第37話 独りよがりの雨宿り

 深夜一時、俺はミナシゴロシさんに告げた通り駅前に来ていた。

 一度、府川優子と待ち合わせしたあの場所だ。


 軽く周囲を見渡す。

 昼間はあれだけ人の多かった駅前も、こんな時間では人っ子一人見当たらない。

 ミナシゴロシさんも、まだ来ていないようだった。


 俺は少しばかり不安を覚えつつ、駅前のベンチに座り込む。


 これから、デートをする。あの肉塊と。

 俺は、雨に濡れながら地を這いずる彼女に同情したのだ。

 あれは咄嗟に出た言葉だった。

 付き合うつもりも、恋愛感情も存在しない、完全な偽善。


 俺は優しくなんかない。

 最初から振るつもりでデートをする。

 俺への好意も、死ぬ事も、諦めてもらう。

 本当に身勝手で、利己的で、反吐が出る。

 それでも俺は、彼女と付き合いきれる自信なんて無かったし、俺を好きと言ってくれた彼女に死んでほしくもなかった。


「……ふうー、よし」


 息を吐いて、覚悟を決める。

 今日だけは、完全にミナシゴロシさんの理想を演じる。


 俺は手を組み、街灯にぶつかる羽虫を眺めて肉塊の登場を待った。

 ……しかし、いつまで経っても彼女は現れない。

 時計の針は、既に一時半を回っている。


 じんわりと現実味を帯びてきた「自殺」の二文字。

 ミナシゴロシさんは今朝、夢の中で俺に殺してほしいと言った。

 そんな精神状態の彼女だ、何かの拍子に自殺という選択をしてもおかしくはない。


 鼓動が徐々に激しくなりはじめる。


 彼女の元へ向かわなければ……!

 しかし、どうやって? こんな状況で、とても眠りにつけるとは思えない。

 睡眠薬を試すか……いや、今みたいな緊張状態からすぐに眠りにつけるほど効果が強い薬を、簡単に手に入れられるとは思えない。


 少し考えて、ハッとする。

 確実にリスクはあるが、それでもリターンを期待できる一手。

 俺はすぐにスマホを取り出し、香菜ちゃんに電話をかけていた。


「もしもし、香菜ちゃん!」


「ふぁ~……なんら、お兄ちゃん……?」


「緊急なんだ、香菜ちゃんの力を借りたい。今どこにいる!?」


「……何かあったのか?」

 俺の緊迫した状況を察したのか、眠そうにしていた香菜ちゃんの声は、すぐにハッキリとしたものに切り替わった。


「ミナシゴロシさんに会いたい」


 俺は一言、それだけを告げる。


「……詳しい話は会って聞く。近所の公園に来い」


 香菜ちゃんは静かにそう言うと、俺が言葉を続ける間も無く一方的に電話が切られた。



+++++



「来たな。じゃあ、説明してもらおうか? お兄ちゃん」


 公園のブランコを静かに漕いでいた香菜ちゃんは、俺を一瞥するとそう言った。


「今日の夜、ミナシゴロシさんと会う約束をしていた。でも、ミナシゴロシさんが来なかったんだ。最悪の場合、彼女が自殺している可能性もある。だから、できるだけ早く彼女に会いたい」


 俺が淡々とそう告げると、香菜ちゃんは驚きとも怒りともつかない表情で怒鳴った。


「肉塊の悪夢は見なくなったって言ってただろ!」


「……最近は見てなかった。でも、今朝の夢で肉塊にまた会ったんだ」


「そこで、あの化け物と会う約束をしたと?」


 俺は黙って首肯する。

 香菜ちゃんは小さく溜息を吐いて、疲れたように項垂れた。


「あの化け物のせいで、お兄ちゃんはどれだけ苦しめられた? 私と違って、全部覚えてるんだろ? 手帳に書いてあった、ずっと辛そうだって、何度も吐いてるって……」


 香菜ちゃんは訴えるように言葉を続ける。


「お兄ちゃんが、いなくなっちゃうのは嫌だ! 化け物が死ぬくらい良いじゃんか! お兄ちゃん、あの化け物と関わってからずっと遠くを見てる。蓮一兄さんも、同じだった……」


 最初は激しかった声も次第に弱々しくなっていき、最後に香菜ちゃんはポツリと呟いた。


「何で、私を置いて行っちゃうの……?」


 その言葉を聞き、俺はようやく理解する。

 香菜ちゃんは蓮一が廃人になってからもずっと気丈に振舞っていたけれど、本当は不安だったのだ。

 狂気的なまでに化け物を殺そうとしていたのも、そんな不安の裏返しだったのかもしれない。


 俺は、香菜ちゃんにこんな顔をさせてまでミナシゴロシさんの元へ行きたいのか?


 ……分からない。

 答えが出せない。

 でも今は、時間が無かった。


「俺は、香菜ちゃんを置いて行かない。ちゃんと戻ってくるって約束する」


 俺はその場にしゃがみ込み、ブランコに座る香菜ちゃんと目線を合わせる。

 しかし、香菜ちゃんは項垂れたまま顔を上げない。

 そして目も合わせないまま、香菜ちゃんは口を開いた。


「嘘、吐かないで」


「……ごめん」


 俺の方便は、あっさりと見抜かれた。


「それでも、彼女は俺に好きって言ってくれたから」


 その言葉で香菜ちゃんは顔を上げ、俺を睨みつける。

 俺はたじろいだが、それでも目は逸らさなかった。


 香菜ちゃんは、スッと表情を消して口を開く。


「……私も、お兄ちゃんの事が好きだよ」


「え……?」


 想定外の言葉に思わず聞き返した俺を意に介さず、香菜ちゃんは淡々と言葉を続ける。


「好きって言葉には色々な意味があるでしょ? 恋愛、友愛、親愛、執着、独占、支配……本当に沢山。化け物の言った好きがどんな感情なのかは知らない。でも、私は蓮一兄さんと同じくらい……お兄ちゃんが好きだよ? この気持ちが化け物よりも軽いだなんて、そんな事はありえない」


 その声は酷く平坦だったが、しかし嘘だとは思えなかった。


 香菜ちゃんは、ブランコからすっと立ち上がる。

 その表情は、街灯が逆光になっていて分からなかった。


「ねえ、お兄ちゃん。私が守ってあげるから……ずっと私のお兄ちゃんでいてよ」


 消えそうなほど小さな声で、香菜ちゃんは俺にそう告げた。


 ……その言葉は、嘘だ。

 香菜ちゃんは俺にお兄ちゃんでいて欲しい訳じゃない。ましてや俺の事が好きな訳でもない。

 ただ、俺に守られていて欲しいだけなんだ。

 蓮一を、守れなかったから。そして、蓮一に守られたから。


「香菜ちゃん」


「……うん」


 香菜ちゃんが俺を見ている。

 相変わらず表情は見えないが、目の前の香菜ちゃんは酷く寂しそうに見えた。


 ……何を言うべきか、考える。

 そうして分かったのは、やはり自分が利己主義者らしいという事実だった。


「香菜ちゃん……俺はやっぱり、ミナシゴロシさんのところへ行きたい。でも、絶対に無事で戻ってくるとは約束できない」


 俺はこれから、香菜ちゃんに最低な言葉を告げる。


 俺と香菜ちゃんの関係は、偽善に塗れた酷く汚い関係だ。

 香菜ちゃんは自己慰撫の為に俺を守り、俺は香菜ちゃんに都合よく助けを求めてきた。

 そんな共依存を自覚してしまったら、もう外面を整えた綺麗事なんて口にはできないのだ。


「……俺がミナシゴロシさんから殺されそうになったらさ、その時に香菜ちゃんが守ってよ」


 果たして、香菜ちゃんは小さく「分かった」とだけ呟く。

 やっぱり、香菜ちゃんの表情は逆光で見えなかった。


 香菜ちゃんはおもむろにしゃがみ込み、ガリガリと地面に線を引き始める。

 線と線は繋がり、やがて奇怪な絵が夜闇に浮かび上がった。

 その中心に赤い石を放り、香菜ちゃんは何事かを呟く。


『なりみ、ねれもすか?』


 瞬間、ぐちゅぐちゅと肌色の肉が地面からせり上がった。

 それは人のような、影のような、曖昧な存在だ。

 酷く不気味な肉の柱は、ぐぱりと中央から裂ける。

 口のような、傷のような……グロテスクな輪。

 それは俺を招き入れるように蠢いた。


「香菜ちゃん、これって……」


「少し前に、近所をうろついてた化け物から作ったゲートだ。ミナシゴロシさんの異界に繋がってる」


 香菜ちゃんは俯いたまま、ぶっきらぼうにそう言った。

 俺は小さく「ありがとう」と呟いて、ゲートに足をかける。


「お兄ちゃん!」


 後ろを振り返る。


「私っ! 本当にお兄ちゃんの事、大好きだから!」


 ゲートが閉じる間際、香菜ちゃんの目は確かに俺を捉えていた。

 俺は口の中で「うん」と呟き、再び前に向き直った。


 眼前に広がるのは、見慣れた知らない田舎道。

 雨は単調に地面を跳ね続ける。

 濡れて艶めく肉塊は、驚いたようにその身を震わせた。


 俺はふっと息を吐き出して、ニコリと優しく笑って見せる。


「……迎えに来たよ、デートに行こう」

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