武蔵野の森で出会った生き物は

烏川 ハル

武蔵野の森で出会った生き物は

   

 その森に立ち寄ったのは、はっきりとした目的や理由があったからではない。しいて言うならば、郷愁のようなものだろうか。

 小さい頃、友達から「こっちはナラ。あっちがブナの木だよ」と教わったのを、今でも覚えている。そんな懐かしい木々に囲まれた武蔵野の森に、私は久しぶりに足を踏み入れていた。


 ふと立ち止まり、新鮮な空気を胸いっぱいに吸い込めば、森の中をかすかに流れる風の香りを楽しむことができる。

 最近では、田舎でも無粋なアスファルト舗装が増えてきたけれど、武蔵野の森の中は、私が昔遊んだままだった。大地の土の感触がダイレクトに足に伝わってくるのは、やはり心地が良い。

 この辺りは、まだ人が通る道なのだろう。落ち葉や小石が転がっている土の上を、さくさくと踏みしめながら、奥へ奥へと進んでいく。

 しばらく歩くと、足元に土の色しか見えないエリアに入った。湿った黒っぽい土と緑の木々のコントラストは、私の目には、色鮮やかに映る。自然と笑みを浮かべて、森の散策を楽しんでいたのだが……。

 そこは、私だけの遊び場ではなかった。一時間もしないうちに、武蔵野の住民に出くわしたのだ。


 森の小道が少し開けて、広場みたいになっている場所だった。右手には山の斜面が広がっており、おそらくその上から降りてきたのだろう。本来は森というより、山に棲む生き物なのだから。

 ゴツゴツとした岩で覆われた、いかにも硬そうな体躯。大人であれば山よりも大きいと言われているけれど、この個体は、せいぜい人間の数倍程度のサイズだ。まだ幼い子供に違いない。

 ダイダラボッチと呼ばれる生き物だった。


 友達からは「ずいぶんと人間臭い」と笑われたりもしたが、私は民俗学に少し興味があり、武蔵野におけるダイダラボッチの伝承も読んだことがある。

 それによると、ダイダラボッチは山を動かしたり泉を作り出したりして、この武蔵野台地を形成するのに大いに貢献したという。

 いわば、国作りの神様の一つだった。


 だが実際のダイダラボッチは、それほど大仰な存在ではなく、武蔵野で生きる仲間の一種族に過ぎない。

 かつては私も武蔵野の住民であり、この森でもよく遊んだものだが……。遠目で見たことはあっても、こんなに間近でダイダラボッチと対面するのは初めてだった。

「こんにちは。私は……」

 嬉しさのあまり歩み寄ろうとするが、ダイダラボッチの反応は、私とは真逆まぎゃくだった。

 私の姿に驚いたらしく、二、三歩後退あとずさりしている。

「ウウッ……?」

 かろうじて耳に聞こえる程度の声で、小さく低く唸っていた。岩の顔に浮かんでいるのは、戸惑い、いやおびえの色だろうか。

「ごめん、ごめん」

 私は素直に、謝罪の言葉を口にする。

 考えてみれば、これだけ幼いダイダラボッチであり、誰も来ないような森の奥なのだ。おそらく今まで、同じダイダラボッチだけに囲まれて生きてきたのだろう。別種族の生き物と遭遇したのは、初めてだったに違いない。

 まさかダイダラボッチが、この私におびえるとは……。

 心の中で苦笑いしながらも顔には出さず、なるべく穏やかな笑みを浮かべて、再び声をかけた。

「怖がらなくていいんだよ。ほら、私も君と同じで……」

「ウウッ……!」

 私のアプローチは失敗だったらしい。

 先ほどよりも大きな、明らかな唸り声を上げて、ダイダラボッチは跳躍する。その巨体からは想像もできないような身軽さで、山の斜面を駆け上がって……。

 あっという間に、私の視界から消えてしまった。


「残念。友達になりそびれちゃったな……」

 そんな独り言が口から漏れるが、内心では仕方ないと納得できていた。

 こちらは優しく話しかけたつもりでも、そもそも言葉が通じなかったのだろう。種族が違うというのは、そういうことなのだ。

 それに、あれくらい臆病で警戒心が強ければ、人間には見つかりにくくなる。その方が、彼にとっても良いはずだ。ダイダラボッチは、伝説の生き物なのだから。

 とはいえ、そもそも伝承に出てくる以上、ダイダラボッチの目撃例は結構あったに違いない。その巨体ゆえに隠れられなかったのか、あるいは、ついつい人前に出てしまうような、うっかり者のダイダラボッチがいたのだろうか。

「でも『うっかり者』に関しては、ダイダラボッチのことを笑えないよなあ」

 自嘲気味に呟きながら、私は再び歩き始めた。


 私の一家は、かつては武蔵野に棲んでいたけれど、今では東北の山の中で暮らしている。

 友達の家族は、それぞれ別々の地方へ引っ越していったが、どうやら東日本一帯に広がっているらしい。それこそ民俗学を勉強してみると、いたるところに伝承が残っているのだった。

「今にして思えば、粗忽者も多かった……。あいつらのことだから、うっかり姿を見られるやつも結構いるだろうな」

 鋭い爪のある四本脚で大地を駆け巡ったり、ふかふかの雲に乗って空を飛び回ったりした仲間たち。

 彼らとの思い出を頭に浮かべながら、人間から『雷獣』と呼ばれる私は、森の散策を続けるのだった。




(「武蔵野の森で出会った生き物は」完)

   

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武蔵野の森で出会った生き物は 烏川 ハル @haru_karasugawa

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