第38話 偽善者は勘違い、嘘は痛いから
雨に濡れた肉塊に、そっと手を差し出す。
対する彼女も、ゆっくりとこちらに触手を伸ばしてきた。
そのまま、じれったいほどのスピードで触手と俺の手が近づいていく。
あと十センチ、あと五センチ、あと三センチ、二センチ、一センチ…………もう触れるか触れないかという所で、触手は動きを止める。
俺はすっと手を伸ばし、優しく彼女の手を握った。
その瞬間、彼女の体がブルリと震える。
「あ、ぅ、あっぁ……!」
「ミナシゴロシさんは、どこに行きたい?」
俺の問いかけに、彼女は小さく「……学校」と呟いた。
次の瞬間、ゲートが背後でグパリと口を開ける。その奥には、見慣れた教室が窺えた。
「じゃあ、行こうか?」
「は、ぃ」
ミナシゴロシさんの返事を聞き、俺はそのままゲートに足を向ける。
しかし、彼女は何かに悩んだ様子でその場を動かない。
「どうしたの?」
「えと……あ、ぁの、あのっ! ミ、ミナシゴロシさんじゃなくて、ユウコって呼んでほしい、です」
触手を手持ち無沙汰に絡ませて、彼女はそんな要求を口にした。
「分かった。ユウコ、おいで」
俺は優しい笑みを浮かべ、ユウコの手を引く。
今度こそ、彼女は恐る恐るゲートを潜り抜けた。
ふわりと空気の匂いが変わる。
月明かりに照らされた教室には、どこか静謐な空気が漂っていた。
俺は自分の席へ行き、腰を下ろす。
ユウコはそれを見て、恐る恐る府川さんの席に座った。
「ユウコ、前に数学で分からないところがあるって言ってたよね?」
「お、覚えててくれたんですね……?」
ユウコはどこか嬉しそうにそう言った。
「うん、今から教えてあげようか?」
「えへへ、あ、ありがとうございます」
俺は引き出しから教科書とノートを取り出す。
「えっと、シャーペンは……」
「あ、の……こっちの引き出しに、入ってました」
ユウコの触手に握られているのは、以前府川さんが使っていて、いつの間にか見なくなった水色のシャープペンだ。
「……じゃあ、始めようか。ここの例題見て」
俺は教科書に文字や図を書き込みながら、例題の躓きそうな箇所を解説する。
ユウコは「……うん、うん」と相槌を打ち、時折質問した。
俺はその質問に逐一答え、その章の基本を教えていく。
だんだん教科書に書き込みは増え、無意識にユウコと俺の距離は近づいていった。
「……あっ」
ふと、俺の頭と肉塊が触れ合う。
お互い、咄嗟に姿勢を正して距離をとった。
「えっと……じゃあ、解説も済んだし、実際に問3を解いてみて?」
「あ、あ、は、はいっ」
刹那の触れ合いを誤魔化すように、ユウコはシャープペンを走らせる。
俺は少しドキドキしたような顔をしながら、その様子を眺めた。
ユウコが解き方を間違える度、ヒントを告げる。
するとユウコは「あっ」と声を上げて、自らの間違いを正した。
俺がユウコを褒めると、ユウコは嬉しそうに声を上ずらせる。
そんな事を繰り返し、二人っきりの勉強会は進んでいった。
淡々と、どこか白々しい空気の中で。
そろそろユウコもコツを掴んだのか、質問も無く問題を解き続けて十数分。
彼女は、ふと時計を見るように体を動かした。
「……そろそろ、休み時間ですね」
俺も時計に目をやると、針は二時半を示している。
確かに今が昼であれば、そろそろ五時間目が終わる時間だ。
「次の授業、何だっけ?」
俺がそう問いかけると、ユウコは少し悩むように唸る。
「えっと……プール、だったかも、しれません」
そう言ってユウコは、俺の様子を窺うように体をねじる。
俺は、やっぱり優しい笑顔を作って見せた。
「じゃあ、すぐに移動しないと」
「は、はい……!」
教科書やノートを閉じて、引き出しにしまう。
すると、ユウコはもう待ちきれないといった様子で教室の扉を開けた。
「あ、俺さ、ちょっとトイレ行ってくる。だからユウコは先に行ってて」
「……ぁ、はい! じゃあ、また後で!」
ユウコは廊下いっぱいに詰まりながら、滑るようにしてプールへ向かっていく。
俺は彼女の姿を、ニコニコと笑いながら見送っていた。
肉塊の全てが、廊下の角へと消えるまで。
「…………ふ、う、ぇ」
ユウコが見えなくなって、緊張の糸が切れる。
瞬間、今まで我慢していた吐き気が一気に駆け上がってきた。
手で口を押さえ、吐き気が引くまで身を固くして耐える。
「っすぅ……ぐ、ぅ」
喉までせり上がった胃の中身を、なんとか飲み下す。
相変わらず吐き気は消えないが、波は少しだけ引いた。
俺は一歩ずつ、ゆっくりとトイレに向かって歩き始める。
地面に足をつく度、その小さな衝撃で吐き気がこみ上げた。
……やっぱ、駄目だ。
ユウコの告白には応えられない。
表情を取り繕ったままアレと相対し続けるなんて、俺には不可能だ。
言ってしまえば、蛆の湧いた生肉から好意を寄せられているような状況。
どうしたって嫌悪感がこみ上がる。
トイレに入り、鏡に映った自分を睨む。
酷い顔だ。
「……ぐっ、ぇ」
急に吐き気が強くなり、慌てて手洗い場に身を乗り出す。
あらかじめ夕食を抜いておいたからだろう、泡立った透明な液体だけが口から溢れた。
吐瀉物は大した引っかかりもなく、そのまま排水溝へと流れていく。
「はぁ、はあ……」
少し涙ぐみながら、呼吸を整える。
吐瀉物を出し終わった後も、何度か唾液を口から吐いた。
「…………」
顔を洗って、鏡を睨む。
そこに映る俺は、先ほどよりもどこか疲れたような顔をして、少しばかり目を細めていた。
腕時計を見る。
もう、二時三十七分だ。すぐに六時間目が始まる。
俺はプールに向かって廊下を駆け出した。
+++++
俺は、ギリギリ休み時間内にプールへ辿り着いた。
そのままプールサイドに入ろうと思ったのだが、入り口に鍵が掛けられている。
「まあ……仕方がないか」
俺は、フェンスに手足をかけて体重を預ける。
少したわむが、問題なく乗り越えられた。
「おーい、ユウコ! 俺、水着が無いんだけどさ……」
「あ、白石さん。水着なら、大丈夫ですよ……今日のプールは、中止みたいですから」
先にプールサイドへ来ていたユウコは、そう言って寂しそうに笑う。
見ると、プールの水が完全に抜かれていた。
確かに、これでは深夜の水泳授業もできそうにない。
「…………うーん」
俺はとりあえず、梯子に足をかけて水の抜かれたプールに入る。
すっかり乾ききっているプールの底は、靴越しに硬い感触を返してきた。
「何をしているんですか?」
ユウコの問いに曖昧な返事をして、俺はプールの中心に寝転がる。
「おぉ……!」
予想通り、星が良く見えた。
冷たい夜の空気と星々の輝きは、俺に全てを忘れさせてくれる。
その瞬間はただ、自然に魅せられていたのだ。
「ユウコもおいで、すごく綺麗だ」
「えっ、あ……はぃ」
ズルズルとその巨体を引きずり、ユウコは垂れるようにしてプールの内に入り込む。
そうして、俺の体を囲うようにその身を横たえた。
「わっ、すごい……!」
感嘆の声が上がる。
ユウコも目にしたのだろう。遮蔽物が無い、どこまでも広がる星空を。
俺達はしばらくの間、黙って星を眺めていた。
動きもしない、ただ光っているだけの点に、どうしてここまで心奪われるのだろうか?
いつまでだって、こうしていたい気分だった。
だが、これをユウコが楽しんでいるとは限らない。
俺は気をとりなおし、ちょっとした雑談に花を咲かせる事にした。
「あれが、オリオン座だよ」
ひときわ明るい星を指さす。
「星座、分かるんですか?」
「オリオン座だけ、ね」
少しばかり恥ずかしく思いながら、俺は正直に答えた。
昔は冬の大三角も分かったのだが、もう忘れてしまったのだ。
ユウコは分かったような分からないような声を上げながら、しかし嬉しそうに触手を揺らす。
「あれ、あの星を見て下さい」
「……うーん、どれかな?」
触手の示す先に、俺は目を凝らす。
「ほら、あの優しい光の星です。あれが、白石さん座です!」
そう言った後で、ユウコは照れくさそうに「ふふっ」と笑った。
俺は少しばかり、胸の奥が痛んだ。
「じゃあ、隣の星の線はユウコ座かな」
「……オリオン座以外にも、ありましたね。知ってる星座」
ユウコは嬉しそうにそう言うと、少し身を寄せてきた。
そして、恐る恐る触手を俺の左手に伸ばしてくる。
俺は少しだけ迷って、その触手を手に取った。
触手からは排水溝の汚れのような、ぬめぬめとした感触が伝わってくる。
俺は、浅く空気を吸った。
ぬうっと、肉塊が縦に伸びる。
「…………白石さん」
彼女を背後から照らす月が、巨大な目のように思えた。
「やっぱり、好きです」
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