茜色した思い出へ

新巻へもん

忌まわしきもの

 しとしとと雨が降り出す。ハンスは窓の外をぼんやりと見ていた。山の中腹に建つ家からは青々と茂る木々の向こうに小さな湖とその向こうの小高い岡まで良く見渡せる。この様子ではしばらく雨はやみそうにない。この家で暮らすようになってからかなりの年月が経つが、ハンスは夕暮れの光景を見たことは無かった。


 窓ガラスに映る主の姿を見てハンスは振り返る。

「レイディジェシカ。何か御用でしょうか?」

「いえ。ちょっと息抜きに部屋を出てみただけ」

 ハンスが仕える昏き山の魔女ジェシカは物憂げな表情をした。


「私も年かねえ」

 ジェシカは自嘲気味に笑う。

「そんなことはありません。ちょっと根を詰めて研究をされているだけです」

 ハンスは真剣な顔で言った。


「おや。この私に反論しようというのかい?」

「そんなつもりはありません」

 からかうジェシカにハンスが顔を赤らめる。ジェシカはその様子を目を細めて観察していた。


「随分と生意気になったもんだよ。ここに来た頃はこんなに小さくて、いっつもめそめそしていたのにさ。まるで、この天気のように」

 ジェシカが左手のてにひらを床と平行にして自分の腰の辺りで動かす。

「あの頃は本当に可愛かったのに」


 ハンスは唇を引き結ぶ。だいぶ背丈も伸びたが、元々かなり長身なジェシカを見るときは相変わらず見上げる形になった。ジェシカはその様子を見て笑い出す。手をハンスの頭に乗せると髪の毛をくしゃくしゃにした。

「その恨めしそうな顔は前から変わらないね」


「レイディが私をおからかいになるからです」

「お前を見るとどうしてもね。可愛い私のハンス。そうだ。お茶をいれておくれでないかい?」

「はい。ただいま」


 お茶のセットを運んできたハンスは手慣れた手つきでお茶をカップに注ぐ。ジェシカは一口飲んで満足のため息をついた。

「もう。お茶に関してはお前に及ばないよ」

「ありがとうございます」


 ジェシカはテーブルの表面を長い爪でコツコツと叩きながら何か考え事をしていた。お茶をまた一口含むとこくりと喉を鳴らす。

「そうそう。今年の集会にはお前を連れて行くこととしましょう」

 その言葉を聞いてハンスは顔を輝かせた。


「いいのですか?」

「ああ。お前はもう他所の魔女たちの前に出しても恥ずかしくない。ただ、私のそばを離れるんじゃないよ。悪い魔女はお前のような可愛らしい男の子が大好物だからね。油断していると食べられちゃうよ」


 ハンスの顔に不安がよぎる。

「また私をからかっていらっしゃるのですね?」

「本当さ。私達魔女がどうして何百年も若さを保っていられると思う? それは若い人間の精気を吸い取ってるからさ」


 にやりと笑うジェシカを見てハンスは、ふふと小さく笑う。

「そうやって私を子ども扱いするのですね。優しいレイディがそんなことを言っても私は信じませんよ。魔女が人を食うだなんて。でも、分かりました。おそばは離れないようにします」


 ハンスは一旦口をつぐむ。少し考えてから言葉を続けた。

「もし、本当に魔女が人を食べるのなら、私はレイディジェシカに召し上がって頂きたいです」

 ジェシカは虚を突かれて一瞬目まぐるしく表情を変える。


「おやおや。健気なことをお言いでないかい」

「はい。私をここまで育てて頂いた恩がありますから」

「まったく口ばかり達者になって。その半分ほども料理の腕が上がるといいんだけどねえ」


 その言葉を合図にしてハンスは頭を下げると台所に向かった。その後姿を目で追いながらジェシカはひとりごちる。

「あのことを思い出しても、今のようなセリフをいうのかしら……」

 残りの茶を飲み干し、研究部屋へとジェシカは戻って行った。


 ***


 五年に一度の魔女の集会。隠された湖のほとりに建つ古城に国中から魔女たちが集結した。みな下僕や使い魔を連れてきている。古城にはかがり火がたかれ、その光が湖面に映えていた。その美しい光景にハンスが感嘆の声を上げる。

「まるで夢の中のように美しいですね」


 ジェシカの側に佇むハンスの姿へ、集まった魔女たちから熱い視線が注がれた。手に持つ扇で巧みに目元を隠しているが、羨望の念が漏れているのは明らかだ。魔女たちは人から恐れられている。畏敬の念を持ちながらも、極力関りを持とうとしない。それだけの事績が積み重ねられてきた歴史がある。


 魔女が人を従えていること自体は珍しくない。魔法の力で拘束し従順な生ける屍として使役することはできる。ただ、一様に霞がかかったようなぼんやりとした目つきをしており、複雑な会話をすることはできなかった。それなのに、この少年はなんと生き生きとした目をしているのだろう!


 たちまちのうちにジェシカの周囲に人だかりができる。久闊を叙す間にも魔女たちは好奇の目をハンスに向けていた。本日のホステス役を務める魔女アイリーンの問いにジェシカは答える。

「そうね。もう十年ほどになるかしら。前回はまだ幼すぎたのでね」


 ジェシカはハンスの耳元でささやき肩を掴む。ハンスは体を傾け挨拶をした。

「レイディアイリーン。お目にかかれて光栄です。レイディジェシカの従者ハンスと申します」

 少し頬を紅潮させながらも物おじしない堂々とした立ち居振る舞いに嘆息の声が上がる。


 その夜、ジェシカは大いに面目を施した。人の少年など、という声が上がらなくもなかったが、やっかみと羨望の表れにすぎない。大いに飲み、大いに食べ、宴は果てるともなく続く。いつもなら明け方を迎える前に帰途につくジェシカも、今日という日はつい長居をしてしまった。


 ふと気づけば空が白み始めている。残っていた魔女たちも三々五々と別れを告げ始めた。ジェシカもハンスを連れて、古城の門を後にする。東の山並みから赤い太陽が昇り、空と湖面を染め上げた。まだ酔いの残っていたジェシカははっとして振り返る。さすがに疲れの浮いた顔をしていたハンスの目が見開かれた。


 みるみるうちにハンスの顔が強張り、口から声が漏れる。

「ああ。赤い……。母さん。いやだ。どこ……?」

 ジェシカは袖から瓶を取り出し、栓を開けるとぱっとハンスに振りかけた。そして一言。

「眠れ」


 くたりとくずおれるハンスの体をジェシカは片手で抱きかかえる。もう一方の手で虚空に円を描くとその中から箒を取り出した。ハンスを抱きかかえたまま箒に横座りすると家に向かうことを命ずる。するすると空へ駆け上る箒の上でジェシカは己の迂闊さを呪った。


 十年前、愚かにもジェシカに挑んできた騎士がいた。返り討ちにしたものの不意を突かれたせいで腹に深い傷を負う。今際に騎士から聞き出して、ジェシカを襲うように命じた王国に向かった。王都を業火の中に沈める。そして、ジェシカの有する魔具を欲した王を追い詰め引導を渡した。


 ハンスはその帰り道に町はずれで拾った子だ。灰燼の中、夕焼けに染まる光景を前に何も見ず、何も聞こえない状態で立ち尽くしていた。騎士のために下僕と使い魔を殺されたばかりだったジェシカは、ショックで呆然とする幼子を気まぐれで連れ帰る。三日三晩眠り続けた幼子は目を覚ました時に、すべての記憶を失っていた。


 ジェシカは幼子にハンスと名付け育て始める。行き倒れていたという話を素直に信じ、ジェシカに日々感謝の念を忘れない。意外と利発だったハンスはすぐにジェシカの生活に無くてはならない存在となった。少年から青年と向かうハンスが過去のあの日の記憶を取り戻すことをジェシカは恐れている。だから夕暮れの光景は見せないようにしてきたのだ。


 家に戻ったジェシカはハンスをベッドに横たえる。安らかに眠るハンスに焦燥は見られない。部屋の戸口のところでジェシカはベッドを振り返る。扉を閉めながら呟いた。

「茜色の思い出よ。消えよ」


 

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