むすび葉の恋
顎木あくみ
春花 一
――許婚の
国中の、どんなに裕福な家の子どもも、貧しい家の子どもも、誰もが等しく神樹の名のもとに成人として認められるその儀礼は、『きさづけの儀』と呼ばれた。
支緒は、
九々流は郡司である地方豪族の娘で、支緒とは血の繋がりはないが、縁あって同じ屋敷で育った。
物心つく前から一緒に過ごしてきた彼は、九々流にとって兄のような存在であり、幼い恋の相手でもあった。
ぞっとするほどの美しさと逞しさを兼ね備え、典雅かつ勇敢。剣を握らせれば同年代で彼に敵う者はなく、学問をさせれば尋常でない記憶力で知識を吸収していく。
それでいて、九々流にめっぽう甘い、自慢の許婚。
彼が今年十五となり、いよいよ成人して大人の一員となるのだから、こんなにも喜ばしいことはない。
宵の口に行われる儀式が終わったら、宴にしよう。成人を祝い、ごちそうを食べ、二人の将来を語り合って。最後に、あらためて「あなたとずっと一緒にいたい」と九々流は支緒に伝えるつもりだった。
けれど、儀式本番の夜。
小さな九々流の願いは、儚くも散り散りに崩れ去った。
「から、す……?」
呆然とした声は、九々流自身の声だったか、あるいは周囲の郷の誰かのものだったか、判然としない。
しかし、儀式を見物していた全員が一様に目を見開き、唖然として祭壇の前に立つ支緒の姿を見つめていたのは確かだった。
儀式の決まった手順に従い、支緒が神樹の葉を一葉授かり、呑み込んだ直後。短い呻きとともに、彼は胸を押さえ、膝をついた。
広がるのはまるで、蛹から蝶が孵化するような光景。
うずくまった支緒の背から、まず闇よりも深い、黒い一対の翼が生える。次いで、光沢のある漆黒の羽毛に包まれた鳥が頭をもたげ、同じ色の艶やかな嘴が宙を向く。
胴が、尾が――最後に三本の細い足が。這い出た姿は、社の祭壇に祀られた目の前の木彫りの像とそっくり同じ。
「
隣で儀式を見守っていた父の呟きが、妙にはっきりと聞こえた。
――大烏。
巫桑国で最も崇められるのは、神樹さま。この島国のすべての命の根源であるゆえに。
次に貴ばれるのは、
三番目に敬われるのが、まれなる十羽の大烏。大烏は日の化身。太陽がなければ神樹さまは生きられないがゆえに。
「……神樹さまに選ばれたのね、支緒は。十番目の、大烏――『
母の口調は落ち着いていたけれど、仄かな熱を帯びていた。喜び、高ぶりが抑えきれずに溢れている。
周囲も、同様だった。はじめは静まり返っていたものの、徐々にこの大事を人々が理解し、わっと歓声が上がる。
「支緒……」
心が、ついていかない。九々流だけが、取り残されている。
手足の指先から感覚がなくなり、空中に投げ出されたような心地がした。だって、知っているのだ。
まだ十一歳の九々流だって、知っている。
神鳥である大烏を顕現させた人間は、この国で三番目に貴い。貴い人間は、国を治めるため、政治を行うために都に行かなければならない。
十羽の烏に――『十日』に選ばれたのなら、都で立派な太陽として神樹さまと大日女さまの手足となり、指導者として民を導かなくてはならない。
つまり、支緒は遠くへ行ってしまう。九々流の支緒ではなくなってしまう。
あまりに衝撃が強すぎて、その後のことはよく覚えていない。
宴だ、祝いだ、なんて悠長なことは言っていられなかった。
もちろん、これ以上にめでたいことなどないから、郷の皆は大いに支緒の新たな門出を祝った。けれど、それは九々流が思い描いていたものとはかけ離れていた。
あれよ、あれよという間に宴は盛り上がって終わり、二日後には支緒は都へ旅立つ手筈が整う。
その間も、彼のまわりを人がひっきりなしに囲んでおり、まだ子どもで、支緒の旅支度の手伝いさえろくにできない九々流の出る幕はない。
けれども、次の日に出立を控えた夜更け。
支緒はなんとか大人たちを撒いて、九々流に会いに来てくれた。
「九々流。……一緒に星を見ようか」
美しく、優しげな支緒の微笑みに、すでに寝床に入っていた九々流はうなずいた。
寝間着のまま、屋敷の周りで一番高い木の上に二人でのぼる。子ども同士で内緒話をするときは、この木の上の、幹を挟んだ太い二本の枝にそれぞれ腰かけるのが常なのだ。
目の前に、無数の星に満ちた夜空が広がる。この空を、ずっと辿っていった先に都があると、大人は言う。
都の中心に鎮座する神樹さまの姿さえ、ここからでは霞んでしまうほど遠い。
遠すぎる。
「九々流、泣いているの?」
「行かないで、支緒。行かないで」
涙が止まらない。支緒と別れたくなかった。離れるなんて考えたこともなかったのに、急に離ればなれになると告げられても、九々流の心は置き去りのままだ。
遠く離れてしまったら、もう支緒の柔らかな笑みを見ることはできない。
悲しいときに縋って泣くことも、手を繋ぐことも、頭を撫でてもらうことも、抱きしめてもらうことも、何もできない。
想像しただけで、心臓の半分を切り取られてしまうかのようだった。
「都に行ったら、支緒はうちの、私の支緒ではなくなってしまうんでしょう? 神樹さまの支緒になって、大日女さまの支緒になって、国の皆の支緒になってしまうんでしょう?」
しゃくり上げながら、九々流は自分でも何を言っているのかわからなかった。ただ、支緒に遠くへ行ってほしくない。それだけは伝えたくて、必死だった。
「九々流……」
「行っちゃやだ! 支緒、絶対に私のこと、忘れちゃうもん……!」
うわあ、うわあ、と赤子のごとく泣き叫ぶしかできない自分が、もどかしい。まだ十一歳で、成人とも認められず、この郷から出て支緒を追うこともできない自分が。
彼を引き留めるために、泣き喚くという幼稚な方法しかとれない自分が。
以前から彼とつりあう大人の女人になりたいとは願っていた。今はその思いが、さらに破裂しそうなほど膨らんでいる。
「九々流。おれは、忘れないよ」
「嘘。だって、お父さまもお母さまも言うのよ。都にはたくさんの人がいて、たくさんの見たことないものもあって、いつもお祭りみたいににぎやかで……そんな楽しそうなところにずっといたら、きっと郷のことも私のこともどうでもよくなっちゃう」
「ならないよ」
「……でも」
「九々流がおれの、お嫁さんになってくれるんでしょ?」
はっとして、九々流は手の甲で目元を拭った。
支緒のお嫁さんになる。
九々流は小さな頃から常々、そう宣言をしていた。さすがに十歳にもなれば両親に窘められたが、他ならぬ支緒が笑って許していたので、すでに二人の仲は郷中で公認だった。
郷の少女たちの中にも、支緒に憧れている者は大勢いる。けれども、支緒は九々流を選んでくれたのだ。
「うん。私が支緒にふさわしい、立派な大人の女になったら……ちゃんと私を連れに来てくれる?」
「もちろん、行くよ。都からここに帰ってきて、九々流を連れてゆくから」
だから、待っていて。
微笑みながら告げられた支緒の言葉に、また涙が出そうになる。
「ほら、約束の証にこれを」
手渡されたのは、黒曜石の玉をあしらった首飾り。
月光に反射する黒の煌めきは、毎日、支緒の胸元で目にし、彼が一等大事にしていたもので、確か親の形見なのだと聞いたことがある。
「も、もらえないよ。支緒の、大切なものでしょ」
慌てて九々流が返そうとしても、支緒は受け取ろうとしなかった。
「いいんだ。九々流が持っていて。いつか絶対に、九々流を迎えに来る。九々流も首飾りもおれにとって大事だから、両方とも必ずもらいに帰ってくる。そういう約束のしるしだよ」
首飾りを渡すのは、支緒なりの決意の表明なのだ。
しばし迷っていた九々流だが、そう理解してうなずき、首飾りを受けとることにした。
「ありがとう、支緒。私、待っているね」
都は遠い。郷から都へ行くにはどんなに速く馬を駆っても数日かかる、長い道のりを越えてゆかねばならない。容易に行き来はできないし、文を交わす機会も限られる。
たったこれだけの約束を胸に、九々流はこれから何年も待つことになるのだ。
だが、黒曜石の玉を握りしめれば、心細さも不安も、この時は小さく、小さく、しぼんでいた。
支緒が約束を違えたことはない。だから、大丈夫だ――。
許婚の帰りを待ち続け、九々流は十六歳になった。
自身の成人も済ませ、郷で一番の美女だと言われるようになった九々流には、郷の外からの求婚者も多い。
けれども、九々流がうなずくことは決してない。なぜなら、この時もずっと支緒を待っていたからだ。
支緒とは、十一歳のときに別れて以来、顔を合わせていない。
文のやりとりは年に一度、初めこそ互いに長々と思いの丈を記して送りあったが、四年目には最低限、無事に過ごしているか確認するだけのものになり、五年目の今年は九々流が送ったきり、返事もまだこない。
風の噂では、五年前にやっと見つかった十日の最後のひとりは、主である大日女からたいそう気に入られたらしい。
十日の中でも最上位である『
返事がこないのは、きっと忙しいからだろう。
九々流は昨年一昨年と支緒から届いた文の淡々とした、どこか冷たさすら感じる文面を思い出さないようにして、ただ彼の帰還を待ち続けていた。
ある日の昼方。
井戸へ水汲みに行っていた九々流は、家の近くの木に伝使の馬が繋がれているのを見つけた。
支緒からの文に違いない。
水を汲んだ桶も放り出し、駆けだした九々流は、愚かにも期待を胸に勢いよく家の中へ飛び込んだ。
「父さま、母さま! 文は? どなたからの文だったのですか?」
勢いのまま、はしたなくも大声で訊ねた九々流だったが、両親が暗い面持ちをしているのを見て、立ち止まる。
「九々流……」
父は戸惑いながらも、どこか安堵に似た表情を浮かべている。一方の母は何も言わず、目を閉じてため息を吐いていた。
両親の顔つきから、自分にとってよくない知らせだと、九々流にはなんとなく想像がついてしまった。
九々流に何も関係のない話であれば、両親はこのような反応はしない。
「支緒からですか? そうですよね?」
九々流にかかわることで、都から寄越される文といえば、支緒と関係することにも違いなかった。それ以外、九々流に都との縁はないからだ。
じりじりと近づく九々流に、両親は文を見せるか見せないか、やや迷った様子だった。
その迷いを見逃さず、父の手から文をひったくるようにして奪い、急ぎ目を通す。
「な、に……これは」
一文一文、目で追うたびに文を持つ指が震える。ひどく息苦しくて、頭が真っ白になってしまう。冷や水を全身に浴びたように血の気を失い、悪寒が背筋を走る。
文に書かれていた両親宛ての内容は非常にわかりやすく、そして残酷だった。
『都で婚姻を結びたい相手がいるので、九々流と夫婦になることはできなくなった』
『長く縛り付けておいて申し訳ないが、九々流には別の相手を探してほしい』
『育ててくれた恩は生涯忘れない。ただ、一度きりの無礼を許してほしい』
流麗な文字は支緒のものに間違いなく、誰かが勝手に書いて寄越した文ではないことを証明していた。これは紛うかたなく、支緒の意思で書かれた文だ。
一分の迷いなく筆を滑らせて綴られた文面は、読み返しても読み返しても、少しの綻びもない。
「嘘よ……」
こんなもの、絶対に嘘だ。嘘に決まっている。
約束したではないか。必ず帰ってきて、九々流を妻にしてくれると。支緒は約束を破ったことなどなかったではないか。
「信じないわ、私は信じない……!」
「――九々流。もう、あきらめなさい」
静かに、母が言った。
「支緒は十日になったのよ。大日女さまのお気に入りになって、十日をまとめる甲の位に就いたの。郡司の娘とじゃ釣り合わないし、戻ってこれやしないわ」
「そ、そんなことない。約束したもの。支緒は私をお嫁さんにしてくれるって……!」
ぐしゃり、と文を握りしめ、九々流はかぶりを振る。
「だがなあ、あれは子どもの頃の話だろう。支緒だって五年も都にいるんだ。一緒になりたい女子のひとりやふたり、いてもおかしくないからなあ」
父もそう言って眉尻を下げた。
「支緒はこんなこと言わない、他の女の子となんて……何かの間違いに決まっているわ」
咄嗟に、首からかけた黒曜石の玉を握る。
父も母も、何もわかっていない。九々流と支緒がどれだけ強い絆で結ばれているか。
二人の約束は、こんな紙切れ一枚で消えてなくなるような、半端なものではないのだ。
支緒にとっては、紙切れ一枚で失くしてしまえると思えるくらいの軽い口約束にすぎなかったと両親は言いたいのかもしれないが、そんなわけない。
九々流は支緒が都から帰ってくるまでいつまででも待つ。支緒も都の人や物に目移りなどしない。そう、約束したのだから。
今さら他の女子となんて、何かの間違いだ。
「いい加減になさい、九々流! 貴女ももう年頃なのだから、聞き分けたらどうなの」
母の鋭い口調で、九々流の頑なな心に一筋の亀裂が入り、肩が跳ねた。
「私は……」
言葉に詰まる。自覚が、ないわけではないから。
周囲の同じ年頃の少女たちは皆、すでに相手を決めた。婚姻を結び、早ければ子もある。
九々流には支緒がいるから、郡司の娘だからと誰も何も言ってこないが、そろそろ行き遅れと陰口を叩かれても本当はおかしくなかった。
それでも、支緒さえ帰ってくれば丸く収まる。だからいつも、見ないふりをしていた。
「いつまでも子どもの約束を当てにして、恥ずかしいったらないのよ。こうして子ども騙しの約束に断りの文を寄越してくるだけ、支緒は律義だわ」
耳が痛くて、九々流は強く目を閉じ、奥歯を噛みしめた。
五年間、本当は心のどこかでは不安があった。離れたくないと泣く九々流を安心させるために、支緒はその場しのぎの約束をしたのではないかと。
母の言葉は九々流の心の不安定で弱いところを、正確に暴く。
気づくと、ぎゅ、と瞑った目から涙が零れ、頬を濡らした。
「違う、違うわ……ちゃんと、本人に聞くまで私は」
「九々流」
憐れむような父の声に、視界が真っ赤に染まる気がする。
怒りと悲しみと、理不尽に対する苦しさと。あらゆる感情が溢れて、言葉が出てこない。
この一通の文なんかで、九々流の夢は壊されてしまうのか。
そんなのは、耐えられない。
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