しかし今馬はそっと乙女を引き剥がした。乙女の心はもう今馬と一つになろうとしていたが、しかし今馬は優しくそれを拒んだ。乙女は一人残された。

「気持ちは嬉しいよ」

 その一言に、乙女は何かが目に染みるのを感じた。何かが鼻の奥に突き刺さるのを感じた。耳鳴りがして嗚咽が漏れそうだった。終わった。終わってしまったんだ。乙女はそう感じた。

「僕には妻がいるんだ」

 当たり前のことだった。

「本当は、こうやって会うのもよくないんだよ」

 分かっていることだった。

「はい」

 そう答えるしかなかった。

 自分のわがままに今馬が答えてくれただけ。そんな当たり前の事実に、乙女は今更になって気づいた。そうして更なる真実に気づいた。今馬は心配してくれていたのだ。乙女が目の前の想いに囚われて次の感情に進めないことを。乙女が次の気持ちに出会えないことを。だから今馬は、乙女の気持ちを終わらせに来てくれたのだ。

 そっか。私を振りに来てくれたんだ。

 やっと気づいた。それは既に決まっていたはずのことだった。乙女が袴姿で、今馬に「会わないか」と提案した時から今この瞬間まで、ずっと決まっていたはずのことで、つまり乙女が如何に努力しようと覆ることのない運命だったはずなのに、今の今になって乙女は、その現実に気づいた。数秒前まで、ほんの数秒前まで「もしかしたら」と思っていた自分が心底滑稽に思えた。自らが自らに注ぐ屈辱に、乙女は堪えた。ここで負けてしまっては駄目だと思った。

「はい」

 もう一度頷く。頷くより他になかった。何故ならそれは運命だったから。そうなるはずのことだったから。

「もう一度言うよ」

 今馬の声が優しく響いた。

「気持ちは嬉しい。人を好きになるって、いいことだよな。その気持ちは大切だ。だからこの気持ちや、感情や、想いは、忘れないでほしい」

 乙女は頷いた。今馬は続けた。

「でも僕のことは、忘れなきゃ駄目だ」

 乙女は黙った。嫌です、と言いたかったが、言ってはいけない気がした。

 しかし今馬は無情にも続けた。

「BIRDでの君のフォローをやめる」

「そんな」

 声が出た。抗議の声であり、絶望の声であり、嘆願の声であった。しかし今馬はフォローを外した画面を見せてくると、続けた。

「君は僕を忘れる必要がある」

「どうして。そんな」

「前に進まないと」

 乙女は決壊した。崩れ落ちそうになる膝を何とか支えた。しかしそんな乙女に、今馬は続けた。

「僕よりいい男性がきっと現れるさ。大丈夫、君は綺麗だ。君を大切にしてくれて、尊重してくれて、愛してくれる人を見つけるんだ。いいね? これは僕との約束だよ」

 それから今馬は自分が着ていたコートの胸に手をやると襟元にあったブローチを外した。六角形のブローチで、真ん中に同じく六角形の穴が開いているものだった。今馬は乙女の手を取ると、そっと掌にそれを握らせた。

「クルミの木で作られたブローチだ。花言葉を知ってるかい?」

 乙女はやっとのことで首を横に振った。今馬は笑った。

「『あなたは優れた能力を持っている』。君には才能がある。だから大丈夫。これからの人生でどんなことがあっても、君は自分に最良の選択肢がとれる。君の作品をずっと昔から知っている僕が言うんだから、間違いない」

 乙女は掌のブローチを見た。複雑な模様が彫られた六角形だった。優しく握るとほんのり温かい気がした。乙女ははっきりと上を見上げた。自慢の脚をしゃんと伸ばした。

「はい……ありがとうございます」

 乙女は笑顔を向けた。それは自分が一番美しく見えるであろう笑顔だった。今馬の目にそれがどう映ったのかは分からなかったが、だが今馬も、優しく笑ってくれた。それから二人は駅に向かって、改札で別れた。静かな夜だった。

 月日が経って、乙女は淑女になった。モデル兼作家として活動する傍ら、自分のファッションブランドを立ち上げたり、同じ小説家同士のサークルを作って活動したりと、忙しく過ごした。とにもかくにも淑女は走った。淑女には走るだけの力があった。自慢の脚は美貌も備えていたが、誰よりも健脚であった。淑女はただひたすらに人生を歩いた。迷うことはあったが、それでも進むのを辞めなかった。

 気づけば淑女の活動は様々なところで実を結んだ。ファッションブランドは知人のデザイナーに任せ経営のみに専念し、小説家のサークルは小さな文学賞を作るまで成長した。そして淑女自身も大きくなった。歳を重ねても変わらぬ美しさでモデル界の一線を走り続け、彼女の顔が載った広告が各地に展開された。同時に小説も書いていた。不思議と男性の心を打つ作品のようで、乾いた文体の中にある微かな潤いが特徴の、綺麗な作品を書く小説家になった。やがてその日が彼女に訪れた。

 直木賞候補に名が挙がったのだ。

 結果だけを見ると、受賞はできなかった。だが淑女のキャリアに置いて大きな一歩であることは間違いなかった。そうしてその年二回目の直木賞。再び名が挙がった。受賞はまたしても逃したが、しかし淑女は諦めず小説を書き続けた。そして三度目の候補で、淑女はついに直木賞を受賞した。関係者たちは大きく喜んだが、しかし受賞の一報の場に淑女はいなかった。どうやったのかは誰にも分からなかったが、淑女は一報を待つホテルの一室からいつの間にか抜け出しており、東京に来てから初めて行ったあのレストランで、一人ワインを飲んでいた。直木賞などどうでもよかったのだ。

 受賞の報を受けた関係者たちが淑女を探して慌てふためく様子が報道されていたが、淑女は笑ってグラスを掲げると、こうつぶやいた。

「ここにいるよ」

 淑女は直木賞作家になった。

 授賞式。さすがの淑女もこれからは逃げられなかった。デザイナーの用意した服はどうにも野暮ったくて嫌だったが、しかし淑女は素直にそれを着ることにした。着る義務があると思っていたからだ。それに美しく着飾る必要もないと思っていた。この場で見せるべきは作家としての自分であり、モデルとしての自分でも、実業家としての自分でも、女としての自分でもない気がしていた。ただ等身大の、小説を書く自分を出せばいいと思っていた。そう考えるとデザイナーのセンスは抜群にいい気がしてきた。如何にも小説を書いています、という風な服だった。だが淑女は一つだけ、デザイナーに注文をつけた。大した変更点ではなかったので、デザイナーは特に思うところなくその変更点を受け入れた。それは些細な変更だったが、淑女にとっては大事な一点だった。

 スピーチを求められた。文章は事前に考えられ、編集者の目を通すことになっていたが、しかし淑女は全く違うことを話すつもりでいた。だからスピーチ本番、淑女は何も見ずに、そして誰にも気遣わずに、ゆっくりと話した。少し緊張したが、今馬に縋りついたあの日を思えば何ということはなかった。

「私は恋をしていました」

 事前の内容とは違う言葉が出てきたことに、関係者たちが顔を合わせた。しかし構わず淑女は続けた。

「恋だけが私を動かしていました。あの人のことを思うと胸が狭くなって、呼吸が浅くなって、心臓が狂いそうになる反面、不思議な力が湧いてきて、私はひたすらに動くことができました。この場を借りて恐縮ですが、私はあの人に、そう、あなたにですよ、メッセージを、送りたいと思います」

 編集者が露骨に困った顔をした。でも大丈夫。淑女は、乙女は、少女は、心の中で悪戯っぽく笑って、でも顔は強く前を見据えると、続けた。

「あなたを愛せないシンプルな理由がありました。だから私には、あなたしか愛せないシンプルな理由がありました。この先もきっと、あなたに恋をするでしょう。それはもしかしたら他の人の姿を借りているかもしれません。他の何かの、いえ、形さえとらないかもしれません。でも、きっとあなたです。どれくらいでしょう。おそらく一万九百十二メートル、あなたを愛していました。でもあなたを愛してよかった。ありがとう」

 最後に彼女は自分の胸元を見つめた。それは些細な変更点だった。デザイナーが用意した服に加えられた、彼女の大切な気持ち。

 クルミの木の、ブローチだった。


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あなたを愛せないシンプルな理由/あなたしか愛せないシンプルな理由 飯田太朗 @taroIda

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