ダイシキカンデン

その後のこと

　淡（おう）海（みノ）帝（みかど）の即（そく）位（い）第（だい）三（さん）年（ねん）は、唐（とう）の三（さん）世（せい）皇（こう）帝（てい）の咸（かん）享（こう）元（がん）年（ねん）に当（あ）たる。

　この年（とし）の春（はる）正（しょう）月（がつ）、唐（とう）の皇（こう）帝（てい）は、新（しら）羅（きノ）王（こにきし）が百済（くだら）の故（こ）地（ち）と住（じゅう）民（みん）を擅（ほしいまま）に取（と）っているとして怒（いか）り、その使（し）者（しゃ）を長（ちょう）安（あん）に留（とど）めて囚（とら）えた。

　三（さん）月（がつ）になると、高麗（こま）の故（こ）地（ち）では遺（い）将（しょう）らによる唐（とう）に対（たい）する挙（きょ）兵（へい）が相（あい）次（つ）ぎ、新（しら）羅（きノ）国（くに）がこれを援（えん）助（じょ）していると云（い）われた。夏（なつ）六（ろく）月（がつ）には、高麗（こま）の遺（い）臣（しん）牟（む）岑（じん）なる者（もの）が、王（こにきし）の外（そと）孫（まご）と称（しょう）する安（あん）勝（しょう）という若（わか）者（もの）を担（かつ）いで新羅（しらき）に降（くだ）り、

「滅（ほろ）べる国（くに）を興（おこ）し、絶（た）えたる世（よ）を継（つ）ぐことは、天（てん）下（か）の公（こう）義（ぎ）にして、ただ大（たい）国（こく）のみなせる業（わざ）なるべし。我（わ）が国（くに）の先（さき）の王（こにきし）は道（みち）を失（うしな）いて滅（ほろ）ぼされたるも、今（いま）臣（やツこ）らは国（くに）の貴（とうと）き方（かた）を得（え）、君（きみ）として奉（たてまつ）りつ。願（ねが）わくは藩（はん）屏（ぺい）を作（な）し、永（なが）く世（よ）々（よ）忠（ちゅう）を尽（つ）くさむ」

　と、新（しら）羅（きノ）王（こにきし）に救（すく）いを請（こ）うた。新（しら）羅（きノ）王（こにきし）はこれを国（くに）の西（せい）部（ぶ）の金（こん）馬（ま）という所（ところ）に処（お）いた。

　秋（あき）七（しち）月（がつ）、新（しら）羅（きノ）王（こにきし）は、唐（とう）の鎮（ちん）将（しょう）に仕（つか）える身（み）となった百済（くだら）の遺（い）臣（しん）らが新羅（しらき）領（りょう）を侵（おか）そうとしていると疑（うたが）い、熊（ゆう）津（しん）都（と）督（とく）府（ふ）に使（つか）いを遣（つか）わして協（きょう）議（ぎ）を求（もと）めたが不（ふ）調（ちょう）であった。後（のち）に熊（ゆう）津（しん）からは禰（ね）軍（くん）という者（もの）が、新（しら）羅（きノ）王（こにきし）の所（ところ）に使（つか）いとして送（おく）られて来（き）たが、新（しら）羅（きノ）王（こにきし）はこれが刺（し）客（かく）であるとして留（とど）めて還（かえ）さず、挙（きょ）兵（へい）して百済（くだら）を討（う）ち、一（いっ）気（き）に七（しち）十（じゅう）城（じょう）余（あま）りを攻（せ）め取（と）った。

　八（はち）月（がつ）、新（しら）羅（きノ）王（こにきし）は安（あん）勝（しょう）を立（た）てて高（こ）麗（まノ）王（こにきし）とし、王（おう）統（とう）を継（つ）いでその民（たみ）を集（あつ）め慰（なぐさ）めよと命（めい）じ、永（なが）く隣（りん）国（ごく）となり事（こと）は兄（きょう）弟（だい）と同（おな）じくしようと誓（ちか）った。

　大（おおし）海（あ）人（まノ）皇（み）子（こ）の耳（みみ）には、このように海（かい）外（がい）の情（じょう）勢（せい）の油（ゆ）断（だん）ならぬことが、なお続（ぞく）々（ぞく）と伝（つた）えられて来（き）ていた。その一（いっ）方（ぽう）で、我（わ）が皇（こう）帝（てい）と称（しょう）する兄（あに）を見（み）れば、戸（こ）籍（せき）を完（かん）成（せい）させることなど、鎌（かま）足（たり）の遺（のこ）した事（じ）業（ぎょう）の継（けい）続（ぞく）を命（めい）じる他（ほか）は、政（せい）治（じ）的（てき）に為（な）す所（ところ）の無（な）い者（もの）のようになり、亡（な）き人（ひと）のことに心（こころ）を奪（うば）われているようであった。

　閏（うるう）九（く）月（がつ）、鎌（かま）足（たり）が死（し）んでから一（いち）年（ねん）、ついにその埋（まい）葬（そう）を終（お）えると、帝（みかど）は自（じ）身（しん）の命（いのち）の成（な）り行（ゆ）きに気（き）を取（と）られるもののようであった。

　翌（よく）年（ねん）春（はる）正（しょう）月（がつ）二（ふつ）日（か）、帝（みかど）は鎌（かま）足（たり）の遺（のこ）した令（りょう）法（ほう）典（てん）の規（き）定（てい）によって、大（おお）友（とも）皇（ノみ）子（こ）を太（だい）政（じょう）大（だい）臣（じん）、蘇（そ）我（がノ）臣（おみ）赤（あか）兄（え）を左（さ）大（だい）臣（じん）、中（なか）臣（とみノ）連（むらじ）金（かね）を右（う）大（だい）臣（じん）、蘇（そ）我（がノ）臣（おみ）果（はた）安（やす）、巨（こ）勢（せノ）臣（おみ）人（ひと）、紀（きノ）臣（おみ）大（う）人（し）を御（ぎょ）史（し）大（たい）夫（ふ）に召（め）した。また百済（くだら）の貴（き）族（ぞく）らに冠（かん）位（い）を授（さず）けることもしたが、これらは全（すべ）て大（おお）友（とも）皇（ノみ）子（こ）を中（ちゅう）心（しん）とする後（こう）継（けい）体（たい）制（せい）の確（かく）立（りつ）を図（はか）るものであった。

　秋（あき）になると、帝（みかど）は気（き）分（ぶん）の優（すぐ）れないことがあり、薬（くすり）を求（もと）めたが、典（てん）医（い）が鎌（かま）足（たり）を治さ（なお）なかったことを思（おも）い出（だ）し、怒（いか）って追（お）い返（かえ）すと、織（おり）物（もの）の仏（ぶつ）像（ぞう）を百（ひゃく）枚（まい）作（つく）れと詔（みことのり）した。冬（ふゆ）十（じゅう）月（がつ）八（よう）日（か）、内（だい）裏（り）の仏（ぶつ）殿（でん）に百（ひゃく）仏（ほとけ）を安（あん）置（ち）する開眼（かいげん）の儀（ぎ）式（しき）が行（おこな）われた。また帝（みかど）は使（つか）いを遣（つか）わして、袈（け）裟（さ）、黄（こ）金（がね）の鉢（はち）、象（ぞう）牙（げ）、沈水香（じんこう）、栴（せん）檀（だん）香（こう）、他（ほか）に色（いろ）々（いろ）な財（ざい）宝（ほう）を、法（ほう）興（こう）寺（じ）に供（そな）えさせた。

　十（じゅう）七（しち）日（にち）、いよいよ帝（みかど）の容（よう）態（だい）が重（おも）いことが聞（き）かれ、大（おおし）海（あ）人（ま）は使（つか）いの者（もの）によって大（おお）津（つノ）宮（みや）に呼（よ）び出（だ）された。使（つか）いに立（た）てられて来（き）たのは、蘇（そ）我（がノ）臣（おみ）安（やす）摩（ま）侶（ろ）であった。大（おおし）海（あ）人（ま）は鵜（う）野（のノ）讃（ささ）良（らノ）皇（み）女（こ）の家（いえ）に居（い）た。

「あれは確（しか）と有（たも）てるよな」

　と大（おおし）海（あ）人（ま）は妃（きさき）に念（ねん）を押（お）した。鵜（う）野（の）は懐（ふところ）から紫（むらさき）色（いろ）の小（ちい）さい袋（ふくろ）を覗（のぞ）かせて答（こた）える。その中（なか）には、

〔天（てん）皇（のう）御（ぎょ）璽（じ）〕

　と四（よん）文（も）字（じ）が刻（きざ）まれた金（きん）印（いん）が入（はい）っている。それはかつて母（はは）が造（つく）らせたものであり、兄（あに）は探（さが）そうともせず、大（おおし）海（あ）人（ま）が遺（い）品（ひん）の中（なか）から取（と）り出（だ）しておいたもので、兄（あに）の前（まえ）でうっかり零（こぼ）して見（み）せでもせぬように、鵜（う）野（の）に持（も）たせているものであった。それはいずれ鵜（う）野（の）のものにもなるはずなのであって、鵜（う）野（の）も当（とう）然（ぜん）のこと大（おお）友（とも）ではなく自（じ）分（ぶん）に持（も）つ権（けん）利（り）があると信（しん）じている。

　大（おおし）海（あ）人（ま）はそれを確（たし）かめると、安（やす）摩（ま）侶（ろ）を伴（ともな）って大（おお）津（つ）へ向（む）かった。

　安（やす）摩（ま）侶（ろ）は、帝（みかど）と鎌（かま）足（たり）によって取（と）り立（た）てられた官（かん）人（じん）の中（なか）でも、大（おおし）海（あ）人（まノ）皇（み）子（こ）に心（こころ）を帰（よ）せている者（もの）の一（ひと）人（り）であった。

「心（こころ）して言（の）たまえ」

　帝（みかど）の使（つか）いとして大（おおし）海（あ）人（まノ）皇（み）子（こ）を内（だい）裏（り）に引（ひ）き入（い）れる時（とき）に、安（やす）摩（ま）侶（ろ）は密（ひそ）かに振（ふ）り返（かえ）って、そう忠（ちゅう）告（こく）をした。皇（み）子（こ）が寝（しん）殿（でん）に入（はい）ると、人（ひと）払（ばら）いがされて、侍（じ）女（じょ）の一（ひと）人（り）も残（のこ）さず、帝（みかど）の床（とこ）から遠（とお）ざけられた。それで二（ふた）人（り）の間（あいだ）に何（なに）が話（はな）し合（あ）われているのか、誰（だれ）も聞（き）くことはなかった。

　安（やす）摩（ま）侶（ろ）の想（そう）像（ぞう）では、この病（びょう）床（しょう）の会（かい）談（だん）は、帝（みかど）が大（おおし）海（あ）人（まノ）皇（み）子（こ）に、大（おお）友（とも）皇（ノみ）子（こ）を殺（ころ）さずにおいてくれ、と頼（たの）むためのものであろうと考（かんが）えられた。資（し）格（かく）、名（めい）望（ぼう）、実（じつ）力（りょく）のどれを取（と）ってみても、大（おお）友（とも）皇（ノみ）子（こ）が大（おおし）海（あ）人（まノ）皇（み）子（こ）に敵（かな）わないのは明（あき）らかだ。そこで帝（みかど）としては、もはや己（おのれ）が命（いのち）が永（なが）らえないと覚（かく）悟（ご）した時（とき）に、皇（こう）帝（てい）の位（くらい）は大（おおし）海（あ）人（ま）にを譲（ゆず）る代（か）わりに、大（おお）友（とも）をその皇（こう）太（たい）子（し）としてもらう、という妥（だ）協（きょう）案（あん）を考（かんが）えたらしいのである。

　しかし大（おおし）海（あ）人（まノ）皇（み）子（こ）にしてみれば、そんな提（てい）案（あん）を受（う）ける必（ひつ）要（よう）は無（な）いであろう。そもそも倭（やまと）国（ノくに）の君（くん）主（しゅ）の座（ざ）、天（てん）皇（のう）の位（くらい）は空（あ）いていて、大（おおし）海（あ）人（まノ）皇（み）子（こ）にはその位（くらい）に即（つ）く権（けん）利（り）があるのだ。今（いま）そうしないのは、ただ弟（おとうと）として兄（あに）を尊（そん）重（ちょう）するからにすぎない。帝（みかど）の命（いのち）が尽（つ）きてしまえば、大（おお）友（とも）皇（ノみ）子（こ）はただ邪（じゃ）魔（ま）になるだけである。

「いざ吉（よし）野（の）へ去（い）かむ」

　大（おおし）海（あ）人（まノ）皇（み）子（こ）は寝（しん）殿（でん）から出（で）て来（く）ると、安（やす）摩（ま）侶（ろ）にそう告（つ）げて、内（だい）裏（り）の仏（ぶつ）殿（でん）で袈（け）裟（さ）に着（き）替（が）え、腰（こし）の太（た）刀（ち）を置（お）いて、宿（しゅく）所（しょ）に退（たい）出（しゅつ）した。

　十（じゅう）九（く）日（にち）、大（おおし）海（あ）人（まノ）皇（み）子（こ）は大（おお）津（つ）を後（あと）にして、倭（やまと）国（ノくに）の吉（よし）野（の）へ向（む）かった。赤（あか）兄（え）、金（かね）、果（はた）安（やす）といった淡（おう）海（み）の重（じゅう）臣（しん）が見（み）送（おく）りに立（た）ち、山（やま）背（しろノ）国（くに）の菟（う）道（ぢ）まで供（とも）をして還（かえ）った。

「虎（とら）に翼（つばさ）を着（つ）けて放（はな）てり」

　と誰（だれ）かが呟（つぶや）いた。

　十（じゅう）一（いち）月（がつ）中（ちゅう）旬（じゅん）に、対（つし）馬（まノ）国（くに）から筑（ちく）紫（しノ）国（くに）を通（とお）して、唐（とう）の使（し）者（しゃ）郭（かく）務（ぶ）悰（そう）らが、船（ふね）二（に）十（じゅう）四（よん）隻（せき）に乗（の）って沖（おき）に至（いた）り、百済（くだら）の役（えき）の際（さい）の捕（ほ）虜（りょ）と、甲（よろい）や弓（ゆみ）矢（や）、布（ぬの）、綿（わた）などとの交（こう）換（かん）を求（もと）めているという報（しら）せがあった。

　淡（おう）海（み）の朝（ちょう）廷（てい）には、その対（たい）応（おう）のために、十（じゅう）分（ぶん）な余（よ）裕（ゆう）が無（な）い。

　二（に）十（じゅう）三（さん）日（にち）、大（おお）友（とも）皇（ノみ）子（こ）は内（だい）裏（り）の仏（ぶつ）殿（でん）に入（はい）り、その中（なか）に安（あん）置（ち）された織（おり）物（もの）の仏（ぶつ）像（ぞう）の前（まえ）に起（た）つ。左（さ）大（だい）臣（じん）赤（あか）兄（え）、右（う）大（だい）臣（じん）金（かね）、御（ぎょ）史（し）大（たい）夫（ふ）果（はた）安（やす）、人（ひと）、大人（うし）が侍（はべ）る。

「六人（むゆたり）心（こころ）を同（おな）じくして、帝（みかど）が詔（みことのり）を承（うけたまわ）るべし。もし違（たが）うことあらば、必（かなら）ず仏（みほとけ）の罰（ばち）を被（こうむ）らむ」

　と大（おお）友（とも）が香（こう）炉（ろ）を執（と）って誓（ちか）う。次（つぎ）に赤（あか）兄（え）が香（こう）炉（ろ）を受（う）け取（と）り、

「臣（やツこ）ら五人（いつたり）、皇（み）子（こ）に従（したが）いて、帝（みかど）が詔（みことのり）を承（うけたまわ）る。もし違（たが）うことあらば、四（し）天（てん）王（のう）打（う）つべし。天（あまツ）神（かみ）地（くにツ）祇（かみ）また誅（つみ）せむ。三（さん）十（じゅう）三（さん）天（てん）、このことを証（あき）らめ知（し）ろしめせ。子孫（うみノこ）まさに絶（た）ゆるべし、氏（うじ）また必（かなら）ず亡（ほろ）びむ」

　と誓（ちか）い、他（ほか）の者（もの）もこれに続（つづ）く。二（に）十（じゅう）九（く）日（にち）に、また帝（みかど）の前（まえ）に同（おな）じように盟（ちか）う。

　十（じゅう）二（に）月（がつ）三（みっ）日（か）、帝（みかど）は淡（おう）海（みノ）大（おお）津（つノ）宮（みや）に崩（ほう）御（ぎょ）した。

　それから大（おおし）海（あ）人（まノ）皇（み）子（こ）は、大（おお）友（とも）に時（じ）間（かん）を与（あた）えた。一（ひと）つは唐（とう）の使（つか）いの前（まえ）で争（あらそ）いは見（み）せられないこと、もう一（ひと）つは十（じゅう）分（ぶん）に周（しゅう）到（とう）な準（じゅん）備（び）をするためである。

　淡（おう）海（み）方（がた）は郭（かく）務（ぶ）悰（そう）を無（ぶ）難（なん）にやり過（す）ごすために、半（はん）年（とし）に近（ちか）い時（じ）間（かん）と多（た）大（だい）な費（ひ）用（よう）をかけねばならなかった。対（たい）応（おう）はその翌（よく）年（ねん）の夏（なつ）五（ご）月（がつ）末（まつ）に、務（ぶ）悰（そう）らが物（もの）を得（え）て筑（ちく）紫（し）を去（さ）ったことで完（かん）了（りょう）した。

　六（ろく）月（がつ）になると大（おおし）海（あ）人（ま）は、淡（おう）海（み）の者（もの）らが山（やま）科（しな）の陵（みささぎ）を造（つく）る人（にん）夫（ぷ）らに矛（ほこ）を持（も）たせて、我（われ）を殺（ころ）そうとしているとして起（た）ち、兵（へい）を興（おこ）して大（おお）友（とも）を討（う）った。

　大（おおし）海（あ）人（まノ）皇（み）子（こ）としては、律（りつ）令（りょう）国（こっ）家（か）を目（め）指（ざ）した兄（あに）の方（ほう）向（こう）性（せい）に反（はん）対（たい）するわけではなかった。しかし足（あし）の速（はや）さには人（ひと）によって差（さ）があるものだ。変（へん）革（かく）には早（はや）く付（つ）いてこられる者（もの）と、そうはいかない者（もの）とに分（わ）かれてしまう。そして足（あし）の遅（おそ）い人（ひと）々（びと）の手（て）を引（ひ）かなければ大（たい）業（ぎょう）は成（じょう）就（じゅ）しない。兄（あに）は余（あま）りにも先（せん）見（けん）の明（めい）に己（うぬ）惚（ぼ）れ、先（さき）走（ばし）りをしすぎたのである。だから大（おお）友（とも）を生（い）け贄（にえ）にすることで、事（こと）の巻（ま）き直（なお）しをせねばならなくなったのだ。

　大（おお）友（とも）に味（み）方（かた）する者（もの）は少（すく）なく、一（ひと）月（つき）ほどで戦（たたか）いは決（き）まった。百済（くだら）の貴（き）族（ぞく）らはなおさら客（きゃく）としての立（たち）場（ば）を守（まも）り、争（あらそ）いに巻（ま）き込（こ）まれぬようにしていた。大（おお）友（とも）皇（ノみ）子（こ）は秋（あき）七（しち）月（がつ）二（に）十（じゅう）三（さん）日（にち）、追（お）い詰（つ）められて自（じ）殺（さつ）したことになっている。

　大（おおし）海（あ）人（ま）は崗（おか）本（もとノ）宮（みや）の南（みなみ）に新（あら）たに宮（みや）を作（つく）らせ、これを飛（あす）鳥（かノ）浄（きよ）御（み）原（はらノ）宮（みや）と称（しょう）した。ここで天（てん）皇（のう）として正（せい）式（しき）に即（そく）位（い）する儀（ぎ）式（しき）を行（おこな）い、鵜（う）野（の）を皇（こう）后（ごう）としたのは、また翌（よく）年（ねん）の春（はる）二（に）月（がつ）二（に）十（じゅう）七（しち）日（にち）のことである。

　天（てん）皇（のう）はこの王（おう）権（けん）が、淡（おう）海（み）体（たい）制（せい）を継（けい）承（しょう）するものではないと明（あき）らかにするために、新（あら）たに天（てん）命（めい）を承（う）けて王（おう）朝（ちょう）を開（ひら）いたものとし、この新（しん）王（おう）朝（ちょう）を、

「日本（にっぽん）」

　と号（ごう）した。

　天（てん）皇（のう）は治（ち）世（せい）十（じゅう）五（ご）年（ねん）にして崩（ほう）御（ぎょ）したが、諡（おくりな）を天（てん）武（む）天（てん）皇（のう）としたのは、これより数（すう）十（じゅう）年（ねん）ほど後（のち）のことである。皇（こう）后（ごう）が立（た）って天（てん）皇（のう）の位（くらい）を継（つ）いだが、これが持（じ）統（とう）天（てん）皇（のう）で、治（ち）世（せい）十（じゅう）一（いち）年（ねん）にして孫（まご）の珂（か）瑠（るノ）皇（み）子（こ）に位（くらい）を譲（ゆず）った。これが文（もん）武（む）天（てん）皇（のう）で、これによって天（てん）皇（のう）号（ごう）が義（ぎ）務（む）的（てき）に世（せ）襲（しゅう）される制（せい）度（ど）として確（かく）立（りつ）されたもののようである。

　天（てん）武（む）天（てん）皇（のう）の勅（ちょく）命（めい）による史（し）書（しょ）の編（へん）纂（さん）は、四（し）十（じゅう）年（ねん）ほどの歳（さい）月（げつ）を経（へ）て完（かん）成（せい）し、太（たい）古（こ）からの歴（れき）史（し）が初（はじ）めて削（さく）定（てい）され、歴（れき）代（だい）の王（おう）者（じゃ）を選（えら）んで天（てん）皇（のう）号（ごう）が追（つい）尊（そん）された。

　なお鎌（かま）足（たり）の子（こ）不（ふ）比（ひ）等（と）は、まだ年（ねん）少（しょう）の故（ゆえ）に争（あらそ）いを避（さ）けられ、後（のち）に宮（みや）仕（づか）えをして出（しゅっ）世（せ）し、藤（ふじ）原（わら）氏（し）の繁（はん）栄（えい）の礎（いしずえ）を築（きず）いた。鎌（かま）足（たり）の伝（でん）記（き）である『大（だい）織（しき）冠（かん）伝（でん）』が編（あ）まれたのは、不（ふ）比（ひ）等（と）の孫（まご）の仲（なか）麿（まろ）の時（とき）と云（い）われ、これによって古（こ）代（だい）の前（ぜん）期（き）から後（こう）期（き）への過（か）渡（と）期（き）を生（い）きた人（にん）間（げん）としての実（じつ）像（ぞう）は、空（くう）虚（きょ）な讃（さん）辞（じ）と美（び）辞（じ）麗（れい）句（く）の中（なか）に、永（なが）く隠（かく）されることとなったのであった。