第39話 酔って、吐く

 肉塊からの告白。

 もう何度目かのソレは、しかし初めて想いを伝える声のように震えていた。


 府川優子や、暗示が掛かっていた時の肉塊を思い出す。

 俺に対して向けられる好きという気持ちは、どれも重かった。

 今回も、やっぱり重い。

 重くて、大きい、真剣な想い。


 そんな告白を『気持ち悪い』なんて理由で断ろうとする自分が、嫌で嫌で仕方が無かった。

 そりゃあ、ユウコは色々な事をした。

 でも、ユウコの起こした一連の出来事で一番傷ついたのは、きっとユウコだ。

 別に傷ついたから罪が無くなる訳じゃあないけれど、勇気を出して告白をしたのに『気持ち悪い』なんて理由で振られるなんてあんまりだ。


 ……俺がまだ、府川さんを諦めきれていなかったなら、こんな理由で振らずに済んだのに。

 そんな事を考える自分も、やっぱり嫌いだった。


 俺はぎゅっと目を瞑り、目を開く。

 身体を起こし、そそり立つ肉塊を見上げる。

 その表面はジュルジュルと泡立ち、染み出す粘液は月明かりを反射していた。

 臭い立つ腐臭も、ナメクジのように伸縮する触手も、全てが悍ましい。


 自分が今から、何をしようとしているのかを自覚する。

 冷静になってしまったら、きっと躊躇してしまうから、俺は勢いに任せてユウコに抱き着いた。


「……えっ?」


 ユウコの困惑したような、期待したような声が聞こえる。

 俺は構わず肉塊に顔を埋め、しっかりと腕に力を込めた。

 肉の表面からは汚液が染み出し、腕はずぶずぶと肉の隙間に沈み込んでいく。


「ユウコッ……!」


 くぐもった声が出る。

 口を開いたせいで汚液が口に入った。

 吐きそうになったけど、それでも言葉を続けた。


「俺も、君が好きだ!」


 自分が何を言ったかなんて分かってる。

 俺は何も考えないようにする為、思いっきり汚液を飲み込んだ。

 すると、すぐに脳内は『気持ち悪い』で満たされる。


 これで良い。

 俺はユウコの告白を受けた。好きだと言った。

 その事実を脳裏に刻み付けるように、全身を肉塊に埋める。


 そっと、俺の体に優しく触手が絡みついた。

 背中を、粘液が伝う感触。


 全身に鳥肌が立つ。

 頭も痛い。

 でも、関係ない。これから毎日一緒に過ごすのだ。

 この程度で音を上げるつもりはない。


「……し、白石さん。名前で、よ、呼んで良いですか?」


 ユウコは、震える声でそう尋ねる。

 俺は肉塊の表面から少しだけ顔を離し「うん」と短く返事をした。


「で、では……呼びますね?」


 ユウコの上ずった声に、俺まで緊張してきた。

 頭が痛くても、吐きそうでも、それでもユウコの声に耳を澄ませた。


「……優太郎、さん」


 俺はその時、素直に可愛いと思った。

 たとえ『可愛い』の何倍も大きな『気持ち悪い』があったとしても、確かに可愛いと思ったのだ。


 俺は先ほどより少しだけ大きな声で「うん」と言った。

 ユウコは「ふふっ」と笑って、優しく俺を持ち上げる。

 そしてそのまま、俺はプールサイドに運ばれた。


「優太郎さん、私の事……好きですか?」


「うん、好きだよ。昨日の夢の後で色々考えてさ、それで……今日のデートで本当に好きだって気づいた」


 とびっきりの優しい声と、優しい笑顔をユウコに向ける。


「俺は、ユウコの事が好きだよ……?」


 果たして、ユウコは嬉しそうにその身を震わせる。

 そして、そっと触手を俺の手に重ねた。


「ありがとうございます……ずっと、私の事を忘れないでいて下さいね?」


「もちろん! これからはずっと一緒だよ」


 俺のハキハキとした言葉を聞き、ユウコは照れたように笑った。

 俺は更に言葉を続けようとすると、突然あたりが暗くなる。

 雲が月を覆ったのだ。


「…………」


 なんとなく、俺とユウコは黙り込む。

 暗がりにボンヤリと浮かぶユウコの姿は、やっぱり気持ちが悪かった。


 そっと、ユウコが一本の触手を持ち上げる。

 その触手は、緩慢な動きで俺の顔へと近づいた。

 触手が、目の前で動きを止める。

 俺はただ、触手の先から垂れる一筋の粘液を見つめていた。


 ユウコはそっと、触手を俺の唇に近づける。

 それは触れるか触れないかという距離まできて、そのまま離れていった。


 きっと、キスだったのだろう。

 ユウコがもう一度、照れたように笑って見せたから。


 ズルリと蠢き、ユウコは俺から少しだけ距離を取った。


「優太郎さんは、本当に優しいですね」


 雲が流れる。

 醜悪な肉塊は、再び月光の下に晒された。


「…………嘘吐き」


 小さく聞こえたユウコの言葉。

 それを聞き返そうとした瞬間にはもう、肉塊は酷く膨らんでいた。

 早送りで人が太る様を見せつけられているかのように、肉塊は膨張していく。


 一瞬、たった一瞬で、肉塊はプールを埋める程に肥大した。


「待っ……!」


 手を伸ばす。

 パンパンに膨らんだ肉塊が、小さく震えた。



「愛してます」



 ——————その言葉を最後に、肉塊は破裂した。


「…………」


 呆然と、膝をつく。

 顔や体に、肉片と赤茶色の液体がかかった。

 酷い臭いもしているけれど、それを気にする事すらできなかった。


 数秒後、感情が動き出す前に体が反応する。


「うっ、ぐ……ぉぇ」


 何度も、何度も、えずく。

 吐くものが無いのに、体がそれでも何かを吐き出そうとする。

 胃液が喉を焼く痛みも、唾液が喉に詰まる苦しさも、どこか遠い所の出来事みたいだった。


「はっ、はぁっ……はあ、は、はぁ……」


 吐き気が治まった。

 俺は地面に手をついて、浅く呼吸を繰り返す。


 水の流れるような音が聞こえた。

 反射的に視線をプールへ向ける。


「ぁ……」


 プールの底から流れ出ていた。肉片と、汚液が。

 ユウコの、亡骸が。


 俺は転がるようにプールの中に入り、排水溝へと近寄る。


 止めどなく流れ出る、赤と白の液や肉。

 俺は必死で流れ出るユウコの死体を止めようとするが、どうしようもなかった。


 それでも、何とか止めたくて。

 愛してると言ってくれた女の子が、ゴミになるなんて認めたくなくて。


 俺は、肉片を口に含んだ。


「っゔ、ぇ……」


 口いっぱいに広がったエグみ。

 身体が反射的に吐き出す。


 もう一度、肉片を拾って口に含む。


「ぉぐ、ぁっ……」


 反射的に吐き出す。

 もう一度、口に含む。


「ぅっ、ぐっ」


 今度は手で口を押えた。

 反射を理性で押さえつけ、生肉を噛み切る。


 ユウコの死体は、思っていたよりも柔らかかった。


 そのまま、肉片を無理やり呑み込む。

 肉が喉を通る感覚。

 ようやく胃に収まったと確信して、口から手を離した。


「はぁ、はあ、はっ、ぁっ、ぉぇ……」


 びちゃびちゃと、口から再び肉片が溢れる。


「……くそっ!」


 訳も分からない激情を向ける矛先が見つからず、ただただ頭を掻きむしった。


 脳内で、ユウコの「忘れないで」が反響する。

 脳内で、ユウコの「嘘吐き」が反響する。

 脳内で、ユウコの「愛してます」が反響する。


 頭を掻きむしった。

 瞼の裏に浮かぶのは、ユウコが破裂した瞬間でも、ユウコが告白した瞬間でもなく、府川優子が俺に振られた時の顔だった……。


 頭を掻きむしりすぎたのだろう、ぬめりとした血の感触が指に触れた。

 そんな事はどうでも良かったから、そのまま頭を掻きむしり続けた。


「……お兄ちゃん、もう止めろ」


 手を、掴まれる。


「そんな事しても、自分が傷つくだけだ」


 振り返る。香菜ちゃんが立っていた。

 それを認識した瞬間、一気に悲しみが押し寄せてくる。


 ……もう、月も星もボヤけて見えやしなかった。

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