あなたを愛せないシンプルな理由/あなたしか愛せないシンプルな理由
飯田太朗
出会い
十五歳の少女はまだ恋を知らなかった。
特別な女の子だった。十三の頃から漠然と人前に出る仕事に興味があり、ファッションセンスを磨いていた。ジュニアモデルに憧れていたが、いくつかのオーディションでいいところには行ったものの、落選続きだった。しかしその時に縁のあった事務所からマネージャーを当てられ、中学校を卒業した直後、事務所の伝手で読者モデルのオーディションを紹介してもらい、見事モデルになることができた。
武器は脚だった。長い脚はそれだけで見栄えした。表情を作るのも上手く、カメラマンからの評判は良かった。マネージャーに仕込まれてスタッフに対しても丁寧に接するようにしていたので、評判、という観点では申し分のない女の子だった。ただ少女はまだ恋を知らなかった。漠然とその話を聞いてはいたが、ほとんど幽霊の話のようなもので、十五年の人生で一度も見たことはなかった。少女はまだ恋を知らなかった。
「SNSで情報を発信して、インフルエンサーになるんだ」
ある日マネージャーにそう言われた。好きなサービスを選んでいい、と言われたが少女には判断基準がなかった。ただTwitterは怖くてFacebookはおじさん臭く、Instagramはキラキラしすぎている、ということは分かった。だから少女は四つ目のサービスを選んだ。
BIRDというサービスだった。主な機能は画像や動画の共有だがBIRDは通称「画像小説投稿サービス」だった。画像や動画に合わせた二百文字の小説を投稿できるのだ。小説に対する感想はダイレクトメッセージで送られてくるのだが、人工知能が攻撃的な内容は弾くようにしているので温かいコメントだけを読むことができる。そしてSingと呼ばれる機能で小説について音声で話せる機能もあった。平和だと思った。少女はBIRDを選んだ。
アカウント名は少し迷ったが、自分が好きな単語で、アカウント名にしてもおかしくなさそうなものを選んで使った。最初の投稿には体を固くしたが、思ったより誰も反応をくれなかった。
そうだよね、誰も見てないよね。
それはマネージャーの本来の目的としては到底満足のいくものではなかったが、少女としては十分だった。だから少女はずっと、おおよそ二カ月ほど、ネットの片隅で小さな小説を書き続けた。それは時に服飾の画像と共に、そして時には風景の写真と共に投稿された。初めての反応があったのは、少女が夏休みに入ろうとしていた頃だった。
その時少女は恋をテーマに一作書こうと思っていた。しかし二百字に凝縮できるほどの技量はおろか、経験さえなかったのであまりに難しすぎた。
じゃあ、「知らないことを教えて」なんてことを書いてみよう。
少女は「恋」を「知らないこと」に置き換え物語を紡いだ。夏の昼前の、どこまでも突き抜けていくような青空の写真と一緒に投稿すると、いつもと違うことが起きた。投稿して五分。僅かな時間の後に感想が来たのである。ダイレクトメッセージだ。
「素敵な作品ですね」
短い、誰にでも言っていそうな、特に意味もなさそうな感想だった。しかし少女には初めての感想だった。それはまさに「知らないこと」だった。
少女はこの感想に礼を述べた。そしてこの、初めての感想をくれたアカウントの名前を見た。
今馬猛無。どう読むのか分からなかったからプロフィールページに飛んだ。「いまばもうない」と読むらしい。不思議な名前だ。そんなことを思っているとマネージャーがやってきて次の仕事だと告げたので少女は端末をしまって威勢よく立ち上がった。その日はそれだけだった。
*
学校では友達が少なかった。
入学してから、三人の男子に告白されたからだ。
どの男子も少女の見た目しか見ていなかったから丁重にお断りしたのだが、それがどうにも同性の反感を買ったらしい。少女は避けられていた。実際、モデルという職業が彼女をどうにも非現実的な存在にしているきらいはあった。
夏休みが終わるといよいよどうしようもなかった。周りは友達やグループを作っているが自分だけ浮いている。当たり障りない接し方はしてくれるが、陰で悪口を言われているのを聞いたり、何人かの女子が自分を毛虫でも見るような目で見ていることは知っていた。しかしそんな中でも、同じ中学からやってきた琳だけは明るく接してくれた。
「気になる男子がいてさ」
琳はどうやら恋をしているらしかった。少女は意味のない相槌を打った。純粋な疑問として、それが楽しいのか分からなかった。しかし琳は熱を持ってしゃべった。
この頃、少女のBIRDアカウントはそれなりに人気になっていた。フォロワーが千人を超えていたので、ひとつ作品を投稿すれば千人がそれを目にする環境にあった。必然、投稿の内容も慎重になったが、しかし丁寧に物語を紡ぐよう心掛けていたので目に見えたトラブルはなかった。中には粘着質につきまとってくる妙なアカウントはいたが、大事に発展することはなかった。
中でもよく感想をくれる「芦田俊彰」というアカウントとメッセージのやりとりをすることが多かった。ある日、芦田が少女にSingを求めた。サービス内通話だ。通話内容は誰でもラジオのように聞けるし、ホストに申請すれば通話に参加もできる。初めての通話だったが少女がホスト役になってSingを開いた。胸の奥にある硬いものを堪えながら少女は話した。
芦田はよくしゃべった。どうやら文学賞に応募しているらしく、ある出版社に応募した作品が選考のいいところまで行った、という話や、芦田自身の創作ポリシーについての話を、少女から聞かれたわけでもなく延々としゃべった。少女は買ったばかりのヘアアイロンを早く使いたいな、と考えながらその話を聞いていた。今馬がやってきたのはそんなタイミングだった。
少女がホストとして開いた通話だったので、会話への参加の申請は少女の元に来た。最初、今馬を千人のフォロワーの一人程度にしか思っていなかった少女だが、申請を許可した段階になって「初めて自分の小説に感想をくれた人だ」と思い至った。
「こんにちは」と挨拶をすると低い男性の声が挨拶を返してきた。聞いていて安心するような、低音の柔らかい声だった。
今馬はよい聞き手だった。
芦田の自慢話も興味深そうに聞いて、時折質問を挟んで話を盛り上げる。少女に話を振ることも忘れず、少女が言葉に困ると的確に気持ちを引き出してくれた。結果、初めてのSingだったが、気づけば今馬がやってきた辺りから胸の奥の固形物は綺麗に融解していた。モデルとしての仕事の合間に開いたSingだったので、マネージャーがやってくる頃には閉じなければならなかったのだが、今馬のおかげで名残惜しい通話だった。
琳が問題の男子と付き合うようになったと聞いたのは、夏休み明けの試験が終わった後だった。
紹介されて初めて分かったのだが、琳の彼氏になった男子は少女と琳が登校に使っているバスでたまに見かける同じ学校の男子生徒だった。必然行き帰りを共にすることになる。バス停で、バスの中で、少女は「自分は邪魔なんじゃないか」と思いながらも二人と一緒に時間を過ごした。この頃になっても少女にはまだ恋というものが分からず、二人のこともまるで珍獣でも眺めるような気分で接していた。彼氏は名前を里原辰彦といった。
彼はサッカー部の特待生らしく、中学時代の全国大会の成績で少女の学校にやってきたらしかった。日に焼けた活発そうな男の子で、琳が夢中になる理由はよく分からなかったが、しかし人気のありそうなタイプだと少女は思った。
少女はBIRDへの投稿を続けていた。しかし小説のネタはいくつか思い浮かぶものの、肝心の画像の方で困惑することが増えてきた。前も撮ったような画像じゃないか。しかし変化を入れるとどうにもしっくりこない。苦肉の策として、モデルの仕事現場の片隅を撮影し、使うようになったのだが、小説の内容と噛み合わず、口の中で舌が絡まったまま投稿せざるを得ない日々が続いた。危機はそんな中訪れた。
「あの雑誌でモデルやってる子でしょ?」
小説の内容とは関係ない、しかし攻撃的な内容ではないので人工知能も弾けない、そんなダイレクトメッセージが、芦田俊彰から送られてきた。少女は守秘義務の関係から必死に否定したが、しかし画像の片隅に写ったロゴからほぼ特定されてしまっていた。芦田の態度が急変したのは、少女が返信に困っている時だった。
「これ事務所にバレたら困るよね? まずはSingから始めようか?」
通話を無理強いされた。しかし少女は断れない。何を言われるのかと思いながら通話を繋ぐと、芦田は次から次に少女を突き刺す言葉を吐いてきた。そして一通り少女を打ちのめした後、囁くような声で、「俺と会え」と脅してきた。少女は拒否した。すると芦田は「バレていいのか」と告げてきた。
唐突に今馬から通話の申請があったのは、そんなタイミングだった。もしかしたらこの人も、とは思ったが、しかし少女にはこのアカウントに頼る以外の道がなかった。話題が変われば、と少女は今馬の申請を許可した。
「録音した」
開口一番、今馬はそう告げた。
「芦田さん。あなたのやっていることは立派な脅迫です。通話内容を録音したので、あなたの態度次第ではこれを然るべきところに提出します。警察か、この子の事務所か、あるいは法廷かは分かりませんが、あなたの行動を僕は許しません。今後二度とこの子と接触しないと約束するか、僕の手によってこの録音を使われるかのどちらかを選んでください」
よくしゃべっていた芦田が沈黙した。すると今馬は追い打ちをかけるように続けた。
「サブアカウントでこの子に粘着しても同様です。BIRDが嫌がらせをするアカウントに関する情報を警察に引き渡して迷惑防止条例に対応したケースは山ほどあります。あなたが異なるアカウントでこの子に粘着し、そのアカウントがあなたと関係あると分かった段階で僕はこの録音を然るべきところに提出します。分かりますか、言っていることが」
芦田が一方的に通話を切ったのは直後のことだった。少女が自身のプロフィールを確認すると、フォロワーが一人減っていた。しばしフォロワーの一覧を見て、芦田がいないことを確認すると、少女はSingの通話で繋がっている今馬に礼を言った。
「ごめんなさい。フォロワーさん減らしちゃったかも」
謝る今馬に重ねて礼を告げ、公開通話であるSingを切りダイレクトメッセージでやりとりをした。少女は三度の礼を言い、今馬は「困っていそうだったから」と短く返してきた。
「危ない人に近づいちゃいけない」
今馬はそう告げてきた。少女はすぐさま「男性との距離感が分からない」と返した。今馬は「男は漬け込めると思った女性には漬け込んでくる」と返信してきた。「だから隙を見せちゃいけない」とも。
それから今馬とは何度もやりとりをするようになった。ふとしたことからデートの経験がない、と少女が告げると、今馬は「そういうことを迂闊に話すもんじゃない」と諭しながらも、初めてのデートは緊張する反面楽しいこと、大切な人と過ごせる時間はかけがえのないものだということを話してくれた。少女はそんな時間を夢想しながら今馬と話した。今馬は冗談も上手かった。
「男女が向かい合って頭を近づけたら?」
少女でもその先にある展開は分かった。男女が向かい合って頭を近づける。それはキスの合図だ。だが少女が「キスですか?」と入力し終わるのより早く、今馬が落ちを送信してきた。
「頭突きだよ」
少女は笑った。向かい合った男女が真剣な顔で頭突きをし合っている光景を想像すると滑稽だった。
少女はモデルの仕事について話した。もちろん、コンプライアンスを意識しながら知られてもいい範囲での話をした。今馬にとってモデルの仕事というのは新鮮なようで、少女の話を興味深そうに聞いた。少女はそれが嬉しかった。今馬が自分よりずっと歳の離れた男性であることは何となく察しがついていたが、具体的に何歳なのかは分からなかったし、話題にはしなかった。学校の行き帰り、昼休み。今馬とダイレクトメッセージで会話した。純粋に楽しかったし、勉強になった。今馬との雑談は少女にとって刺激だった。
ある日、琳が風邪を引いて学校を早退した。山の中にある高校に琳の家族の運転する車がやってきて、琳を乗せて去っていった。琳がいなくなったことで、少女は琳の彼氏、辰彦と一緒に帰ることになった。
不思議だった。琳がいると花が咲く会話が、辰彦と二人だと全く広がらなかった。広がらないどころか、会話にすらならなかった。バス停のベンチで、「琳、心配だね」と告げても辰彦はくぐもった声しか出さず、妙な目でこちらを見てばかりいる。
異変は、人がほとんど乗っていないバスの後部座席に座った時に起きた。
辰彦の手が少女の膝に乗せられた。最初は、バスが揺れて思わず手をついたのだと、そう思った。しかし辰彦が顔を近づけてきた。本能的に危険を察知した少女は、辰彦を突き飛ばすと降車ボタンを押した。少女の降りるべきところではなかったが、しかし降りなければならなかった。少女は駆け出すようにしてバスから降りた。
しばらく走った。田んぼの畦道をひたすらに走った。すると、不意に手を握られた。辰彦がそこにいた。追いかけてきたのだ。
抱きすくめられる。少女は必死に抵抗したがしかしサッカー部の鍛えられた体には勝てなかった。辰彦が興奮した息遣いで告げた。
「好きだったんだ。ずっと好きだった。こうしたかった。こうしたかったんだ。こうするしかないんだ」
辰彦の手が少女の体を触った。そのひとつひとつが少女にとって悍ましすぎる刺激だったが、しかし辰彦が唇を近づけてきた段階で思い出した。今馬のことを。今馬の言葉を。
少女は頭突きをした。辰彦の鼻っ面に。思いっきり額を叩きこんだ。如何に鍛えられた男子でも鼻っ面は痛い。思わず後ずさった辰彦の胸を踏みつけるようにして、少女は逃げ出した。頭の中では、何故か今馬の滑稽な冗談が反芻されていた。
「向かい合って頭を近づけたら? 頭突きだよ」
必死で走った。どうやって家に着いたのかは分からないが、しかし家に着くと彼女は風呂場に駆けこんでシャワーを浴びた。湯に打たれながらも、少女の頭の中には今馬の冗談があった。少女を助けた、あの下らない冗談が。
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