夏の森の朝

朝の散歩

 新井敦あらいあつしは、新井家の長男で現在高校二年生。二つ年下の弟がいて、昔はよく二人で自転車をかっ飛ばし公園に行っては虫取りを楽しんでいた。だが、今では弟とはたまに話す程度で、そんな思い出は遠い日の写真の中の出来事になっていた。


 敦が今アルバイトをしているのは市内にある森林公園の受付だ。

 アクリル板越しに入園人数と年齢を確認し、チケットを渡す作業を黙々とこなしている。高校が夏休みに入ると、早朝バイトも始めた。涼しい早朝に公園内を散歩するというイベントを夏休みに行っておいるが毎年人手不足だったり、時給もちょっとだけ高くなることも手伝い早朝バイトに名乗り上げた。


 四時半に家を出ると、すでに朝日が昇り始めていてね濃朱色と灰色の空がグラデーションを作っている。敦ははぁ、と息を吐き出した。今日も暑くなりそうだ。


 いつも通り五時に受付に到着すると、スタッフの緑谷みどりやさんが慌てた様子で駆けてきた。


「園内散歩係の内海うつみさんなんだけど、お子さんが発熱で来られなくなったって。悪いけど新井くん、散歩コースの方に行ってくれない?」


 散歩コースの案内係は園内を道なりに一時間歩き純粋に散歩を先導する。一度だけ同行したことはあったが敦はいきなり振られた仕事をこなせるか不安だった。


「それなら緑谷さんの方が適任ではないですか?」

「受付は離れられないわよ! 今日の参加者は十一名と少ないし。さっ、お願いね!」


 敦は不安に駆られながらも受付を出て集合場所である花壇前に向かった。そこには老夫婦が二組、夏休みでやって来た親子が二組の計十一名が集まっている。敦はおどおどしながらもペコリと頭を下げて一礼した。


「お……おはよう御座います。今から一時間、一緒に散歩に同行します新井敦です。よろしくおねがいします」


 敦はもう一度一礼してから散歩に出発した。


 階段を上ると一面新緑の木々の間から藍色の空と透き通る水色の空に敦は目を奪われた。太陽はまだ山の下の方にあるため光はほとんど照らされていなく薄暗い。土や草の香りが全員を包み込んだ。


 シンと静かな園内だが、動植物の息吹を感じる。どこからか聞こえる鳥や虫の鳴き声。風に揺れる葉のざわめき。


 それにしても、日中とは比べ物にならないほど涼しい。だが、敦は緊張もあってすでに汗ばんでおりポケットから丁寧に畳んだハンカチを出して汗を拭いた。


(しまった。飲み物を忘れたぞ)


 そんなことを考えているところに、男の子が話しかけにやって来た。


「お兄ちゃん。ここ、虫ってたくさん取れる?」

「もちろん取れるよ。カブトムシやクワガタ。バッタやカマキリなんかもね。もうちょっとしたらトンボも会えるよ」

「わぁ。トンボかぁ。見てみたいなぁ」

「夏の終りにはトンボに会えるからまた来ると良いよ」

「そうなんだ」

「秋になると木々が紅葉するし、花壇はケイトウも咲くし、コキアも色付くよ」

「秋ってそんなに色とりどりなの?  見てみたい!」


 男の子は目を輝かせた。


「ねぇねぇ、お兄ちゃんはカブトムシ取ったことある?」

「あるよ。飼ったこともあるよ。公園でカブトムシを取ったのを育てていたら夏の間に卵が生まれてね。幼虫から成虫まで育てたこともあるよ」

「今も家にいるの?」

「小学生の頃は飼ってたけど……今はいないんだ」

「そうなんだ」

「やっぱり、生き物はいるべき場所があると思うんだ。狭いプラスチック製のケージの中じゃカブトムシもかわいそうだろう。餌やりとか土を変えたりするのはお母さんが手伝ってくれたけど大変そうだったし。だから、ある年に全部森に返したんだ」

「そうなんだ……カブトムシ達は森に返されちゃってガッカリしなかったかなぁ」


 敦は花畑前で歩を止めた。


「一度、この花畑前で休憩します」


 朝は昆虫の活動はまだ鈍い上に花は閉じていている。もちろん蜂はいないし、蜘蛛も巣でジッとしているし、蟻さえまだ活動を開始していない。

少しずつ太陽が上り、藍色の空はだんだんと水色に変わってゆく。朝露に濡れた葉が太陽の光を反射してキラキラと輝いていた。


 敦の隣に再び男の子がやって来た。


「でもカブトムシって、長い間土の中で赤ちゃんだったのに成虫になっても夜しか外に出られないって残念だと思わない?」

「思わないさ」

「どうして?」

「昼間に出てきたら鳥とかに食べられちゃうから」


男の子は芝生に座った。 


「僕は、つまらないと思うなぁ」

 男の子の隣をカエルがぴょこんと跳ねた。

「あ、カエル!」

 男の子はカエルを摘んで手のひらに乗せた。昔、敦はカエルが大好きで触りすぎてカブれたことがある。

「カエルはカブれるから気をつけてね」

「そうなの?」

「そうさ。僕がカブれたんだ」


 男の子はカエルを離すと立ち上がった。他の散歩のメンバーはベンチで休んだり花壇を見ている。


「じゃあ、お兄ちゃんはカブトムシになりたいと思う?」

「え? カブトムシに? 考えたこともないな。でも、角がカッコいいからいいよね」

「ふぅん」


 散歩コースを再び出発した。山の木々や、園内の説明もしながらゆっくりと進み、開けた芝生とベンチのある場所で二度目の休憩を取る。もっと遠くまで行けば巨大なフワフワドームがあるし、子どもたちの大好きな木製アスレチックコースもあるがここでは道順の説明のみで純粋に散歩を楽しむ。この後スタート地点まで戻れば解散だ。


「お兄ちゃん!」


 後ろから男の子が走ってきた。


「やぁ。疲れたかな?」

「全然!」


 男の子は笑顔で答える。


「お兄ちゃん! カブトムシ見つけたから見に来て!」


 男の子が脇道に逸れてしまったので、敦は慌てた。後ろを振り返り大声で声をかけた。


「すみません! 少々お待ち下さい」


 敦が脇道に入ると、歩道の無い木々に覆われた暗い山道で急に不安になった。男の子が迷子にでもなってしまったら大変だ。


「おーい。遠くに行っちゃだめだよ! 戻ってきて!」


 よく考えれば男の子の両親はなぜ注意もしないし探しに来ないのだろう。

 近くで鳥の鳴き声が聞こえた。木々の間は太陽の光が届かず足元は葉っぱや土を踏み込む柔らかい感触がある。風で木の葉が揺れる。ザァッと風音が通り過ぎた。だが敦にはそれを気にする余裕は無かった。

「お兄ちゃん!」

 ハッとして声の方を見たが、男の子はどこにもいない。

「どこにいるのー?」

「ここだよ」

「どこ?」

「ここだよ」


 鳥がギャアギャアと鳴いて羽ばたく音が聞こえた。


「係員さ〜ん!」


 声が聞こえて後ろを振り向くと老夫婦が心配そうにやって来た。


「どうしたんですか? 急に脇道に逸れて?」

「男の子が中に入って行っちゃって!」

「えぇ? 男の子?」


 老夫婦は二人とも男の子は見ていないと言う。敦は老夫婦と一緒に元いた道に戻ってきた。

「男の子のご両親はいらっしゃいませんか!」


 ところが二家族ともお互いに顔を見合わせたあと不思議そうに首をひねっている。

「うちは、女の子が二人なんですけど。」

「うちの子はここにいます。」

 敦が人数を数えるときっちり十一人いる。

「あれ……?」

「狸にでも化かされましたか?」

 老夫婦が楽しそうに笑っている。敦は首をひねりつつ一度集合場所まで戻って解散すると、慌てて受付に戻って散歩コースの申込者の確認をした。申込者の中に男の子はいなかった。


――


「というわけで……僕は男の子と話しましたし、姿も確認したのに男の子はいないんですよ!」


 敦は興奮した様子で緑谷に事の顛末を伝えた。


「私が受付した限り子どもは女の子が三人で間違いないわ。寝ぼけたのかしらねぇ? 心配だったらもう一度見てきたら?」

敦はハイッと返事をするなり受付を飛び出した。


 先程、男の子が消えた場所まで来るともう一度木々をかき分けて山道を進んだ。すっかり太陽が顔を出して気温がグッと高くなっている。暑くて汗が首や背中を伝った。


「まだここにいるかな〜? 隠れてないで出ておいで〜」


 返事はない。だんだんさっきの男の子が幽霊だったのではないかと思い始め、汗がひんやりと流れてブルブルと身震いした。

 ふと、目の前のクヌギの木に立派なカブトムシがとまっているのが目に止まった。

「こんな時間まで木にいたらカラスに食べられちゃうよ」

 敦はカブトムシを木の下の木屑の中に移動してあげようとヒョイと掴んだ。


「朝の世界は最高に綺麗だったなぁ。僕も昼に動けたら良いのになぁ」


 どこからか男の子の声が聞こえた。





        了

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夏の森の朝 @kyousha

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