無憂セカイ夢遊フェイト 〜夢魔LMの書より〜

愛野ニナ

第1話



 それは遠くでもありすぐ近くかもしれない世界の物語。

 どこにでもある森の奥深く、迷い込むとそこは世界じゅうの森と時空を超えて繋がっている黒の森。

 かつてはその理を知る者もいたらしい。

 黒の森の中には古の女神をまつる神殿があり、その儀に願いを叶えてくれるという。

 但し女神に呼ばれたものだけがその神殿にたどりつける。

 だが、行きて戻りし者は口を閉ざしたまま。

 だから本当のことは何もわからない。

 伝承に残るのはいつも「誰かからきいた話」だけ。

 彼も、或いはその神殿のあるじたる女神に呼ばれた者だったのかもしれないが。

 少なくともこの時彼は黒の森の伝承など知る由もなく。

 異郷からやって来た彼は今まさに力尽きようとしていた。   

 幾千万の昼と夜は巡り、どれほどの月日が過ぎていったのか、彼は既に自らの名前さえもう思い出せなくなっていた。

 放浪の果てに迷い込んだ森は深い静寂をたたえて彼を招いているようであった。

 眠りたい。

 麻痺しつつある思考で願う。

 昏く優しい闇の誘惑に身を委ね甘美のままに。



 *** **** ***



 閉じた瞼を透かして届く淡い月光は、わずかに欠けた十六夜の月。

「わたしはレムリアに仕える者、位無き巫女のミメア。貴方をあるじの神殿へお連れします」

 耳元で囁く少女の声に誘われるように現れる景色。

 いったいこれは誰の夢だろう。

 薄紅色の化粧煉瓦。

 古の女神の神殿。

 それはかつてどこにでもあった。

 砂漠に築かれた都市にも、海辺の港町にも、運河を巡らせた島の中にも、険しい斜面を切り拓いた山頂にも、そして森の中にも。   

 呼び名は違えど、そのあるじは愛の女神。

 在りし日の姿をとどめているのか物言わぬ女神の石像は、片手に肉でできたバラを持ちもう一方の手で彼方を指差し、微笑を浮かべている。

 その瞳はどこか遠くどこにも無い楽園を見つめているかのよう。

 三日月型の角、無数の乳房、足元には無数の獣たち。

 豊穣と繁栄、生と死と再生。

 黒の森の奥に集約されていたのか。

 異形なる愛の女神。MWの化身。

 我が故郷の地にも確かにあった。

 女神の信仰もまた、我と同じく新しき神の台頭に消えたはずだった。

 そこで気づく。

 今この記憶をたどる「我」とは誰であったか。

 そう、彼もかつては神として崇められていた時があった。

 しかし侵略者が持ち込んだ新しい神に居場所を奪われ追放を余儀なくされた。

 ゆえに故郷の地を出て漂流神となった。

 長い旅路の果てに、彼に付き従う者たちは徒労や病で次々と倒れていったが、それを助けることもできずただ見送った。

 彼は一人になって久しく、もはや彼の名を呼ぶものは誰もいない。

 何もかも失った彼はただ静かな安息だけを求めていた。

 信じる者の祈りを失った神に存在する意味はもう何も無かった。そのはずだった。だが、

「貴方こそ我らが待ち望んでいた者と神託は告げた。自らに疑問を持つことはゆるされません」

 少女の声が覚醒を促す。

「目覚めなさい森の祭司」

 起き上がる気力はなかったが、少女に手を引かれるままに体を起こす。

「これを」

 手の中に小さな赤い実があった。躊躇っていると少女はその実を自ら口に含み、彼の唇に移し入れた。

 少女は微笑を浮かべる。その表情はどこかで見た古の女神の石像にも似ているような気がした。

 彼…否、俺はその彼女に惹かれた。理由などない。



 *** **** ***


 

 まるで夢の中の女のように掴めない。

 透き通るほど白く淡い。

 木々の隙間から頭上を照らす月光に輪郭線が溶けてしまいそうに儚い姿。

 やわらかな長い髪が細い体を守るかのようにとりまいている。俺はゆるく波打つその栗色の髪をそっと払う。

 白い胸に赤い花が咲いていた。

 沈まない月がミメアの象形で唯一の鮮やかな色を成すその花を浮かび上がらせる。

「これは?」

「女神に仕える者のシルシなのです。私たちは皆、生まれた時からこのシルシを持っているの」

 成程ここは愛の神殿か。古の時代から愛の女神のためゆえに存在しうるもの。

「お前は女神の娘と呼ばれる者か」

 同じく古の時代より女神に仕える神殿娼婦の類だ。

 ミメアは頷く。

 その胸の赤い花に触れると俺の指先を通ってミメアの意識が流れ込んでくるのだった。



 *** **** ***



 私達は夢を見ない。

 無力で無感動。

 単調で退屈なこの優しき楽園の中。

 ここで生まれて、ここで死ぬ。

 そのことに疑問など持ってはならない。

 もちろん私達だって外の世界を知らないわけではない。

 認識してはいる。

 私達は女神の依代として祭儀にやってくる信徒と体を重ねることで祝福を与える。

 そのような時、稀に意識が重なり、信徒が見てきた外の世界が垣間見えることがある。

 だけど外の世界に想いをはせたり、自らの来歴を疑ったりもしない。してはならないから。

 理に従い月齢ごとの務めを日毎果たすだけ。

 この神域が私の知る世界の全て。

 貴方をこの神域に導いたのも、あるじの命。その真意はわかりませぬ。探ろうとしてはならないものだった。

 でもわたしは知ってしまった。

 彼女の、嘘。



 *** **** ***


 

 共に育てられたアルラは七つの歳に神託の巫女として聖別された。もう幼なじみとして接することは二度とない。

 私たちに親はいない。肉の繋がりを父母というのなら父は信徒の誰かで母は巫女の誰かではあるが、この神殿では子どもは共同で育てられるため親子という概念は無い。

 神殿で生まれたものは誰であれ他者に特別な感情を抱くことは禁忌とされている。

 だから共に育てられた子どもの中で唯一の男の子がアルラの分身で双子の弟であるということを誰もが知らないふりをしていた。にも関わらず他ならぬアルラ自身がその弟に特別な感情を抱いていたのもあきらかだった。

 女しか生まれないはずの神殿で生まれた男の子はアルラと同じ七つの歳に長らく不在だった森の祭司として聖別された。

 MWは夢を具現化する力、それは存在してはならないもの。目覚めてはならない異能の女神。

 そして森の祭司とは女神を封じるための結界となって身を捧げる犠牲獣なのだ。次の祭司に変わるまで終わらない苦痛を強いられる。

 アルラは愛する弟を森の祭司の定めから解放したかったのだ。



 *** **** ***



 神託は巫女アルラの口寄せにて告げられる。

「異教の神を祭司とせよ」

 この日何かがやってくることをアルラは優れた感覚で察していたのだ。

 既に望みは叶ったと彼女は言った。

 満月の実りの祭儀から一夜過ぎた今夜の森に導かれたものこそ我々の待っていた者、すなわち森の祭司であると。

 それゆえ私ミメアは神託に命じられ十六夜の森にやってくる者を待っていた。

 それが貴方だった。

 先刻、貴方の意識に触れたからわかる。

 貴方は、

 外つ国から来た神様なのね。ディオン?少し発音が違うかもしれないけれど。

「俺は邪神として追われた。従う者はもういない。だがここで森の祭司とやらになるつもりは無い」

「そう、では早くここを立ち去ったほうがいい」

「お前もだ。共に行こう」

「私はどこにもいかない」

 私達は女神の元を離れて生きてはいけないの。母なる大地から摘まれた花が瞬く間に枯れてしまうように。

 巫女は女神に仕える者。信徒と女神の間を繋ぐ者。他者に心を寄せてはならないのです。

 それなのに、流れ込んでくる感情が私のものなのか貴方のものなのかもうわからなくなっている。

 自我の境界を無くし溶け合う意識はただひたすらに快楽そのものであった。

 心は直に語り合う。

 あなたの叶わなかった夢、この地で潰えてしまうのが惜しい。

 そうここは叶わなかった夢の墓場。

 叶わなかった夢の結晶が女神の力の源泉となる。

 でも本当は、たとえ叶わない夢だとしても忘れることさえなければそれを自らの魂の内に永遠にとどめおくことができるのだと、ミメアは言った。

 俺もかつて何かを夢見ていたのだろうか。

 何ひとつ思い出せなかった。

 今はミメアと共に旅立ち新しい世界の夢を見たいと願う。

 そしてそれが叶わぬ夢であることを同時に悟ってもいる。



 *** **** ***


 

「異郷の神よ、その剣を抜きなさい」

 白い衣をまとった神託の巫女が言った。黒髪を飾る三日月型の金色にきらめく額冠は女神の角を模しているかのよう。アルラと呼ばれていたミメアの幼なじみの少女。

 この神殿の巫女達が皆一様にどこか虚ろな表情をしているのに対し、神託の巫女アルラだけは違う。その漆黒の瞳は揺るぎない。

 指先が示す先には確かに剣のごときものがあった。

「私の言葉は全て女神の意思により紡がれたもの。偽りなどありませぬ。誰しもMWの因果から逃れることはできない」

 僅かに欠けた十六夜の沈まない月。時間さえ凍りついてしまったのかのよう。

 回廊に灯された無数の篝火が神殿の中庭を照らしている。

 月光と炎の熱が交錯する空間の歪みか、女神の鏡という名の泉から奇跡のように立ち登る蜃気楼の塔はいつかの旅の途中、砂漠の都市で見たエ・テメン・アン・キに少し似ていた。

 彼は何かに操られるように泉の中に身を浸しその中心へと向かっていった。

 幻の塔から何かが降りてくる。

 剣を抱いた少年の幻影である。無論生きた者では無い。

 動き出した因果は止まらない。

 彼は剣を手にする。何かの意思に突き動かされるがごとく。

 あるいはそれを運命というのだろうか。

 そして、かつて異郷で神とよばれた者は森の祭司となっていた。

 それを祝福するかのように手にした剣は金の枝を宿した杖の形状に変わり四方にその枝葉を伸ばした。

「セイル…」

 その刹那、神託の巫女がひそやかに呼んだ弟の幼名は誰にも聞かれることはなかった。

 巫女は個としての意思を持ってはならない。それは当然アルラもまた同じであったが。

 アルラは森の祭司となった弟の魂を解放したいと強く願っていた。個の願いを女神は叶えてくれたのかどうか、新たなる森の祭司は定められた。

 愛の女神に仕えし私達は愛することをゆるされざる巫女。

 弟を愛した私、アルラの罪に女神はどのような罰をくだされるのか。それが何であれ私は受け入れよう。

 そして巫女のひとりミメアもまた、はたして本当に異郷の神と心を通わせていたのかどうか。それは本人にすらわかるまい。だが彼女は確かに自らの意思で新たなる森の祭司を逃そうとしたのだ。

 その裏切りの罰は女神の言葉として告げなければならなかった。

「永遠に呪われよ。裏切りの巫女ミメア、お前の心と体は石となれ。これより下界に出て愚かな人間達の叶わなかった夢の結晶を集め女神に捧げ続けよ。その罪が贖われるまでずっと」

 だがその呪をうけてミメアは思う。

 石の心と石の体とは、何も感じない心と体のことだ。

 元来、巫女の資質とは他者の意識と交信するための感じやすい心と体。

 にもかかわらず、これまでの暮らしこそが石の心と石の体だったのだ。女神に守られた聖域、愛の神殿の中では痛みも苦しみもない代わりに、愛する気持ちも生くる喜びも感じなかった。

 でも今は違う。それが何という感情かわからなくて戸惑いはしてもある種の痛みや愛しさを確かに知った。

「呪われよ。これより漂泊の巫女となる者。お前の恋は成就しない。愛するものと同じ世界で二度と邂逅することはできない。お前たちの時空はすれ違いもう永遠に重なることはない」

 神託の巫女アルラが呪いを伝い終えると神殿が崩れ始めた。

 嗚呼、何もかもが消えてゆく。

 薄れゆく意識の中でアルラは思う。

 何を犠牲にしても弟の魂だけは救えた。セイルの魂はまた生まれ変わることができる。  

 もう悔いはない。

 これで安心して滅びゆくことができる。

 眠る女神の夢が具現化したこの神殿も。この私アルラもまた。

 滅びて後、もはや甦ることはないだろう。

 異郷の神が愛したミメアもまた石となった心でこの神殿の滅びゆく様を見つめていたのだろうか。神域を追放された彼女の行き先は杳として知れなかった。



 *** **** ***



 どこにでもある森の奥深く、迷い込むとそこは世界じゅうの森と時空を超えて繋がっている黒の森。

 その理を知る者はもういない。

 黒の森の中、誰もたどり着く意味もないそこは陥没した地面と泉の跡のクレーター。それをとりまく謎の巨石群はかつてあった女神の神殿の成れの果て。

 そこには誰もいない。ただひとつ、かつて異郷の神だった者の魂が眠ることもゆるされず呪縛されている。

 彼を解放できるのは次なる森の祭司だけ。

 永遠のごとき果てしない孤独の中で彼の者が毎夜思うのは、解放の時への儚い望みか。

 それとも、時空を超えて繋がる誰かの夢の中に、愛した娘の面影を探し続けているのだろうか。









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