B4F:おくそこ、そしてでぐちへ


 一人の少女が手紙をもって、ぐるぐるぐるぐるぐると、ひたすら階段を降りていく。トンビが羽ばたきもせず、空を旋回するように、少女はこの階段を降り続ける。もう慣れたもので、階段を降りることの戦慄や動揺が、その心に灯ることはない。

 普通であれば怖いだろう。その先に何が待ち受けているかも分からぬ闇を、相応の速さで降りていくのは。しかし右足も左足も均等な一歩で、倦まず弛まず彼女は潜ってゆく。その様子はそこに傍観者がいたなら、彼女がずっと動き続けている最中に、眼を離すことができないだろう。「永遠に見ていられる」、人はこれを美しく眺める。

 ひとつ付け加えるならば、少女は“思索”をしていた。それは逃避や妄想などではないか?否、類例されたような軽薄な思念は、そこに見いだせない。邪推や勘定のようなものか?否、例挙されたもののような汚泥は、そこに認められない。終焉など存在せぬかのような、この一本道の階段を降りる中で、彼女は三人の妖精の言ったことをそれぞれ考察したのだ。それは確かに思索だ。

 あちらへ行けばこちらへぶつかり、進めど退けどまたぶつかる。建造された狭い壁に、正義の球体が反射する様子は、見ていてあまり美しくない。今駆けているように、全三六〇度の円を巨大に描く階段なら、ある程度千鳥足であろうとも、壁にぶつかることもなく、勇往邁進を継続できるのに。

 ガイドはまた少し、忸怩たる思いを禁じえなかった。螺旋階段は単純・単調であるがゆえに、彼女に思考の余地を与えた。だが、その思考の中に、彼女を閉じ込めてしまったのではないか。現実はそれほど単純にできていない。いざこの環境で、彼女が頼りに選んだものが、この手に握られた便なのであった。

「結局、正義とは何のことだったのでしょう。私は三人の妖精さんのことばを聞いて、すっかり分からなくなってしまいましたわ。どの妖精さんの言うことも、正しいように感じるし、この中のどれか一つを選ぶことは、途方もないことのように感じてしまうのです。ここまでの話をまとめてちょうだい、ガイドさん。」

最初に出会ってから、このガイドはてんで当てにならないとユースティアは思っていた。この時だって本当は話半分で呼びかけただけだった。だが、少女に携えられた、便箋と包み紙でできた、小さな兄貴分は、今までもそうだったらよかったのに、この時初めてこの内容の、少女の呼びかけにノリ良く応じた。


「ふん、じゃあつまり、こういうまとめ方はどうだ。最初のてんびん、真中のたいまつ、それから最後のつるぎは、それぞれ見通すとこんな感じだ。

てんびんは“正義”の対極に“悪”、邪悪なことを置いた。だから何かを悪であると、決めつけるのがかわいそうだから、正義の反対はまた別の正義と表現して言ったんだ。

たいまつは“正義”の対極に“異”、不同とか差異ってものを置いたんだ。あいつにとって正義ってのは、自分からの距離を測った後にあるものだからな。

つるぎは“正義”の対極に“誤”を置いたのさ。つまり、誤謬とか錯覚だ。あいつらの考え方は霊と肉の二つに分ける考え方、内面的なことに対しての、物理的な考え方を比較しているんだ。」

少女はその理路整然とした述懐に得心し、唖然とした。何かの物事を解釈するときの一つに“背理法”という考え方があるが、ガイドのとった手法では、哲学的な要素の違いについて強調しつつ並べつつ、三者を白日の下に晒してみせたのだ。

「ガイドさん、あなたそんな考え方ができるのね。私少し感動しちゃったわ。」

「えー、それ今まで尊敬されてなかったような言い方じゃねーか。ここまで二人三脚で歩いてきたのに。“連れ”なんだろ、俺ら。」

名宛なあても書かれていないと言うのに、のり付けもされていないのに。この手紙の小生意気なことは、思わず少女も笑ってしまった。


「歩いているのは私だけよ、あなたは運ばれてるだけです~」

いじわるく突っぱねた少女は、それでもこの小さな信書に、憧憬のような、絆のような信頼関係を抱き始めていた。だが、どれほど情を傾けようと、惜別の時は来たるだろう。この洞窟の深淵に待つ人物に、手紙を渡しさえすれば、この仕事は終わる。

 であればこれから先は、そう簡単に誰かが分別して皿に取り寄せることはない。実際の経験に従って、何が正義でその後どうなるかを、その都度、適切に処置していかなければならないのだ。ガイドに頼らず、むしろ誰かに自分が、このガイドを超える手引書、哲学の見取り図を書き記しておくくらいでなければ、生い茂るシダやイネの藪の中に、困り顔で迷っている誰かは遭難して倒れてしまうのかもしれない。それは誰だ、自分か?

「もしお母さんの言いつけを守って、妖精さんたちと話すこともなく、まっすぐにこの階段を降り続けていたなら、これほどもやもやとすることもなかったのかしら?ガイドさんのまさかの解説は、とっても私を助けてくれたと言えるけれど、それでもとても難しいわ。これから立ち込める夜の霧を想定し始めれば、それはもっとキリのないことだわ。どんどんと形を変えるならば、いっそのこと考えなければ…」

「いいや、必ずしもそうじゃないだろう。きっとお嬢ちゃんは、このお使いが終わった後、どこかで必ず、少しは疑問に衝突することがあったはずだ。それが前もって、あんまり一篇に来ちまったもんだから、少し混乱しているだけさ。それにお前のお母さんは、妖精と話をするな、なんて一言も言ってなかっただろう?」

おや、とユースティアは振り返った。私を見送った時、お母さんは何と言ったのだっけ?お母さんは言っていた。「妖精と長話をしすぎてはいけないよ。」


 翻って顧みれば、階段を降りてきた少女は、今は何時ぐらいなのだろうかと、この時初めて思った。

 あまりに同じ風景がずっと続いていた為に、少女の時間感覚はとっくに麻痺していた。もしそれを踏まえて立ち止まったなら、足は痙攣しているし、体はもっと痩せていそうだし、服はその型が既に崩れている気もする。

 これほど暗くて静かな場所が、この世界にいくつあるのだろう。いったいどれくらい深く潜ったのだろうかと、少女は訝しんだが、ガイドは職責を果たそうとしない。

 なぜ私だけがここにいるの。この静かな暗闇の中に。私は振り返ることを恐れている?入口に立つのは、愛する父さんと母さんだ。私は病弱で、されど従順に付き従うから…

 ひょっとすると、自分は遠ざけられたのか。架空の届け先をこしらえて。


「ねえ、ガイドさん。私はこのお使いを“全う”できるかしら。」

「どうしたんだ、藪から棒に戻ってきて。だが、階段の底にいる“長老様”に会わねーことには終わんねえよ。」

ガイドはもう、少女の頭の中の考えを読んではいなかった。いいや、読むことをやめていた。彼自身も少し疲れていたからだが、そんなことより、何か話したいことがあったなら、彼女の口からその考えを聞きたいと思ったからだ。

「違うわ。それで終わりじゃないのよ。」

と、思わず口から零れた言葉を吟味して、少女は言い直した。

「終わらせようという話じゃないの。“全うする”ということは。例えるなら、一人の人間が、その人生を全うすることと、終わらせることって違うと思うわ。途中で投げ出しても、自分のお仕事を引き継ぐ人がいる前提なら、『その人に任せて終わり』、という言葉を使うことができるでしょ?

 じゃあ、私のお使いの中で、“全うする”ってどういうことかしら?って考えちゃったの。」

ガイドは冷やかしも言わず、じっと聞き入っている。娘は一生懸命に言葉を選んで、繋いで、言葉に表そうとした。

「私は、このお使いの中で、いくつかの新しい考え方に触れたわ。だから、今やりたいことは、お家に帰って、お父さんやお母さんとこの話を、一緒に、考えてみる事なの。だから、」

均質な速度で降下していた少女は、どんどんとその速度を上げた。連続する階段はいま、反比例してどんどんとその尾を縮めていき、ついに…


「家に帰るまでが、私の定義した私のお使い、なんだと思う。」


 とっ、と階段が終わった。そこは終着駅で、階段はもうその下にはなかった。そこも部屋のようになっていたが、まるで石の牢獄か古い城のようになっていて、それまで見てきたこの洞窟の部屋の中で、一番自然だった。牢など気味の悪い不動産の代表選手であるように思うが、眼に訴えかけてくる主張が大人しかったので、ユースティアはここではむしろ落ち着いていた。

 彼女は辺りを見回し、穴の底にいるという、御長老らしき人物を探ったが、ここに誰かが住んでいるとは到底考えられなかった。かつて図鑑で見た、蝙蝠や深海魚のような、暗がりで生きる寂しがり屋でもない限りは。入るときに黄昏の部屋のような明るさだったその階段は、新月の夜と言ってよいほどの暗さで、通常の人物ならば転倒や滑落の危難から、僅かな一歩も踏み出すべきではない。これは宵闇に眼の慣れてしまった、天から降りてきた使いになせる、個人的な芸当だろう。

 最も、建造物の最奥にあっては明るすぎるくらいなので、屁理屈のような例噺であることに変わりはない。上を見上げれば、延々と続く階段の果てに、もはや衣服の縫い穴ほどの光さえもないのであった。これは明らかに、洞窟に人外的な魔法がかけられていた。明るすぎるのだ。

「さすがに暗すぎるだろ。お前ランタンかなにか携えておけよ。化け物か何か出るかもしれん。」

「ねえガイドさん、あなたは、自分が渡される人のことを知っているのでしょう?悪い人ではないかもって、あなたが言ったんだから、もしそこに共棲するほかの生き物がいても、私たちに危害を加えてくることはないんじゃなくって?」

「……。」

「それにしても暗すぎって、私にしては明るすぎるように思うわ。本当なら、“目隠しをされてもいい”くらいに。ここはどこなの、なんてあなたに訊いてもいいのかしら。」

「いや、いいから点けろ。手紙である俺からしたら、文字を読めないくらいの暗さは、暗すぎるんだよ。ほら、その背中に背負った着火石と、ランタンでさ、部屋を照らしてくれよ。」


 カチッ、カチッと石を鳴らした。幼きユースティアはこれまで、火打石を扱ったことがなかったので、灯り火が点くよりも先に、幾度もため息をついた。また何度も指の肉を叩いて、白い指から血が滴った。本来であればこの洞穴の主に任せたい処であったが、ガイドのどうしてもと頼み込む様子が、あまりに真剣で、むしろどこか苦しみさえ感じる様子だったので、長老探しを後に回し、健気に火を起こすことにした。ただその不器用さが幸いして、最初に出た小さすぎる火花が、彼女の闇に親しんだ眼を傷つけることはなかった。

 しばらく緑色の幻を、幽谷に泳がせた後、おおよそのコツを掴んだ彼女は、何度かそのカチッを繰り返すうちに、ろうそくに火を咲かせることができた。ガイドは、よく頑張った、偉いぞ、これはお嬢ちゃんじゃなく立派なお姐さんだ、などと柄にもない褒め方をして、ユースティアを称えた。これがそんなに重要なことだろうか。


「で、これでその渡す人を探せばいいの?」

少女は書簡に尋ねた。ここにしばし沈黙が流れる。何やらただ事ではない気配を察して、少女は待った。信書の思考を検閲することなく待った。それがガイドを一層、話の切り出しを困難にさせて、部屋には狼狽ばかりが募った。部屋があまりに静かだったから、心臓の音が自分の中に反響するかのような、競り上がってくるような、そのような感覚が二人を襲った。思案に思案を重ねて、やっとのことでガイドは腹を据え、怯え乍ら話を始めた。

「ユースティア、正義の淑女よ。よくよく、落ち着いて聞いてくれ。お前のお父さんはこの俺を、お前に宛てて書いたんだ。読ませようとした相手は、お前なんだ。」

「えっ。」

「だからこの洞穴の中で、お前がどれほど長老とやらを探しても、ここにはいないんだ。あっちの部屋を探しても、こっちの部屋を探しても、お前が誰かにぶつかることはないんだよ。ここにはお前と、俺しかいないんだ。」

「ど、どういうこと。“渡し主”が私って、あ、あなたってコメディアンなの。」

「いいか、俺を開いて、お前が読むんだ、ユースティア。お前の目と、お前の頭で。それで、俺がお前の父さんから預かった、お前への仕事はすべて終わる。」

緊張から一気に喋ったガイドは、はっきりと震えているのが分かった。いつか感じたような、堪え嗤いをしているような震えではなかった。それは何かの感情が彼に絡みついて恐れているような震え方だ。ユースティアはこのガイドを開いて、ランタンをたぐり寄せて、読み始めた。

「ちいさな ユースティアへ


 あなたは もしかしたら、 もう おとうさんと おかあさんに あうことは 

 ないのかも しれません。 あなたの ことを おとなに なるまで そだてる

 ことが できないかも しれず、 とても ざんねんです。

 

 いま ちじょうの、 おうちの ちかくでは おおきな おおきな せんそうが

 はじまって、 もう すぐそこまで、 へいたいたちが やってきています。

 それだけではなく、 おとうさんも おかあさんも しょくにんとして、

 おくにのために はたらくことに なってしまいました。 おうちの ちかくで、

 てきを やっつける ぶきの けんきゅうです。 そうなったら、 おとうさんも

 おかあさんも、 まっさきに ねらわれます。 あなただけでも いきのびて

 ほしくて、 くらい あなの なかに はいって もらいました。 

 これは まちがって いるのでしょう ごめんね ごめんね


 これは てびきしょです。 かいだんから みて 

 12じに あるのが しょくりょうこ。 かんづめ おみず たくさんあります。

 9じに あるのが ねんりょうこ。 あかりを こわけに しているけれど、

 は ぜったいに その そとで もやして。

 3じに あるのが ねどこです。 じけつの はものも あるので たしかめて。

 まほうを かけて おいたので、 ユースティアが おばあさんの としに

 なるまでは、 このてがみは いきているので はなしかけなさい。

 いっぱい いっぱい おはなし してください。        

                         とうさん かあさん より」

叫ぶしかなかった。多くの人々が正義の人になりたいと願いながら、罪を作っては消えてゆくのである。ユースティアは病弱だが賢かった。心はずっと強く育った。どうしてこうなったかなんて関係なしに、これからどうすればよいか、前に進むための力を渇望した。

 それが新しくできる傷を癒すなら、罪人を贖うことができるなら、もう迷いなんてしない。降りて来た階段を、駆け上った。

「ああ、ガイド!お願い、どうかお父様と、お母様を助けて!」

「そうだな、それを選ぶんだな、よし。-まかせろ!」

ガイドは紙飛行機に姿を変え、階段の吹き抜けを一直線に飛んだ。少女は自分の足で歩くほか無かったが、それはたとえ遅くとも、彼女が前進をやめない限り、止まることはない。誰であってもみなが持っている、この偉大なる歩みを。



 すっかり灰が降り積もった、かつて森があった山肌のかげに、ひっそりと丸屋根があった。そこから屋根を持ち上げて、はい出てきた少女が、力尽きて仰向けに倒れた。しばらくすると、紙飛行機に導かれた二人が駆け寄ってきて、目を腫らしながら少女を抱いた。

「ごめんなさい…私が、外へ出てきてしまったら、せっかくのシェルターも台無しでしょう。お父さん、お母さん、これほどまで愛してくれていたのに、言いつけを守れなかった、悪い悪い私を、許し、て。」

「何を言っているんだい、お前は私達の娘じゃないか!我が子を愛しいと思わぬ親が、この世界にいるものですか!あの日産湯の中で泣く、赦しも、慈しみも、みんな、教えてくれたんだ。」

父が肩をぎゅっと握った。力が込められすぎて痛いくらいに。そして母もまた、娘の組まれた土色の手をぎゅっと握った。包み込んだ手は暖かく、まるで最初から人間が、手と手を取り合うためにその形へ進化してきたようだった。母は何も言わなかった。それは言葉にならないほどの慈悲深い愛が、心の中で渦巻いていたからである。


 ユースティアは泣いた。過ぎ去りゆく夕刻の中で、自らが子として、彼らを親として、巡り合えたことの運命の、意義の大きさと深さに泣いた。そうして崩れ去り、圧し潰された泣き声の先にも、きっと、きっと、誰かの家族があって、人類は螺旋階段のように、繰り返し愛し合っていく。一段一段を刻むように、愛がそのきざはしを形作るなら、神よ、人類が巡り歩いているこの螺旋の塔を、あなたが建てたのですか。誰が建てたのですか。

 教えてください、私たちの創り主よ。

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まいごのまいごのユースティア 繕光橋 加(ぜんこうばし くわう) @nazze11

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