迷い
モデルの仕事は続けた。続ける他ない。乙女には仕事が全てだった。大学での勉強ももちろん大事だったが、しかし仕事だけが乙女の心を癒した。あの光景が、あの夜のあの時の光景が、目について離れなかった。
今馬の指。輝く指輪。
あの夜、乙女は一瞬金縛りにあった。ここに来てはいけなかった。この人に会ってはいけなかった。乙女の表情が硬直したことに気付いたのか、今馬は笑った。
「妻には断ってある。若い女とのデートを楽しんでこい、だそうだ」
それから何と答えたか乙女は覚えてない。ココットに入った卵の菓子の味がよく分からなかった。あんなに豊かだったワインも鼻につんとくるだけの水になった。
帰り際、今馬は手土産をくれた。小さな包みに入った菓子で、どうやらキャラメルをクッキーでサンドしたもののようだった。上品な菓子で、乙女は彼を感じた。しかし同時に何かを喪失した感触があった。
それが何を失ったのかは分からなかった。
ただ乙女は失ったものを埋めるように仕事に打ち込んだ。何をというわけではないが忘れようとしていた。東京は魔の都市で、仕事は山ほどあった。
乙女の武器である脚に食いつかない男はいなかった。乙女は学生社会人問わず色々な男性から声をかけられた。中には面白そうな人もいてその何人かと食事をしたことはあったが、どれも今馬とのあの日には敵わなかった。乙女は男を見なくなった。
BIRDを通じた今馬とのやりとりは、相変わらず続いていた。しかし今馬の作品に乙女が一方的に感想を送るだけだった。今馬は乙女に何かを負っているのだろうか、なかなか返信をくれない日もあった。しかし何回かに一回は必ず返事をくれた。乙女はそのためだけにただひたすら感想を送った。あってはいけないことだし、落ちてはいけない淵だとは思っていたが、しかし乙女は溺れていた。抜け出し方を知っているはずだったが、知らないふりをしていたかった。いけないことだったが、禁じられていたからこそ夢中になった。こんなことならいっそ、知らない方がよかった。
乙女は東京にいた。今馬もきっと近郊に住んでいるのだろう。もしかしたら、住んでいるところを聞けば、会いに行けるのかもしれない。でも会いに行ってはいけない。感情が折り重なっていった。何かの方法で消化する必要があった。
BIRDという手はあった。だが二百字ではとてもこの気持ちを表せなかった。だから乙女は徒に小説を書き始めた。仕事の合間。通勤通学の時間。乙女は思いを綴った。叶わぬ恋をした女の子が成長して、大きくなっていく話だった。等身大の自分を書いたが、ところどころフィクションを混ぜた。やがて書き上がったそれを、乙女は大切に持っていた。だがそれは小説であると同時に恋文だった。届けたくなる。乙女は届ける方法を考えた。そうして訪れた書店で、雑誌を目にしたことから、文学賞に応募する、という手を知った。受賞すれば書籍化される。もしかしたら今馬が手に取るかもしれない。最悪ダメでも、一度発表してしまえばこの気持ちも収まる、という希望もあった。乙女は文学賞に応募した。
果たして乙女は受賞した。処女作とは言え、何度も何度も読み返し、書き直し、手を加え、作り上げたものだったので、ある意味で乙女の集大成と言えた。
乙女はモデルであり、作家になった。露出が増え、乙女を知らない人は少なくなった。故郷でも有名人になり、両親は自慢げにしていた。現役大学生ということも人気の理由のひとつで、彼女の肩書に惚れて近づいてくる人は山ほどいた。同性異性問わず学生はもちろん、教授たちまで彼女に近づこうとし、持ち上げようとし、我がものにしようとした。乙女はそのどれも蹴散らした。蹴散らすだけのエネルギーがあった。今馬だった。彼の書く二百字の小説はいつも乙女に力を与え、また時折交わされる雑談は乙女のささくれた心を癒し、乙女の活力となった。多くの人が乙女に近づき乙女を傷つけて行ったが、乙女は今馬の言葉の力でそれらを物ともしなかった。
だが、唯一乙女を悩ませることがあった。それは乙女が作家になる前から変わらず乙女の心にある問題で、つまりはこれまでずっと乙女を捉えていた問題だったが、乙女の地位が高くなるにつれその問題が心を占める率も高くなっていった。そしてある日、沸点がきた。
「大人になった私と会ってくれませんか」
大学を卒業するその日。
普段は着ない袴が乙女に勇気を与えた。今の自分なら、どんなことでもできる気がした。だから乙女はそんなメッセージを送った。いつものことなら、今馬は長くて三日ほどの時間をかけて返信をくれる、と思っていたが、意外にも今馬はすぐに返事をよこした。
「会おうか」
四文字だった。たったその四文字が、乙女の肺を淡く潰した。浅い呼吸で乙女は返した。
「嬉しいです」
今馬もすぐに返してきた。
「君のいる大学の近くに、仕事で行くことになったんだ」
乙女はこの頃すっかり有名人だった。乙女の姿は色々な媒体で目にすることができたし、乙女の在学する大学も多くの人に知られていた。そして乙女の思惑通り、乙女の処女作は今馬の元に届いたに違いなかった。乙女はそう自信を持てた。
今馬は乙女の大学から三駅離れた街を指定してきた。乙女もよく知っている街だった。
乙女は自分を最も美しく見せる方法を探し、その手を尽くした。完成度、純度、共に完全体で臨もうとした。そして実際その通りにした。大学から三駅離れた街。待ち合わせの場所で立ち尽くす乙女を、道行く人は眩しそうに見つめ、時に振り返り、囁き合った。今馬は待ち合わせの時間より十分早く着いた。
「待たせたね」
「いえ」
短いやりとり。だがそのありきたりな応酬さえ、乙女の頭には入ってこなかった。どう見えているだろうか。今日彼が見た女性の中で、いや今までの人生で彼が見てきた女性の中で、一番の美しさを持てているだろうか。いや、一番はやっぱり奥さんだろうか。そんなことを考えていた。今馬は恥ずかしそうに笑った。
「綺麗だね」
それが社交辞令なのか、心からの言葉なのか、乙女には分からなかったが、しかしどっちにしても問題だろうと思った。そんな心のつぶやきが乙女を笑顔にし、今馬もほっとしたように笑った。二人は夕暮れの街を歩いて行った。
食事をするレストランは乙女が探した。今馬に初めて連れて行ってもらったあのレストランに負けないくらい素敵なレストランを乙女は見つけ出していた。窓辺の夜景が綺麗な席に座って、出されたお冷を一口飲んだが、乙女の頬は熱を持ったままだった。
しかし今馬はさすがだった。
今馬は自分の話をほとんどしなかった。乙女のこと、乙女の最近、乙女の生活。そうしたことに巧みに切り込んでいった。乙女はこれまで、色々な編集者やインタビュアーから対談を申し込まれたことがあったが、しかしそのどれも今馬の話術には到底及ばなかった。
乙女は何でもしゃべった。魚にとっての水のように、木にとっての土のように、それは当たり前のことだった。食事も美味しかった。今馬も満足してくれているようだった。彼に初めて飲ませてもらったワインと同じ銘柄を頼んだ。あの頃は漠然としか分からなかった味わいに、今は気づけるようになっていた。
この時間が永遠なら、と乙女は思ったが、しかし時間は平等に過ぎて行った。やがて料理を食べ終わる時間が来て、会計を済ませる時間が来て、そして店を出る時間が来た。二人はレストランから駅までの間にある川辺の道を歩いた。石造りの道で、周りを桜の木が囲っていた。花の季節にはまだ早かった。
乙女は焦った。二人の時間が終わることに。だから帰り道の途中。石造りの川辺の道で唐突に、立ち止まって見せた。今馬がそれに反応して振り返った。今しかない、と乙女は思った。
抱きついた。それが下手をすれば大事になることくらい乙女は分かっていた。だけど懸命に乙女は抱きついた。縋るように、鷲掴みにするように胸に抱きついた。それから告げた。
「好きです。好きなんです」
今馬の体が硬直したのを感じた。今馬の手が宙を漂っているのを感じた。今馬の心臓が拍動を乱していることを感じた。しかし乙女は、噛み殺すように続けた。
「無理なことは分かってます。いけないことも分かってます。でもお願いします。今だけでいいんです。私のこと、抱き締めてくれませんか」
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