第40話 雨は止んでいる、体は濡れたままなのに

 肉塊の破裂。

 自殺。


 ユウコの死。


 それらを境に、全てが元に戻った。

 悪夢から覚めたのだ。


 肉塊から始まったアレコレは、ここでようやく終幕。

 元通り、いつも通り。


 化け物や吐き気とは無縁の生活。

 以前と同じように府川さんは俺の友達で、以前と同じように朝は問題なく起きられる。


 ……まあでも、少しは変わった事もあったか。


 府川さんが部活を始めた。

 千場と別れて落ち込んでいたところを、女友達に誘われたらしい。

 俺の方は、人と話す事が苦手になった。というか、表情や言葉を取り繕う事が苦手になった。


 変わった事なんて、本当にそれくらいだった。


『忘れないで』


 ああ、そうだ。

 以前と変わった事はもう一つあった。


 幻聴だ。

 幻聴が、聞こえるようになった。

 ユウコの事が意識から消えそうになると『忘れないで』、表情や言葉を取り繕うとすると『嘘吐き』。そんな風に脳内で声が反響する。


 でも本当に、後はいつも通り。陰気な日常の繰り返し。

 高校三年生になって、府川さんとはクラスが分かれて、第三志望の大学に受かって、卒業式の日は結局府川さんに話しかけられなくて、卒業アルバムは一度も開かないままに高校最後の春休みが終わった。


 大学生活でもやっぱり友達はいないまま、前日の焼き直しのような今日を生きて……気が付いたら二回生もそろそろ終わりだ。


 人生を振り返ってみて思う。

 俺は悪夢の終わりから、まるで成長していない。


『忘れないで』

 幻聴が囁く。


 忘れちゃあいないさ。

 あれから三年経った今でもユウコを忘れられない事だけが、唯一自分の好きなとこなんだ。


 信号機が目の前で赤に変わる。

 俺は、なんとなくネクタイを弄って気休め程度に形を整えた。


 さて、ユウコ。そろそろ成人式の会場に着くよ。

 俺は脳内で呼びかける。


『…………』


 幻聴は答える事をしなかった。

 いつも通りだ。


+++++


「かんぱ~い!」


 府川さんは、今が楽しくて仕方がないという顔でコップを掲げた。


「かんぱい!」


 府川さんに続き、周囲の人間達もコップを持ち上げる。


「はは……か、乾杯」


 俺は唇を弧に歪め、周囲に倣ってぎこちなくコップを持ち上げた。


『嘘吐き』


 全くもって、その通りだ。俺は何故ここにいる?

 成人式が終わってそそくさと帰ろうとした所を、府川さんに捕まったからここにいる。

 だが、あそこで大人しく捕まらず逃げるべきだった。


『嘘吐き』


 確かに嘘だ。

 俺は府川さんに声を掛けられ、喜び勇んでノコノコと付いてきた。

 本当の所、断じて捕まった訳では無い。

 ただ、付いて行った先に府川さんの部活友達、それと千場が立っていただけだった。

 地獄みたいなアウェー感。


 脳内で『嘘吐き』と罵倒されながら、俺は下手クソな作り笑いを貼り付けて酒を口に含んだ。


 ……二十歳になってから何度か飲んだが、何度飲んでも美味いとは思えない。


 ギョロリと目を剥き府川さんを見つめる。

 彼女は高校時代と同じ笑顔で、女友達と昔話に花を咲かせていた。


「…………」


 たいして美味くも無い唐揚げを噛み潰し、もう一度酒をあおる。

 しかめっ面で咀嚼し、また酒をあおった。


「やあ、白石君だよね? 久しぶり、隣良いかな?」


 唐突に現れたのは、千場だった。

 爽やかな笑みを浮かべ、軟弱そうだった高校時代とはすっかり雰囲気が違っている。

 俗に言う『垢ぬけた』というヤツなのだろう。


「……っす」


 俺の口から出た声は、少しだけ掠れていた。


「いやあ、この集まりって幸子の友達ばっかだからさ、女子ばっかりで気まずくて」


 聞いてもいない事を、千場はつらつらと語りだした。

 府川さんを下の名前で呼ぶとは、コイツも随分と偉くなったものだ。


『忘れないで』

 幻聴が囁く。


 忘れてない。

 寧ろ、この現状を忘れて無かった事にしたいくらいだ。


「白石君はさ、大学どんな感じ?」


 酒を吞みながら、千場は興味も無い癖にそんな事を尋ねてくる。


「……別に、毎日楽しいっすね、はは」


『嘘吐き』

 ……ごめん。


「千場さんはどんな感じっすか?」


 俺は社交辞令として、された質問と同じ質問を返す。

 ユウコが死んだばかりの頃は、こんな小さな嘘を言おうとする度に嘔吐していたのだが、そのうちに吐かなくなった。時間が解決したのだ。

 その時に、自分が優しくなんかない事をようやく証明された気がした。


 俺の鬱屈とした思考はよそに、千場は随分と楽しそうな顔で口を開く。


「俺も、高校の頃はあんまり気の合う人がいなかったけど、大学生になったら友達も沢山できてさ! だから、めちゃくちゃ楽しい!」


 嬉しそうな顔で、奴は更に衝撃的な言葉を続けた。


「あと、彼女も出来たし。ていうか、もしかして知ってるかな? 俺、幸子と付き合ってるんだよ」


「…………いや、知らなかった」

 今、俺は三年ぶりに表情を上手く取り繕えている気がした。


「府川さんとは、高二の時に付き合って別れたんじゃなかったのか?」


 俺が問うと、千場はしまりの悪い困り顔をしながら「いやー、ちょっと説明が面倒なんだけど」などと前置きする。


「高校終わった後の春休みに、俺から告白したんだよね。それでもう一回付き合って、なんだかんだ二年続いてる……みたいな?」


 千場は照れくさそうに笑った。

 コイツは恐らく、俺が府川さんに告白した事を知らない。


「……俺は全然、彼女も友達もいない感じっすね」


 ボソリと、そんな事を呟いてみる。

 どんな顔をするだろうか?

 少なくとも高校時代の俺だったら、こんな事は言わないだろうな。


 千場の表情を窺う。

 果たして、奴は爽やかに笑っていた。


「じゃあさ、白石君! 俺と連絡先交換しない?」


「いや、ちょっと、千場さんと友達になるのは無理っぽい、かな……」


「え? あ、ごめん。俺、何か気に障ること言っちゃってたかな? でもさ、もし俺が嫌だったとしても、俺の知り合いに仲良くなれる人がいるかもしれないから! ほら、友達っていた方が良いし」


 無邪気な笑み。


 怖気が走った。

 この純粋な無神経さは、府川さんと同じだ。

 千場は本当に、二年という歳月を府川さんと過ごしたのだ。


 俺はもう、ヘラヘラと笑う事しかできなかった。


『忘れないで』

 幻聴が囁く。


 忘れてない、大丈夫、大丈夫。


「…………」

 なんだか泣きそうだ。


「どうした? 少し顔色悪いみたいだけど……もしかして、体調悪かったのか?」


 千場は、心配そうに俺を見た。


「あ、いや、別に……」


「なら良いけど、あんまり無理しない方が……というか俺、何か色々おせっかいだったな。ごめん」


 千場は申し訳なさそうに手を合わせる。

 そんな一挙手一投足が、ずっと俺の神経を逆撫でしていた。


 だからだろうか?

 つい、小さな声で漏らしてしまった。


「……ただ、高校の頃、府川さんの事、好きだっただけなんで」


 千場はそれを聞き「しまった……」という風に表情を変える。

 それを見て、余計に自分が情けなくなった。


「ちょっと待っててな」


 千場が唐突に席を立つ。

 奴の向かった先は、府川さんの方だった。


 おい、止めろ。


 府川さんと友人とが会話している所に、千場はスッと入り込む。

 そして奴は、府川さんと何度か言葉を交わしたようだった。


 俺はもう、ぎこちない笑みすら浮かべられている自身が無い。


 案の定、府川さんは立ち上がり、どんどんこちらに向かって歩いてくる。

 千場の方は、さっきまで府川さんと話していた女達と、もう楽しそうに談笑していた。


 俺は、千場が最初に言っていた「女子ばかりで気まずい」という言葉が嘘だったのだと理解した。

 奴は孤立していた俺に気を使って、そんな方便を弄しながら話しかけてきていたのだ。


 府川さんが俺の隣に座った頃には、もうすっかりその場から消えたくなっていた。


「やほー、優太郎君! ひさしぶり! 私はさ、優太郎君とは最後にじっくり話したいなって思ってたんだけど、たっくんが今すぐって言ったから、来ちゃったー」


 酒のせいか、少しばかり府川さんの顔は火照っていた。


 たっくんとは、恐らく千場の事だろう。

 本当に付き合っていたんだな……。

 別に未練など残ってはいないが、それでも心は騒めいた。


『忘れないで』


 幻聴に釘を刺される。

 尤も、俺の心は既にボロボロなのだ。釘を一本刺された程度では代わり映えもしない。


「……あんまり変わらないね、府川さんは」


 俺が口を開いた瞬間に、脳内は『嘘吐き』の幻聴で満たされた。


「ふふー、そうかな? 優太郎君は、ちょっと大人っぽくなったね?」


 府川さんは俺に微笑みかける。

 幻聴が『噓吐き、噓吐き』と繰り返すのに、何故だか府川さんの声はハッキリと聞こえた。


「あっ、優太郎君唐揚げ食べてる! 私も食べて良い?」


「え、ああ、うん、どうぞ」


 そっと唐揚げの皿を差し出す。

 府川さんは、まだところどころ冷たい唐揚げを「おーいし!」と言いながらパクパク食べた。

 それを見て、どうやら彼女は本当に変わっていないようだと確信した。


「最近、府川さんはどんな感じ?」


 他愛も無い、意味も無い質問。

 今更、府川さんの近況を知ってどうするというのだ。


 府川さんは唐揚げを飲み込み、上を向いて「んー」と唸る。


「あ、ボランティアとかしてるよー。それでね、いろんな人とお話ししたりするの」


「ボランティア……すごいね」

 自分の無為な二年間と、彼女の二年間、その明確な差異を見せつけられた気がした。


「別にすごくないよ、ちょっと興味のあることやってるだけだしっ」


 照れたような笑み。

 その言葉が謙遜などではなく本心であると、俺は知っている。


「……って、私の話じゃなくて、優太郎君の話だよ! たっくんが話を聞いてやれって言ってたけど、何かあったの? 何でも話してよ! 何でも聞くから!」


「あー……いや、別に無いかな。ははっ」


『嘘吐き、噓吐き、噓吐き、嘘吐き、噓吐き、噓吐き、嘘吐き、噓吐き、噓吐き』

 幻聴が繰り返す。


 嘘じゃない。

 今になって府川さんと話す事なんか、ある訳が無い。


「というか、この後さ、ちょっと用事があって……」


 席を立つ。

 そのまま酒代と唐揚げ代だけ置いて帰ろうと財布を開く。


「まって」


 腕を掴まれた。


「私もちょっとは成長したから、それが嘘だって分かるようになったよ?」


 彼女は、真っすぐに俺の目を見た。


「ねえ、ちゃんと聞くから、ちゃんと話して?」


 府川さんは俺をあやすように微笑み、小さく首を傾げて見せた。

 その瞬間……いや、もしかすると府川さんと相対した瞬間に、俺は救われていたのかもしれない。


 俺はゆっくりとその場に座り直し、あっさりと口を開いた。

 話したのは、何てことない雑談だ。

 本当にどうでもいい話をした。

 気が付けば『嘘吐き』なんて言葉も、『忘れないで』なんて言葉も聞こえなくなっていた。


 自然に笑えて、自然に話せた。

 自分はこんなにも単純な人間だったのか?

 きっと、単純な人間だったのだろう。


「……府川さん、ありがとう」


 俺は俯き、チラリと横目に府川さんを見る。

 彼女は最初、俺の言葉にピンと来てない顔をして、その後で「どういたしまして!」と微笑んでくれた。


「じゃあ俺、そろそろ帰るから。府川さんは引き続き皆と楽しんでよ」


 俺は今度こそ財布を開き、酒代と唐揚げ代と焼鳥代を府川さんに渡して立ち上がる。


「優太郎君……!」


 店から出ようとした所で、府川さんから呼び止められた。

 振り返る。


「今でもっ! 私と優太郎君は大親友だからね!」


 府川さんは親指を立て、ニコリと笑っている。


 俺はどうやら、正しい顔を作れているらしかった。

 ……なんて。


 軽く手を振って、店から出る。

 辺りはすっかりと暗くなっていた。

 酒に温められた肌に、外の冷気が心地良い。


「はぁ……」


 自然と溜息が漏れる。

 満足感とも、敗北感ともつかない溜息だ。


 店の扉越しに、楽し気な笑い声が聞こえた。

 府川さんと、その友達の声だ。


 一歩踏み出す。


『忘れないで』


 ……忘れてないよ。


『嘘吐き』


 忘れてしまいたいと思っていた事を、自覚しただけだ。


『…………』


 でも、君を忘れられなくて安心した。


 月が雲間から覗いてくる。


 幻聴は答えない。

 その代わり、雨がポツリと頬を濡らした。


「……愛してます」


 肉塊が、最後に口にした言葉だ。


『愛してます』


 そっか。

 俺はべちゃりと、道の端で嘔吐した。

 異臭を放ち、所々に唐揚げの面影を残した吐瀉物を見て、彼女に似ていると思った。


 俺はそっとしゃがみ込み、吐瀉物を抱いて蹲る。

 アスファルトは固く、雨は全身を濡らしたが、俺は構わず夢を。


+++++


 雨が、降っている。


 俺は傘を差していて、懐かしくて知らない田舎道に立っている。

 道端には雑草が生えていて、空は薄く夕焼けに色づいている。


 そして、いつも通り視界の端には、

 腐敗臭を放つ、

 脂で構成された芋虫の様な、

 沸き立つヘドロの様な、

 人間大の気色悪い肉塊が佇んでいる。


 無論、ただの夢だ。

 だというのに、俺はやはり肉塊に吐き気を催した。


 何度見ても、この景色には不似合いな存在だ。

 それでも雨に濡れた彼女が悲しげに見えるのは、俺の病理なのだろうか?


 結局、俺はいつも通り傘を差した。

 異臭を放つ肉塊の横に立ち、そっと傘の下に入れてやったのだ。


『愛してます』


 ブクブクと、肉塊が膨らむ。


「ごめんなさい、俺と君とは付き合えません」


 パンッと、肉塊が破裂した。


 いつかのように、肉片と汚液が体を濡らす。

 俺は頬に着いた肉片を摘まみ、そっと口に含んで嚥下した。


 彼女の死体は、甘酸っぱい味がした。




+++++




 好きな人に振られた、喋る肉塊になってた 完

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好きな人に振られた、喋る肉塊になってた ニドホグ @nidohg

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