帰還、そして娘は旅立つ(最終話)
そこは「現実」と言う名の実存世界の一つ。
そしてヴィル・ヘムの女は帰還した。燐光を放つリュミエンヌの横たわるベッドの上に。
彼女はさなぎから羽化する蝶のようにリュミエンヌの中から起き上がると、寝室の中はエメラルドグリーンの乱舞する光の中に妖精のような全裸の姿が妖しく浮かび上がる。
唐突に光が失せる。深い闇が訪れる。ヴィル・ヘムの女は横たわるリュミエンヌのかぶさるように屈みこむ。彼女がのぞき込むリュミエンヌにはロゴスに暴行された跡はほとんど残っていない。
青黒いあざはすっかり腫れも引き、打撲の跡も見当たらない。
明日の朝を迎えるころにはすっかり元通りに回復しているに違いない。
ヴィル・ヘムの女は自身の顔をリュミエンヌの顔に近づける。
安らかな寝息を立てる彼女の口に指を添え、口の中を覗き込む。
折れたり欠けていた歯は一本も見当たらない。切れた唇は傷も消え、色よくピンク色に染まった可憐な花びらのようだった。
それを眺めるヴィル・ヘムの女は不意にリュミエンヌのそれに唇を重ねる。もう会うことはないかもしれない。そんな思いが彼女にそんな行動をとらせたのかもしれない。あなたがここから旅立つ日も近い、裸の肢体を重ねる彼女の瞳には別れを惜しむ哀惜の情が浮かんでいた。
あなたはいつまでも変わらない、そんな永遠の美の世界はやがてあなたにとっては無限の煉獄に繋がれる事になるのかもしれない。そんな世界をあなたに与えたのは私。いつかそんな私を恨むかもしれない。
ヴィル・ヘムの女はリュミエンヌを抱き、その身体を一つにしてベッドに重なるとやがて静かに寝息を立て始める。彼女は久しぶりに少女の夢を見る。薬の助けを借りない恐れも震えもない夜はいつの事だったろう。今またそんな夜が訪れた今夜は朝までこのまま、このままでいよう。
今晩だけは、そう今晩だけ…。
翌朝のこと、ヴィル・ヘムの女とリュミエンヌ、そしてノワールの三人はロゴスの用意した馬を仕立てて遠乗りに出た。
無論、馬さえも現実ではない。ヴィル・ヘムの内部に設けられた仮想の世界に遊ぶ。そこは実際の草原と変わらぬ光景が広がっていて上等の乗馬服に着替えた二人は存分にそのひと時を楽しんだ。
二人は歓声を上げる。その後ろをノワールが追いかけているが遅れ気味。まだ人の姿を取って間もない彼は手綱さばきもぎこちない。彼女たちは笑ってノワールの馬を引き離し、やがて彼女らは二人きりで泉の近くで休息する事にした。
肩を並べた二人は木陰に座って用意した水筒の水を交代で代わる代わる飲んだ。
二人の馬も泉に口をつけ、そののどを潤している。安らかなひと時、昨夜のことが嘘のようだ。
「ノワールはどこかしら?」
さあ、どこかでサボっているんじゃない。二人は顔を見合わせる。自然に笑みがこぼれてくる。それは少女の笑み。無邪気であどけない。子供に戻ったよう。
やがてどちらともなく語りだす。取り留めもない話ばかりだったが、リュミエンヌはヴィル・ヘムの女に尋ねてみた。
あなたはここにずっと留まる気なのね、その命が尽きる日まで、ノワールと一緒に二人きり…。
そう、それは継承者の義務でもあるわ。私はそれを受け入れる。
水面を見詰め、静かに答える彼女には何のてらいもない。
その言葉に嘘はない。でも、言ってみるリュミエンヌ。
「あなた彼と寝たでしょ」
ハッとするヴィル・ヘムの女は黙ったまま答えない。
彼とはノワールの事だ。彼女は頷く。彼女の頬が染まる。
それはリュミエンヌも同じだった。言葉が続かない。
「彼は…ここにいないとその姿を保てないから…」
私は今のノワールと一緒にいたいからここの暮らしを選ぶの。
実体を伴う彼に惹かれた彼女はたちまちに恋に落ちた。
従者とその主というような概念上の”主従”関係ではない。初めての男と女の関係に至ることに、二人はようやく気付いたのだ。
たくましい若者と大人びた少女が肌を重ねるのにそう時間はかからなかった。初めての夜は二人にとって忘れることはできない体験だった。
「そういうことだったんだ」
リュミエンヌはあえて声に出した。
それは初めて本気なヴィル・ヘムの女の本音を聞いたと思ったからだ。
彼女は孤独じゃないんだ。だから彼女はここでの暮らしを選んだのだろう。その気持ちはリュミエンヌにも共感できた。
自分だって立場が違えばそうしていただろう。そう思うと心の奥がチリチリとする。嫉妬かやっかみか、リュミエンヌにはまだよく分からなかったが、彼女がその一線を踏み出したのだということは理解した。
「私は、わたしは彼の子供が欲しい」
思いつめる彼女の、その一言で十分だった。
ああ、きっと授かるわ。私が保証する。
そしてリュミエンヌは不意に思った。 わたしは誰かの子を宿すことが出来るのだろうか?
何だか幸せな気分になった。
リュミエンヌは街道道を一人行く。
まっすぐ伸びたその道は果てしなく遠い。
ヴィル・ヘムも今は遠い。
”玄関”の扉の前でヴィル・ヘムの人たちと別れを告げる。
ヴィル・ヘムの女、いや今はリュミエンヌと呼びたい。
彼女と肩を並べ、そっと寄り添うノワール。お幸せに…。
別れ際に”母さんをお願い”の一言が胸を突く。
いつか本当の事を母に告げる日も来るだろう。
彼女は賢い人だ。
ロゴスは相変わらずの慇懃さで腹の内を見せないポーカーフェイスだ。あんな事があったんだ詫びの一言ぐらいと思ったが、それは止めた。なんだかんだと言いながら奴はイイ人だった。そういうことにしておこう。
本音は厄介払いが出来たと思っているのだろうが、それをおくびにも出さない。よい旅をと挨拶も怠らない。それを彼の”善意の証”と思うことにする。執事の鑑。
そのロゴスの傍らに見慣れぬ一人の女性が立っている。誰だろうと思っていると彼女はペネロペ(!)と名乗った。代わりの呪式を立ち上げたのだろう。小太りな体にぴったりとした宮廷装束の彼女が大柄なロゴスと並ぶ姿はユーモラスで、なんとなく笑えてしまう。
リュミエンヌが見知っている洗練された美貌の彼女とは違い、ふくよかで気のいい笑顔を満面に浮かべ、その親し気な容姿はきっと誰とでもうまくやっていけるだろう。
彼らはこの後どうするのだろうか?きっと彼女の事だ、辺境の「未踏の果て」を目指す旅にでも出るのだろう。
リュミエンヌの目の前でその巨大な立方体は忽然と姿を消した。跡には何も残さない。街道近くに転移してくれたせいで本街道にもすぐに合流できたわ。ありがとう。
その道すがら、季節の変わり目を実感することになる。目の前の街道沿いにキュラクシアの樹に花が咲き誇り花街道というべき光景が広がっている。ということは最初にヴィル・ヘムに訪れた晩秋の頃から4か月以上は経ったということだ。
今は春が近い。吹く風にはらはらと舞い落ちるキュラクシアの花は、極彩色の一輪単位でも大きな花びらで知られている。いにしえの魔法樹を品種改良したと言われているその花は降り積もると絨毯のように道を覆うことでも知られていた。
リュミエンヌは立ち止まるとその道に降り積もる花びらを両手ですくいあげてみる。彼女の手のひらから零れ落ちんばかりの花弁の塊は春の息吹を教えてくれる鮮やかさで、リュミエンヌはその花びらに顔に近づけて匂いを嗅ぐ。ほのかな香りが匂い立つその花びらにふっと息を吹きかける。
吹き上げられたその花弁はリュミエンヌの手から湧き出すようにこぼれでる。幾十枚、幾百枚と吹き上げる花びらの噴水は尽きることもなく初春の空に舞い広がっていった。それはきれいな空。
そしてそれはリュミエンヌがその身に宿す新しい力の発現でもあった。再生と復元をつかさどるその力は、リュミエンヌを新たな冒険の日々に誘うことになる。
”黒衣の探索者”リュミエンヌは降りしきる花の渦の中を歩み出る。
こころは宙(そら)の中、自由は手の中にある。
「リュミエンヌ」完
リュミエンヌ 真砂 郭 @masa_78656
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