水晶の森にて

空烏 有架(カラクロアリカ)

水晶の森にて、獣に誑かされるのこと。

 北国ハーシの、ある夏の出来事。

 夏季休暇中に課されたレポートのため、ミルン少年はその日、黒ハーシ地方の森を訪れていた。


 風が樹々を通り抜けるたびにさらさらと心地いい音がする。いかに雪国でも夏に太陽の真下に出ればそれなりに暑いものだが、ここでは樹木が天然のパラソルとなって、きつい陽光をずいぶんと和らげてくれていた。

 お陰で過ごしやすいのはいいが、代わりに足許はそうもいかない。

 相棒のオオカミが若干埋もれそうになっているくらい、下生えは大きく長く茂っていた。


「よくもまぁここまで伸びたもんだな、日差しなんか届かないだろうに」

『そこはやはり精霊の加護があるからだろう』

「にしても限度ってもんがあるだろ……なあシェンダル、おまえ歩きづらくないか?」

『まったく。故郷アタヴァヌィの森も、これほどではないが夏場はそこそこ繁るからな。それにこのほうが狩りがしやすいぞ』


 あっけらかんとした相棒の言葉に、まあ動物ならそうか、とミルンは納得した。


 ……当たり前のようにオオカミが人語を話しているわけだが、決して彼は特殊な生物というわけではない。

 この世界のすべての事象は『紋章』によって成り、その図匠を描いて呪文を唱えることで奇跡を起こす、いわば魔法のような技術を『紋唱術もんしょうじゅつ』という。ミルンは専門学校でその紋唱術を習っている学生であり、卒業できれば晴れて一人前の『紋唱術師』になる予定だ。

 そんな紋唱術師につきものの存在が、野生動物とパートナー契約を結ぶ『遣獣けんじゅう』である。この契約の効果によって双方の意思疎通が可能となる。


 つまりシェンダルはもともと、そのへんの森に棲息するふつうのオオカミだった。なんやかんやあってミルンと出逢い、すったもんだのすえに契約を結んで相棒となった。

 ちなみに他にも遣獣はいるのだが、今日は立地的な関係でシェンダルひとりを随伴している。


『今日はその精霊を調査するんだろう?』

「まあな。そんで、そいつを祀った祠が森の奥にあるってんでそれを探して小一時間……も歩き続けてるわりにさっぱり景色が変わんねえな……」


 田舎に生まれ自然に慣れ親しんで育ったミルンだが、それが地元でもない森では話が別だ。

 どちらかというと精神的な疲労からげんなりとした声を上げる少年を見上げ、黒毛のオオカミはふすんと鼻を鳴らす。もしやそれは笑ったのだろうか。


『恐らくどこかで道を間違ったな。案内人を雇わないからだ』

「そんな金ねえよ」

『仕方がない。ならば無償の案内人を探すとしよう』


 そんな都合のいいものがどこにいる、と言いかけたものの、すぐシェンダルの意図に気付いたミルンは黙り込んだ。

 森にいちばん詳しいのは、ここに暮らす野生の獣たちをおいて他にいない。

 シェンダルは彼らに協力を頼むつもりだろう。さすがに何の対価も払わないわけにはいかないだろうが、少なくとも金銭は要求されない。


『ミルシュコ、ここで少し待っていろ。俺ひとりのほうが警戒されにくい』

「おー、頼んだ」


 漆黒のオオカミは草深い茂みの中へと消えていく。雪の中であれば目立つ毛色も、こうした森の中ではなかなか具合のいい保護色だ。

 あっという間に姿が見えなくなって、ミルンは森の中に取り残された恰好になった。


 空気は澄んで穏やか、時折吹き込む風も心地いいし、頭上には木々の間からぼんやり青空も見える。

 なかなか快適な環境だ。ちょうどよく転がっていた岩の上に腰かけて、これなら本でも持ってこればよかったな、と思いながらミルンは提げていた鞄の口を開いた。

 所持品といえば記録用のノートとペン、あと癖で入れっぱなしになっていた紋唱術の教本ぐらいしかない。


 他にできることがないからといって、こんな場所でも授業の復習を始めるあたり、ミルンはかなり生真面目な部類だった。

 単に性格の問題だけではなかったりもするが。というのも奨学金の返済が絡んでいる都合上、ミルンは一定以上の成績を修めることが半ば義務付けられた立場でもあったのだ。


「物探しの紋唱とか覚えとけば使えたかな……」


 紋唱術の基本は、炎や水といった物質をその場に召喚するような単属性系のもの。それは基礎としてどんな学校でも真っ先に習う。

 次に応急処置に使える簡単な治療系や、灯りを得るための光属性といった、生活に便利なものだ。


 高度になると複数の属性や術式を掛け合わせた応用に入り、そこからは学校のランクが如実に表れる。

 ミルンが通う学校は少々等級が劣るため、失せ物探しのような複雑な術になると恐らく教わっても構造まで、実技までは期待できない。実用したければ自分で覚えるしかないだろう。

 あとで調べようとノートの端に「物探し」と小さくメモした。


 シェンダルがなかなか戻ってこないので、持ってきた水筒がそのうち空になった。それにもともとコップ数杯分しか入らないような小瓶だ。

 こうなることは織り込みずみだったミルンは、手袋をした手でさらさらと空中に図形を書いた。


 紋唱術は円をよく用いる。とくに水という属性においては。

 そしてこの専用の手袋をして指を振るったときにだけ光の軌跡が現れるのだ。

 描き上げたのは二重の正円に小さな楕円を三つ組み合わせたもので、ミルンは慣れた調子でその紋章に対応した呪文――『招言詩しょうごんし』を唱えた。


清泉せいぜいの紋」


 紋章が銀色に輝き、そこから小さな滝のように水が溢れ出る。

 ミルンはそれを水筒で受けながら、ついでに数口飲んだ。少し冷たくてさらりと美味い。


 心地よく喉を潤していると、背後で草むらがざわざわと揺れる音がした。シェンダルが戻ってきたらしい。

 首尾はどうかと尋ねようとして振り向いたミルンの眼に、思わぬ光景が飛び込んでくる。

 そこにいたのはシェンダル一匹ではなかった。もちろん他の獣を連れてくることはわかっていたが、その姿がちょっと予想外だったのだ。


 それは、新雪のように真っ白な、別のオオカミだった。


『すまん、待たせたな。……遅れた理由は察してくれ。それと紹介しよう、彼女はファラ』


 彼女、というからにはその白オオカミはメスらしい。

 見事に混色も模様もない。人間の眼から見てかなり美しい獣で、シェンダルがやや自慢げなところから察するに、オオカミ的にも美女なのだろう。

 ファラは真っ青な瞳でミルンを見つめてきたが、その眼も宝石のように輝いていた。


「それで彼女、案内してくれるのか?」

『無論だ。話はもうつけてある』

「ちなみに礼は何がいいって? おまえ用の干し肉くらいしか持ってねえけど、それでもいいか?」

『何も要らんそうだ。それじゃあ頼むぞファラ』


 オオカミの表情などわからないが、たぶんシェンダルは人間でいうところのドヤ顔なんじゃなかろうか。なんか声音がそんな感じだ。

 ともかくクーと小さく鳴いたファラが、先導するようにトコトコと歩き始めたので、ミルンとシェンダルは彼女に続いた。


 しかし、問題はそこからであった。


 ファラはどんどん森の奥に進んでいく。というより、迷い込んでいる。

 そもそもが完全に迷っていたミルンたちであったが、それでもそう感じられたのは、次第に周囲が暗くなっていったからだ。


 なんとなく樹々の合間から差し込む光が薄くなっているような気がする。

 あと風も弱くなっている。日差しがないので暑くはないが、首筋をぺたりと湿った空気が撫でる感覚がある。


 なんだか妙だな、とミルンは思った。水場が近いわけでもないのにやたら湿度が高い。

 同時に、どうも肌の表面がひりひりして仕方がない。


「なあ、あとどれくらいで着くんだ?」


 十数分歩いたところで、とうとう耐えきれずにそう言った。


 ミルンが立ち止まったのに気付いてシェンダルも脚を止める。そしてまったく後ろを気にせず歩き続けているファラに向けて、おおん、と軽く吠えて呼び止めた。

 そこでようやくこちらの不穏に気づいたらしいファラは、ゆっくりこちらに振り向く。


 ……白オオカミの瞳の色が、今は夕焼けそっくりな茜色に染まっていた。


 もちろん時間はまだ昼過ぎで、陽が落ちてなどいない。そのはずだが、それにしては辺りが妙に暗くなっている。

 ミルンは絶句し――それでも手を構えるのを忘れなかった。

 理屈ではない。己が今、生命の危機に陥っていることを本能的に感じ取ったからだ。


 指が震えているのがわかる。さっきまでべたついていた空気が今は澄んでぴんと張りつめ、耳の奥がキリキリと鳴った。


「――ッ、すい、水流の紋!」


 咄嗟に放ったのは水属性の単純な攻撃紋唱である。勉強中の学生の身でも間違いなく描ける簡単なもので、すでにかなりパニック状態にあるミルンにはこれしか思いつかなかった。

 輝く紋章から川のようにあふれ出した水が、地表を覆う草を圧し折りながらファラへと向かう。


 このオオカミはただの獣ではない。

 思えば第一印象からしてふつうではなかった。

 野生の獣にしては美しすぎたのだ。毛の色に混じりけがないぐらいならまだしも、洗ったように汚れがないなんてあるわけがない。


 そしてやはり、ファラは獣のくせに笑うような顔をして、あうん、と可愛らしく吠えた。


 獣の場合は咆哮のみで力を使う。シェンダルにしたって契約後に獲得したのは人語を解する能力だけで、氷属性の力は生まれつき身につけていた。

 異常を察した相棒はすぐさま自分の能力をミルンの術に被せ、奔流をそのまま氷の弾丸へと変化させる。


 ファラはそれを、石の壁を創り出してすべて防いでみせた。

 土中から隆起して現れたそれらはどれもが半透明の白色で、鉱物としては恐らく水晶の類だろう。防御から一転、氷を打ち砕いたあと、表面から剥がれ落ちるようにして石英の刃が現れる。

 それが今度は反撃とばかりにミルンたちに飛んできたので、ミルンは慌てて別の紋章を描いた。


「おいおいおい待て待て待て、っと、岩壁の紋!」

『いきなり攻撃なんてするからだろう! どういうつもりだ?』

「どうもこうもあるか! どう考えてもまともじゃねえだろあれ! シェンダルてめえ、どこで見つけたんだよあいつ!」

『見つけたんじゃなくて向こうから来たんだ』

「……その時点でちったあ疑えーッ!」


 大混乱に陥りながら、ミルンは必死でとにかく相棒と我が身を守る。とてもじゃないが攻撃なんてする余裕はなかった。

 シェンダルはというと空気を読んでミルンに合わせているものの、なぜファラに攻撃するのかわからないような口ぶりである。


 しばらくして、そのうちやっとファラからの攻撃が止んだ。

 とはいえ安泰ではなかった。ミルンの作った岩壁が砕かれまくってかなり土埃が舞っていたので視界が悪かったのだが、それが止むと、またしても異様な光景が周囲に広がっていたのだ。


 すなわち、ミルンたちは水晶の壁にぐるりと囲われてしまっていた。


「なんだこりゃ……」

『どうやら怒らせたようだな』

「それか遊ばれてんだよ」


 ミルンは頭をぐしゃりと掻きながら溜息をついた。そして鞄に手を突っ込む。

 まさかこれが役に立つとは、と思いながら取り出したのは、単に入れっぱなしだっただけの教本だ。


 属性には相性がある。石の壁は、石に対して有利な属性の術でなければ破れない。

 そしてまだ勉強中のミルンは、その相克の関係を完璧に覚えている自信はなかった。最終的に総当たりするという手もなくはないが、参考にできる資料があるのは手間が省けて助かる。

 とりあえず教本によれば、石は地属性の傍系にあたり、地属性につのは樹属性であるらしい。


「はーあ。……綱樹こうじゅの紋」


 さすがに一発というわけにはいかなかったが、何度もやってなんとか壁を崩せた。


 ようやく外に出られたが、そこにファラの姿はない。

 代わりに小さな石の祠があった。さっきまでそんなものはなかったのに、まるで百年前からここにありましたと言わんばかりの風情のそれは、真っ白な晶石でできている。

 祠の表面には紋章が刻まれていて、奥には透明な青い玉石が据えられていた。


 もう他にないよな……と思いながら記録を取り、そこから這う這うの体で帰路に就く。

 帰りはほとんど迷わず、すんなり森から出ることができた。


 そして帰ってから調べたところによると、その森の精霊の名はノルファラーペ。

 ハーシ西部の主神カーシャ・カーイ――その姿はたいてい白銀のオオカミと言われている――の眷属であり、現地ではイタズラ好きとして知られているそうだ。

 以後ミルンは遺跡等に行く際、必ず入念に下調べをするようになった。



 ……ちなみに提出したレポートには、最優良の成績が与えられた。



 *おわり*

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