第30話(最終回)
三年生までは全日制と共用だった教室も、四年生になれば校舎も変わって定時制専用になる。
君は志望する大学に入学し、僕は変わらずに高校生を続けている。
そのことに何か焦りのようなものを感じるのは確かだけど、夏には僕も、晴れて二級整備士になった。
当初の予定通り、僕は正式に交際を申し込み、君は目を丸くしてから怒りを顕にした。
「とっくに付き合ってるつもりだったのに!」
君は学校帰りに職場に顔を出してくれたりするし、あの公園に立ち寄って、楠の下で話をすることは何よりも楽しい時間ではあるけれど、デートらしいデートもまだしたことが無い。
だからと言うわけでは無いが、言葉でちゃんと、「付き合ってください」と伝えたかったのだ。
君は真剣に怒ってはいなかったけど、実際のところ、僕は君によく叱られる。
「私は我儘なんだから優しくし過ぎては駄目」と叱り、「他の子に私以上に優しくしては駄目」と叱り、「お祖母ちゃん孝行しなさい」と叱る。
そのお祖母ちゃんとは、君はすぐ仲良くなった。
まるで孫が出来たみたいに祖母は君を可愛がった。
初めてキスをしたのは、やっぱりあの楠の下で、お互い照れ臭くて暫く言葉が出なかったけれど、その代わりに君は、餌を
ねだるようにそれを繰り返して、そのくせ恥ずしがって度々顔を伏せた。
胸が苦しくなるくらい幸せで、空も飛べるんじゃないかと思うくらい気持ちは弾んだ。
見上げた楠みたいに、豊かで大きくあろうと思った。
ドライブには何度行っただろう。
初めてのときは何故か、「車、持ってたの!? 早く言ってよ!」と叱られたけど、君はドライブが気に入ったようで、休みが合えばあちこちへ出掛けた。
僕が二回目の合同文化祭の準備に追われる頃、君は教習所に通い出した。
「免許を取ったら泊まりがけのドライブに行くわよ」
君は意気揚々とそう言うけれど、お父さんは許してくれそうにない。
君は頑固で、お父さんも頑固らしい。
二人は冷戦状態になって僕をハラハラさせたけれど、僕が高校を卒業した時、祖母も一緒なら、ということで三人での旅行を許してもらえた。
旅館では君が祖母の孫と間違われたし、僕と君も若い夫婦だと思われたりした。
三人はまるで家族みたいで、そして君は、本当の家族みたいに祖母を「お母さん」と呼んだ。
僕にとって祖母が、「お母さん」であるのと同じように。
僕はと言えば、君のお父さんとはなかなか打ち解けられずにいる。
いつ顔を合わせても気難しい表情だったし、会話は最小限だ。
でも、オイルやタイヤの交換は任されるようになったし、次の車検は僕に頼むという。
「車の整備は信頼出来るヤツにしか任せられん、ってお父さんが言ってたわよ?」
君からそう聞いた時は嬉しくて舞い上がった。
「それから、お前が彼と結婚したら整備代タダになるのかなぁ、なんて……勝手なことを、その、言ってたり……」
そう付け加えて、君は頬を赤らめた。
僕もきっと、赤い顔をしていたと思う。
職場に新人が入ってきて、僕に後輩が出来た。
かつてクラスメートだった人達が、車を所有するようになって僕のところに来る。
僕も、美紗ちゃんの美容院に行ったり、友人が働くスーパーで買い物をしたりする。
結婚や出産の話もちらほら聞こえてきて、式に呼ばれたりお祝いを贈ったり。
中には定時制と全日制出身のカップルもいて、学年が違ったから特に面識も無いのに結婚式でスピーチを頼まれたりした。
僕らは、定時制と全日制を繋いだキューピッドみたいな扱いらしい。
君が大学を卒業して就職し、いずれは僕らも、なんてことを頭の片隅で考え出した頃、祖母が倒れて入院した。
祖母は僕にとってたった一人の家族だ。
そして、いつかは別れが訪れることも確かだ。
そんな判りきったことを再認識した僕は、説明し難い恐怖や虚無感みたいなものに襲われた。
誰かのために生きる、なんてことを普段から考えているわけでは無いけれど、肉親が一人としていなくなった時に、僕は何をよすがにすればいいのだろう?
大袈裟かも知れないが、自分の存在意義を見失ってしまいそうに思えた。
僕が働けば祖母が助かる。
僕が楽しそうにしていれば、祖母も嬉しそうだ。
健康に育って、大人になって、祖母の昔話を聞き、祖母が望む未来を僕も望む。
その祖母がいなくなったとしたら、働く意味は? 楽しむ意味は? 未来を掴む意味は?
それに、僕は祖母に、いったい何を返せただろう?
弱気になって落ち込む僕を、君は何度も叱咤した。
不安も怯えも、君は理解した上で吹き飛ばそうとした。
ああ……そうだ、僕には君がいる。
僕には君がいたんだ。
君は強くて、真っ直ぐに前を向き、弱音を吐くことも無い。
あの楠の下に、蝉時雨が降り注ぐ頃だった。
祖母が亡くなって、そんな強い君が、僕よりも泣いてくれた。
君があんまり泣くものだから、弱い僕が狼狽えたり取り乱したりせずに済んだのかも知れない。
死化粧をした祖母はとても綺麗で、とても穏やかな表情をしていた。
君が「お母さん」と最後に呼んで棺の窓が閉じられたとき、僕は一人じゃないと思ったんだ。
きっと祖母も、同じことを思ってくれただろう。
君は家族で、祖母はお母さんで、君は娘なんだ。
悲しみは二人で分かち合って半分こ、喜びは二人分で倍にしよう。
でも、君が泣くことの無いように、僕は精一杯の努力をしよう。
梅雨明けが近付くと、僕はあの日のことを思い出す。
夕凪みたいな教室に君が訪れて、潮騒みたいなざわめきを残していった。
それは二人にとって特別な日で、その日付は深く刻まれている。
だから今朝、君は言った。
「今日も残業だったら承知しないから!」
君らしい、輪郭のはっきりした、でもどこかに甘えを含んだ強い口調。
「今日は必ず定時に帰るよ」
僕がそう答えると、君は初めて見たときと変わらない笑顔を浮かべた。
「行ってきます」
僕が言う。
「行ってらっしゃい」
君が言う。
毎日繰り返す挨拶。
そしてそれは、これからもずっと。
──今日は僕と君の、三回目の結婚記念日だ。
あとがき
最後まで読んでくださり、ありがとうございます。
この小説は、最初は短編にするつもりでした。
コメディ要素もエロ要素も無し、タイトルも地味、ということで、読まれることは期待せず、書きたいように書こうと思って書き始めたものです。
結果的に中編小説になりましたが、もっとじっくり丁寧に、机の上のやり取りや、二人の距離が縮まっていく様子、定時制の生徒間の繋がりを描きたかったなぁ、と少し後悔しています。
とはいえ、連載期間中に、「金のたまご」に選出されたのは大きな励みになりました。
勿論、フォローや評価、レビューとコメントにも多大な励みを頂きました。
感謝申し上げます。
私は定時制高校の現状は知りませんし、学校によっても違うと思いますが、かつて定時制高校に通っていた友人から沢山の話を聞きました。
彼は中学生のときに好きだった子が全日制に行き、自身は定時制に通うという状況でした。
彼が登校するとき、彼女は下校時間。
何度か会って、その度に彼女は笑顔で挨拶してくれたそうです。
作中と同じように、定時制と全日制の間には隔たりがあって、彼女の友人達は眉を顰めるような感じだったらしいですが、彼女はそんなことは意に介さず、いつも笑顔で挨拶をしてくれたそうです。
彼は小説のように彼女と仲を深める、なんてことはありませんでしたが、「あの子を好きになって良かった」と、何度も口にしていました。
その話が、この小説を書くきっかけでした。
私の小説は、基本的に主人公達が幸せになります。
勿論、幸せになる過程で悲しいことが皆無なんてことはありません。
友人である彼はかなり苦労をしましたが、幸せになる過程にいるところです。
読者の皆様も、幸せになる過程でありますように。
昼と夜のあいだ 杜社 @yasirohiroki
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