問題があった。琳にどう話すか、ということだ。

 話さないという選択肢はあった。辰彦は劣情に駆られただけ。一時の気の迷い。そう思うことはできた。

 しかし彼は「ずっとこうしたかった」とも述べた。それは看過できない事態だった。

「話したら、琳を傷つけるかな」

 寝床で。少女は寝返りを打ちながら考えた。

 目覚めて。顔を洗いながら少女は考えた。

 どうしていいか分からなくて、二日ほど学校を休んだ。家族は寛容だったから何も言ってこなかったが、少女は何度か話そうとした。でも話せなかった。口に出すとあの恐怖が現実になる気がした。

 そんな折にBIRDを見た。BIRDは詩の投稿もできるので、思考力の落ちた少女は短くまとめられている詩を読んだ。中には今馬の詩もあった。つぶやきながら、読んだ。

「立派な木にならなくていい。それはきっと切られてしまうから。速い馬にならなくていい。それはきっと鞭打たれて走り回されるから。役立たずでいい。ありのままでいい。自分になろう。かけがえのない自分に」

 自分に、なる。

 私は自分になれているだろうか、と少女は問うた。返事はなかった。

 BIRDは感想をダイレクトメッセージで送れる。少女は送った。自分になりたいです。どうしたらいいですか。

「何が君らしさを奪ってる?」

 今馬は訊いてきた。少女は迷ったが、結局沈黙することにした。今馬は少女の迷いを察してくれたのだろうか、短く追伸を打ってきた。

「辛い方から逃げていい」

 今馬の言葉が少女を洗った。

「友達に言うのが辛いなら言わなくていい。黙ったままでいるのが辛かったら言っていい。決断を下すのが辛かったら保留していい。自分に優しくして」

 自分へ優しくする方法が少女には分からなかったが、しかし楽な方に逃げていいことは分かった。逃げていいなら話は簡単だった。少女は礼を言った。

「ありがとうございます」

 少女は考えた。一日かけて考えて、結果的に、自分が辱められたという事実を隠していることが屈辱的で耐えられないという結論に至った。つまり少女は、沈黙していることをやめようと思った。しかしそれはやはり、勇気のいることだった。

 ひとまず、学校には最低限の出席日数で通うことにした。そうすると次第に周りも少女の存在を忘れ、次第に少女には本当の意味で居場所がなくなってきた。学校に行くと少女は影だった。モデルの仕事では浴びていた光が嘘のように消えて、少女は誰の目にも留まらなくなった。

 最低限の日数で学校に通うことにすると、必然勉強も疎かになった。このまま高卒でモデルをやろうか。そう思うことさえあった。少女の癒しはBIRDだった。画像に合わせられた短い小説を、誰につけられたわけでもない傷口に塗った。中でも今馬の小説が好きだった。素朴で、でも何か芯をつくような言葉の選び方が少女は好きだった。

 モデルの仕事の合間。数少ない学校への通い道。授業中。昼休み。少女は今馬の小説を読んだ。彼が投稿した過去の作品を読んだ。素敵な文章を書く人だと思った。添えられた画像も美しくて、少女は彼がいいカメラを使っているのではないかと考えた。気づけば少女の日常に彼がいた。彼に救われ、彼に洗われた。

 BIRDには感想をダイレクトメッセージで送ることができる機能があった。少女は言葉を選び考えて、今馬にメッセージを送った。返信はなかなか来なくて、少女は仕事の合間、移動中の車の中、落ち着きなく腰を浮かせていた。

 返事があった。今馬は細かいところにこだわる性格らしく、作品の随所に仕掛けた工夫に少女が気づいたことに反応した。少女は今馬の作品について語った。今馬も嬉しそうに言葉を返してくれた。

 少女はスマホの上で少し指を浮かせた後、打った。脈絡もない話で、こんなことを今馬に話しても仕方がないとは思っていたが、しかし話したかった。少女は打った。

「友達にキスされそうになりました」

 前も話したことだ。しかし返事には少し時間がかかった。

「好きな人?」

 すぐに答えた。

「違います」

「急に?」

「はい」

「男?」

「はい」

 それからまた少し時間がかかった。少女が、もうこの話はやめにして他の話を振ろう、と思った頃になって、今馬から返信が来た。

「どうしてその話を僕に?」

 すぐに返事ができなかった。すると今馬が続けた。

「話してもいいなら話して」

「友達の彼氏なんです」

 それだけ打つのに時間がかかってしまった。

「友達に言うべきか迷ってて」

「迷うよね」

 今馬は柔軟だった。

「でも君は無理矢理迫られた」

「はい」

「それは被害だ」

「はい」

「最終的な判断は君がすべきだ」

 今馬はそう断ってから続けた。

「でも、被害は訴えるべきだ」

 少女は息を呑んで、画面に触れると「ありがとうございます」とだけ打った。翌日、琳にありのままを話した。

「最低」

 琳は短くそう告げた。その日から、少女の味方は一人もいなくなった。

 元々女子連中からの覚えは悪かった。一学期で三人も男子を振っていればそれなりに恨みも買う。

 ある日は上履きがゴミ箱に捨てられていた。

 ある日はいきなり背後からミルクティーをかけられた。

 ある日は机に心のない言葉が書かれていた。

 少女の毎日は殺伐としていた。だがこの頃モデルとしての仕事も忙しくなり、少女は日常の些事を忘れるようになった。ゴミ箱もミルクティーも机も些末な話だった。BIRDを見ればいつでも美しい画像と、小説があった。少女は心を薄い箱の中に閉じ込めた。

 高卒でモデルをやるか。

 少女が以前から考えていたことをより現実的に思うようになったのは、ある意味必然だった。仕事のこともあり、そして迫害のこともあり、学校に行かない日も増えた。出席単位も最低限で済ませていた。このまま低空飛行を続けて、適当に高校卒業の学歴だけつけてモデル界に飛び込んでいこうか。BIRDに流れてくる今馬の小説を読みながらそんなことを考えた。悪くない考えだった。

 仕事の合間。

 最低限の登校の最中。

 授業中。

 これまで以上に今馬の作品を読んだ。過去の作品も辿って、二年も昔の作品を読んで息を止めることもあった。今馬の文章は少女の心を捉えた。気づけば、今馬の作品ばかりを読むようになっていた。

 BIRDでは投稿作品に感想を送れる。ダイレクトメッセージだ。ある日、震える手で自分から、歳も分からない、おそらく男性の、今馬猛無にメッセージを送ってみた。それは単に作品をたくさん読ませてもらったこと、そしてその作品に胸打たれたことを告げるだけの内容だったが、今馬は快く応じてくれた。作品の裏話、どんな気持ちで書いたのか、そんな話を聞いている内に、少女は強張っていた頬を緩ませていた。気づけば事あるごとに今馬に連絡を取っていた。自分の作品をまず一番に今馬に読んでもらいたかったし、今馬の作品はまず一番に自分が読みたかった。感想はすぐに送ったし、今馬に感想をもらえれば些細なことでも飛び跳ねた。そんな風にして、月日が過ぎた。

 今馬がいる場所に行ってみたいと思うようになるのは必然だった。

 BIRD内のコメントから、どうやら首都圏近郊にいることは分かった。東京に行けば会えるかもしれない。そんなことを思った。少女の故郷は田舎だった。東京なんてまるで天上の世界だった。

 だがそんな天上の世界でも、今馬に会えるなら行ってみたいと少女は夢想した。会うことが叶わなくても、せめて同じ景色を見ることができたら。同じ空を見て、同じ風に当たれたら。

 折しも、モデルの仕事で東京で開かれるファッションショーのオーディションを受けないかとマネージャーが提案してきた。少女は一瞬下を向いたが、すぐに頷いた。

 この頃少女は学校に行って勉強を始めた。モデルのオーディションで東京に行ける確率は低い。大学受験で東京の大学を受ければ、もしかして東京に行けるかもしれない。しかし現役での合格は無理だと初めから分かっていた。オーディションは十九の夏にあることだし、一浪して大学受験をする決意をした。少女は仕事の合間に勉強をした。そうして東京の大学に見事受かった。そればかりか、オーディションにも無事通った。マネージャーも家族もそれは喜んでくれた。

 東京へ行った。家族の元を離れる時、少し後頭部がひりひりするような気はしたが、しかし列車は彼女を鉄の都に連れて行った。初めて見る高層ビルに、少女はぽかんと口を開けた。

「会ってくれませんか」

 引っ越しの片付けもあらかた済ませ、借りたマンションでの生活にも少し馴染み始めた頃、少女は今馬に連絡を取った。今馬は一日の間を置いて返信をくれた。

「SNSで知り合った人と会いたいなんて迂闊に言うものじゃない」

 いつでも少女を気遣う今馬らしい返信だった。しかし少女は会いたいと願った。三日に及ぶ交渉の末、少女はついに今馬猛無と会うことになった。二十歳の春。少女は乙女になり、そして東京の駅で今馬を待った。待ち合わせの時間の三十分前には着いて、トイレの鏡で化粧や服装の最終確認を済ませ、これからやってくる憧れの人の姿に想いを馳せた。

 見すぼらしいおじさん。

 白髪の老人。

 あるいは乙女から少し年の離れた青年。

 色々な姿を思い浮かべてみたがどれも今馬のイメージに合うような気がした。乙女は視線で雑踏を縫って今馬を待った。不意に背後から声をかけられたのはその時だった。

「今馬です」

 振り返った先にいたのは、黒いハットを被った優しそうな顔の男性だった。乙女は息をついた。それは想像上のどの今馬でもなく、しかし想像した今馬そのものだった。乙女は微笑んだ。

「この先のレストランを予約しています」

 今馬は乙女をエスコートしてくれた。彼に導かれるままに歩いていくと、町の外れにある小さなレストランに連れて行ってくれた。中に入ると、ウェイターが丁寧に今馬に向かってお辞儀をした。

「ご予約のコースで」

 ウェイターの言葉に今馬は頷くと「よろしくお願いします」とだけ告げた。その丁寧な言葉遣いも乙女の胸に染みた。

 食べたことのないくらい上品な食事だった。彩豊かなサラダ。つやつやと輝く白身の魚。大きな皿に少しだけ乗せられた肉。そして小さなココットに入れられた卵のお菓子。どれも乙女の舌を喜ばせた。

 そして乙女は初めてのワインを飲んだ。成人式はモデルの仕事と受験勉強で行かなかったので、実質上初めてのお酒だった。今馬は乙女に酒の飲み方を教えた。

「少しずつ、楽しむんだ」

 今馬はワインの飲み方一つをとっても絵になった。

「それから、一度でも目を離したグラスはすぐに交換してもらうこと。これは女性がお酒を飲む上では一番大事なことだからね」

「はい」

 乙女は大人しく今馬の言うことに従った。彼の言う通りに飲むと初めてのワインも、苦みのあるワインも渋みのあるワインも、どれも美味しく感じられた。

 酒の力もおそらくあった。

 とろけ始めた乙女の肉体とは裏腹に、心の中では何かが固まりつつあった。やがてそれは確信に変わった。乙女は今馬に恋をしていた。

 そして何となく、本当に何となく、暗くなり始めたレストランの中で、乙女は、今馬の手を見つめた。それは多分、女性として当然すべきことだったのだと思う。だが乙女は舞い上がっていた。だから忘れていた。今馬の指には指輪があった。それが乙女を打ち砕いた。

 今馬は既婚者だった。

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