えて、逃げられる。膝をつき、子どもを抱き上げようと姿勢を低くする。


 九々流は、状況を楽観視しすぎていた。


「え?」


 どん、と背を強く押されるのに似た衝撃。火の熱とは違う、身体が燃えるような熱さと痛みに貫かれる。


 ――違う、剣が、貫いている。自分の背の真ん中を。


 自覚した途端、鉄臭く、どろりとした生温い液体が胸から込み上げ、溢れて、口元を流れた。

 ゆっくり振り向けば、黒装束の賊がかかんだ九々流を見下ろしていた。

 手留彦が対峙していた者とは体格からして別人のようで、おそらく賊はひとりではなかったのだと今さら気づく。


 なにもかも、もう遅い。


 力が抜ける。息をしようとしても、血が溢れてくるばかりで、吸えも吐けもしない。

 火はますます迫りきて、この機を逃せば脱出できなくなる。わかってはいても、身体が熱くて、痛くて、言うことをきかない。

 九々流はそのまま、自らの血だまりに頽れた。


 倒れた拍子に、どこかに引っかかったのか、胸元にあった黒曜石の玉が赤に塗れつつ、ころころと転がる。


「支、緒……」


 たぶん、もう二度と会えない――大好きだった人。

 目頭から、溜まった生温い雫が流れ落ちる。


「ごめん、なさい……父さま、母さま……」


 浅はかで勝手な考えから黙って家を出、こんな結果になってしまった。幼い恋に溺れたばかりに。

 最期に両親に詫びると、九々流の意識は、そこで途切れた。

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