異形なる絵のモデル

海青猫

第1話

 《八月某日。A子さんが他殺体で見つかった事件で、警察は夫であるSを殺人容疑で逮捕した……か、最近は物騒な事件が多いな……》

 生暖かい空気に包まれたガラリと広い電車のシートに座ったまま、意図せず聞こえてくる誰かの心の声に耳を傾けた。確かに最近はそんな事件が多い。


 時間はもう二十一時になろうとしている。目立たぬように辺りを見回した。

 都心から離れていこうとする列車の最後尾車両の中には、くたびれた年配の男性が一人新聞を広げて向かいのシートに腰掛けているだけだった。心の声はその男性からに間違いないだろう。夫が妻を刺し殺す映像を男性が想像した。割とリアルな想像だ。どうやらよほど細君を疎ましく思っているらしい。


 ため息をつくと、心の声を聞き流した。ガタゴトと電車の単調な音が響く。

 やがて急ブレーキがかかりアナウンスの後、電車は駅に到着した。この電車の運転手は相変わらず運転が荒い。

 電車の扉が開き、プラットフォームから、乗客が乗り込んできた。電車のシートはすぐに一杯になり、最後に乗ってきた人は扉近くに立つことになった。

 老若男女の乗客の心の声の雑踏がうるさくなった。意識して心の耳を傾けていないため意味までは分かる言葉は聞こえてこない。単純にうるさいだけだ。

 次の瞬間、私は猛烈な頭痛に襲われた。世の中にはまれに強烈に強い思考の持ち主がいる。そいつの心の声は耳を傾けていなくても強烈に聞こえてくるのだ。そんなときは必ず頭痛に襲われる。そしてそんな人は決まってろくなことを考えていない。

 私は思わず駅に降りようとしたが、扉はすでに閉じてしまっていた。

 放送の終わったテレビの砂嵐のような音が頭に響く、他の人間の心の声が全て掻き消えた。

 間違いなくこの思考を行っている人の心の声は、その人を除くこの車両の全員の思考より強い。

 しかし今回は妙だった。いつも通りならば、なんらかの意味のある心の大声が聞こえるはずだ。

 前回は《ここにいるやつらを皆殺しにしてやる!》という声が大音響で聞こえてきたものだ。

 しかし今回は砂嵐の音しか聞こえない。

 砂嵐の音は大きくなり、やがて車両の真ん中に人影が浮かび上がっていた。

 それはおおよそ、いままで見たことがない生き物だった。粘膜を思わせるような濃い紫色の肌、蝙蝠の羽、頭からは吸盤が敷き詰められた触手が十本生えていた。

 とりあえず人間のように見えるのは両手足があるということくらいだろうか、手の先には鋭く長い爪が五本生えていた。今まで嗅いだことがない猛烈な生臭い匂いがする。あまりにリアルな幻だった。怪物はつり革にもたれている人と、半ば同化しながら、その軟体生物特有の飛び出した目で私を確かに見た。触手で見えない怪物の口がニヤリと笑ったのがはっきり分かる。

 寒気がする。どこかからカスタネットを鳴らすような音が聞こえる。それは私の歯の鳴る音だった。

 向かいの車両に行こうと考え、連結部分の扉を見た。ここは最後尾でしかも前の車両に行くには怪物を横切る必要がある。

 次の駅はまだ先だ。いつもはすぐに過ぎる一駅間の時間が無限に長く感じた。

 怪物は私に向かいゆっくりと近づいてくる。

 怪物は車両の真ん中だ。私は車両のもっとも後ろのシートの右端にいた。

 他の乗客は怪物には誰も気づかず、携帯でメールをしたり、ポータブルゲームをしたり、眠ったりしていた。

 怪物はペタペタと足音を立ててこちらに向かってきている。匂いが強く襲ってきた。私はここまで視覚が臭覚に影響すると初めて知った。

 何とか解決策を考えた。

 心の声や、思考を映像で見ることはできる。しかし記憶を読むことはできない。ということは、この怪物はまさしく今現在、誰かが考えている途中だということになる。

 その人物を特定して、意識をそらすことが出来れば怪物は消え去るに違いない。

 必死で今なお聞こえる砂嵐の音の出所を探した。

 よく耳を澄ますと、砂嵐のノイズの中にフルートのような音も混じっている。

 怪物は一歩、一歩と粘液の音を立てつつ私に近づいている。

 口を押さえて叫び声をかみ殺す。

 ざわつく意識の中、砂嵐の音の出所を探す方法を私は考えた。

 人が雑音の中、知人と話しができるように、どんなに心の声が大きいところでも集中すれば、個人の心の声を聞き特定することができる。

 乗客一人一人の心の声を聞いていき、砂嵐の音が聞こえつづけるまたは、怪物の存在が強くなる人物こそが怪物の創造主に違いない。

 まず、前の車両に最も近くのシートの左端に座っている老人から、老女、先ほど新聞を読んでいた中年男性、派手な化粧の女性、順番に心の声に心の耳を傾けた。

 《まったく、最近の若いもんはなっとらん》

 《今日の献立は何にしましょうかねぇ》

 《課長の奴め。無理ばかり抜かしやがって……》

 《眠いなあ、でもメールしなきゃ》

 順番に耳をすまして心の声を聞いたが、どうでもいいことばかりだった。

 あと少し、怪物は三歩位で私の元にたどり着く、異臭がさらに強くなる。手足が瘧のように震えて、涙が滲む。またも叫ぼうとする口を私は全力で押さえ込んだ。

 もう時間がない、ざわめく心をおさえつつ、

 次は、十代半ばくらいの女の子に心の耳をむけた。学生服を身に着け、スケッチブックを小脇に抱えたその少女が私の方を向くのと、心の声を聞くのはほぼ同時だった。

 怪物の創造主は彼女だ。間違いない。私が心の耳を彼女に向けたとき、砂嵐の音とフルートのような音が確かに強くなった。

 怪物はもう私の目の前にいた。

 粘液で光る濃い紫色の肌が間近にある。

 怪物は、薄汚れた爪を振り上げた。

 私は思わず、爪を右腕で防ごうとした。シートに腰掛けているため。逃げることもできない。素早く爪は振り下ろされた。

 私の口が悲鳴を放つ瞬間。

「大丈夫ですか? 顔色が悪いようですけど?」

 遥か遠くから声が私の耳に届いた。

 怪物は消え去っていた。

 怪物の創造主が私の近くに来ていた。

 どうやら、傍から見ると私は具合が悪い人のようだった。運よく私の具合の悪さが彼女の目につくことで意識がそれ、結果的に怪物を考えることをやめることになったに違いないだろう。

「△町~△町」

 車掌のアナウンスが電車に響く。

 電車は急ブレーキのあと、次の駅に停車した。

 彼女が私を覗き込む。怪物は消えたが、砂嵐の音はまだ聞こえている。

 彼女が近くに来ることで頭痛がいや増した。

 フローラルの香りとともに、少し絵の具の匂いがした。どうやら部活か何かで絵を描いているのだろう。

 私は彼女の持つスケッチブックの中に、先ほどの怪物が大量に書かれていることを想像してしまった。

 やがて電車の扉が開く、私は丁寧に彼女に謝意を示し、大丈夫と告げた。

 そしてここは私が降りるべき駅ではないが、足早に電車の扉をくぐり電車を出た。

 彼女が何か言っていた気がするが聞こえない振りをした。

 一息つくと、右手に鈍痛が走った。

 袖をめくると、怪物の爪を受け止めた右に、切り傷が出来ていた。縦に走った赤い筋からは血が生々しく滲んでいた。服は全く切れていない。

 駅のホームの椅子に腰掛けた。

 次の電車が来るのは、十五分くらいかかるようだ。そして先ほどの怪物を回想した。


 なんだったのだろうか? あの怪物は?

 人間の想像は結構曖昧なもので、たとえば顔だけはリアルに考えているが、背中は全く曖昧模糊としていることが、往々にしてありえる。

 しかし、先ほどの怪物は背中どころか、爪先まで細部までリアルだった。

 まるで、彼女が怪物に遭遇したことがあるかのようだ。

 スケッチブックを所持していたようだが、怪物をモデルで絵でも描いているのだろうか?

 前に読んだ小説で、怪物をモデルに絵を描く画家の話を読んだことがある。

 しかし、今回は絵ではない。仮に怪物に遭遇したとしてもあそこまで正確に頭の中で怪物を想像できるものではない。

 人は毎日会っている家族の顔ですら曖昧にしか想像できないものなのだから。

 やがて、何人かの人が階段を上ってきていた。複数の人間の心の声が雑音になって聞こえてきた。

 私はそれらの声を右から左に聞き流す。

 軽い頭痛がした。そして例の砂嵐の音が少し聞こえた。

 私は思わず立ち上がった。

 ホームに上がってくる人を見やると、先ほどのスケッチブックの子がいた。どうやら彼女は逆方向の電車でこの駅に戻って来たようだ。彼女は階段を上がりつつ、迷わずこちらに向かってきた。すでに階段の半ばまで達している。

 同時に先ほどの怪物も彼女の一歩後からついてくる。

 ただ、今回は一体ではなかった。

 階段から怪物が集団であがってくる。

 頭がトカゲで全身がとげだらけの緑の肌の怪物。

 鱗に覆われて、腹が異様に膨らんだ灰色の肌の怪物

 ドロドロとした粘液状の怪物。

 全身が金属の筒のようで小さな手足がついているだけの怪物。

 蛇のような下半身の女の怪物。

 魚の頭部で、灰色がかった緑色の怪物。

 粘液が滴る音、這いずる音、固い金属音、水音が辺りに満ちる。

 硫黄の匂い、腐った肉の匂い、生臭い潮の匂いが入り混じって鼻を突く。

 階段はさながら怪物の動物園のようだった。

 それらは彼女の後ろから私に向かって、迫ってきていた。

 怪物は私以外の一般の人には見えないらしい。立体映像のように階段を上る人々に覆いかぶさって存在していた。

 電車はまだ来ない。

 ホームの出口である階段は怪物がひしめいている。

 スケッチブックの彼女は足早にこちらに近づいている。

 ヒッと、私の喉が息を漏らした。

 ここで叫ぶと、狂人扱いされてしまう。

 私は最大限の理性でもって正気を保とうとした。血の気が引いていくのが分かる。

 聞こえてくるはずの他の大勢の人の心の声は、彼女一人の心が生み出したであろう怪物の存在がかき消した。

 彼女は階段を上りきる。ホームに降り立った。彼女と私の距離はおおよそ二十歩位。

 その後ろに怪物がひしめいている。

 彼女は私に手を振った。

 言い知れぬ恐怖が心を満たす。

「よかった。この駅にいたですね。私はいつもこの駅で降りるですけど、つい乗り過ごしてしまって。反対ホームに貴方がいたから……」

 彼女の心の声ではない声が私の耳に聞こえてくる。何をいっているのか。最後までききとれなかったが、私が目当てなのは間違いない。彼女は足早にこちらに向かってくる。

 もう、逃げる余地はない。

 確か、人間の思考は脳内の電気信号による情報処理の副産物で、感覚器のインプットから、運動器へのアウトプットへの処理の過程に過ぎない。

 そういう意味では、この怪物を消し去るためには、彼女の脳を止めるのが一番早い

 さもなければ、先ほどの電車内のように彼女の気を一時的にそらすしかない。

 混乱しつつある意識の中で私はそう考えた。

 一つだけ方法が思いついた。しかし……。

 駄目だ。

 ああ、もう彼女は目の前だ。

 ついに電車の中で私の右手を切り裂いた紫色の蝙蝠の羽がある怪物がまたも爪を振り上げた。

「財布。落としましたよ。これ貴方のですよね?」

 どうやら、彼女は親切にも私が落とした財布を届けてくれたらしい。

 よけいなことを……。私は内心、激しく毒づいた。

 私は真っ白になりつつある意識で、先ほど思いついた彼女の気をそらす方法を実行に移した。

「好きだ。付き合ってくれ」

 私は目の前にいる、彼女を抱きしめた。

 変質者扱いは間違いないが、死ぬよりはましだ。

「はい」

 彼女の答える声が耳に届いた。

 すでに、怪物の集団は消えさっていた。


※※※※※

 《十二月某日。○○高校三年生で美術部所属のB子さんが、交際相手の男性Cに刺し殺される事件が発生しました。容疑者Cは大型肉食動物に噛み千切られた惨殺死体で発見されました。頭部と手の一部はいまだ見つかっていません……。又も物騒な事件か……》

 課長からいびられ心身ともに疲れ切った会社帰りの電車内で、中年男性は心の中でつぶやいた。

 ただ、その心の声を聴くものはどこにもいない。虚空に思考は溶け去っていくだけだった。

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