B3F:つるぎ

 少女は悶々と頭を悩ませ続ける。彼女は優しい父や母に育てられ、病弱でも満足に生きてきたが、それが別の誰かの正義を妨げてしまったことがあったのか。用水路にかかる靄のような、鬱屈とした煙が立ち込めていて、それは人間の暮らしから生まれた筈なのに、何やら汚らしい感じがするのだ。幸せの形を隠してしまうからだろうか。片隅に草花が咲いてはいまいか。この幸せを分け合うことはできないか。

 与えられたものと与えるもの、見えてこなかった抽象的な正義の姿を、いざ追いかけ探し始めたなら、そこに在る筈の物が見えない事が、これ程までに辛い事だったなんて。

 階段を下りながら、長い間そんなことを考えていると、煩わしがったガイドが不平を言った。どうせまた考えを読んだのだろう。

「ああもう!何お前はになってんだよ。そんなんじゃお使いにならねーよ。考えるのはいいけどな、せめて明るい顔をして歩け。別に松明の野郎は、お前に悲しい顔しろ、なんて恥ずかしい事言ってねーだろ。明るくお歌でも歌ってだな…!

…うん?歌?」

 歌だ。階段にかすかな歌が響いていた。また部屋があるのかと思って、少女も手紙も辺りを見たが、どうやら近くにはない。それはずっと遠くから聞こえてくるようで、ユースティアは歌の出処を探るべく、階段を急降下していった。今度は歌う妖精か。これは何かの罠か、などという卑屈な推測を立てるには、彼女は純潔すぎた。急いでぐるぐると階段を下りてゆくほどに、どんどん歌声は大きくなった。


 見つけた。妖精をではない。遥か下方に既に部屋を見つけたのだ。想定の倍は長い階段を下り、いざ部屋に辿り着けば、それがどれほど異常かがよく分かった。

「う、うるさい…。蛙何百匹分?」

「あぁやめさせよう、体に毒だ。」

 音階に際立った粗相はないが、期待を裏切る非幻想さだ。その音量は猖獗を極め、田舎娘のユースティアには、とても辛抱しかねるものだった。妖精はやはり部屋の主よろしく、中央の小卓の上にいたのだが、自分の体でガツガツと叩いて、音頭を取っていたので、卓は酷く傷だらけだった。声を掛けようと近づいたが、流石に部外者の訪問に気付いたらしく、気配を察して歌をやめ、こちらの方を見た。

 それはつるぎの形をしていた。だが、我々が剣と呼んで思いつくそれとは、何となく形が違った。その最も大きな差異は、そのつるぎには切っ先がなかったのだ。

「あぁなるほど、アイツは剣の形をしてはいるが、おそらく“祭具”なんだろう。」

言われてみれば、遠目に見るとそれは十字架のようで、厳かな佇まいをしていた。彫刻の様に窪んでしまった卓は、元は純白の塗装がされていたらしく、祭壇のような上品さが、側面に見え隠れしていた。

「ヨ?どういったご用件で?吾輩が歌っていても、君達が上か下かに通り過ぎて行くのに、何か不満がありますですか。」

「それにしたって、あまりに音が大きすぎるわ。」

「歌いたいのだから仕方がない。歌はいい、この闇から湧いて出てきて、尽きることなく吾輩を魅了する。まさに至れり尽くせり…ああ、まだ歌い足りない。」

恍惚とした様子で、台上の刃がしなった。確かに歌は我々を酔わす事もあるだろうが、そこはこの妖精にしか分からぬ、感情の騒めきがあるのだろう。だがそのまま看過してしまえば、こちらの鼓膜が、もう二度と他の歌も寄せ付けなくなるのは時間の問題だった。

「あの、歌を歌うことが好きなのね!素敵だと思うわ。でも良かったら、一緒にお話をしましょうよ。そうそう、素敵な部屋じゃない?なんというか…」

急いでユースティアは会話をぶつけ、今にも歌い出したいつるぎを牽制した。


 その部屋は、床全体が蛍光色の様に薄く輝いていた。それは階段からも広く確認することができた。石を煉瓦上に積み上げた壁が、入り口側半分から、台形を折り曲げたように向こうへ伸びて、まるで山の峰だった。それでいて天井はない。外の階段と同じように、ただ黒い虚無が空を支配して、今降りてきた階段が蔦のように端へ端へと続く。ああ、二人はあそこをずっと下りて来たんだ、などと感慨に耽ることはできないだろう。こう見返せば、階段はこの大きな空洞の唯一の足場にしては細すぎて、頼りなく思えてきたのだ。

「で、なんで天井や、頑強な壁がないんだ。あまりに陽気すぎやしないかい?そんな大音声で歌ったら、ここを通る奴らに迷惑だろ。」

「失礼だヨう、人を捕まえて迷惑と言うのは。誰も通らないと思ったヨ。まあ君たちが来たんだけれど。じゃあ君たちはこの景色を俯瞰して、誰かが通ると思うかい。」

「それは御もっともだが。」

「だから天井なんて消してしまったヨ、あっちの世界に。吾輩は開放的な所で歌いたかった、いやむしろ、閉鎖的な場所が嫌だったんだ。」

「ねーよ、それはねーよ。何だ、消しちゃったって。」


 からからとつるぎは無邪気に笑った。屈託のない笑顔とはこういう事を言うのだろう。このつるぎは笑顔の出し惜しみをしなかった。そんな笑顔を見ていると、ユースティアは自縛する苦悩と、妖精の能天気さとの狭間に、高低の差のような物を見てしまった気がして、自分が嫌になった。際立った彼女の人格に、妥協の二文字が割って入る余地はなかった。

「ねえ、あなたは何か悩みはないかしら?私は正義を巡って、殺伐とした考えに取り付かれているのだけれど、もしあなたも今は妖精で、かつて人間だったなら、知恵を貸して下さい。今この悩みが、私を掴んで離さないの。」

「正義?持ち合わせていないヨ。吾輩は生きている限りに於いて感情に振り回されるからだ。正義は、感情に流されることなく、正しい行いを守り通した人々が、手にすることができる美徳ヨ。」


 つるぎは話を続けた。刀身を傾けて、舞踊のように回転しながら喋るので、器用な奴だ、俺にもできないかなとガイドは思った。するといつかとは反対に、今度はユースティアがぷるぷると震え出したので、ガイドは嫌な汗をかいた。

「正義が振りかざされるのは避けるべきだ。個から正義は取り上げろ、ある時は神に、ある時は行政に。社会によって正義の剣は振るわれるべき。とはいっても、何をするかを人に強いよと、社会に言っているのではない。そんな世界は恐ろしい。『何をしてはいけないか』、それをこそ社会正義が決定しなさい。法律だってそうだろう。そうやってで、あの複雑怪奇な細則が決まったじゃないか。これをしなけりゃ罰金だ、あれをしなくても罰金だ。」

 多数決という言葉に、少女は恐れの色を見せた。この階に向かっていた時の悩みと、どこか似た論題テーマを感じた。

「じゃあ『何をするべきか』、これを誰が決めるんだい?それは自然人が、自分自身に課す必要がある。だからその為に宗教があるんだろう?7時に起きねば遅刻するところを8時に起きたら正義じゃない。でも5時に自分で起きてきて、しかも花に水を遣ったなら、お前の父さん母さんも、その一日の始まりは、何となく爽やかなものだ。これが個人の管轄範囲に、すべきことを定めた“愛”の作用なんだ。」

またズキリと胸が痛んだ。愛しい父さんと母さん。私は何をしてあげれただろう。こうしてお使いをしているけれど、二人は何を思うだろう。


「吾輩たち自然人のできる事は、個々に正義を所有することではなく、既に存在する一つの正義を、参照することだけなのだ。」

苛烈、その一言だった。まさしく“神の物は神へ、皇帝の物は皇帝へ”か。人生をどんなふうにデザインして、その魂を神に持って帰りたいかは、誰しも一度は考えるだろう。それなら私はこの魂を、他者を裁く事以上に、他者を慈しむ事に使いたい、そうユースティアは思った。

「やはり吾輩は乱暴なのかなあ。部屋を散らかしてはいないけれど、歌に捧げるために、壁をこんなにしてしまって。」

「いいえ、やっぱりあなたは優しいわ。ずっと持ち手の方を上に向けているんだもの。もしあなたが、が自分にとっての上体で、刃を下だと思っているのなら、きっとあなたの中の理性が感情の隙間から、あなたにそうしろと囁いているのね。」

 つるぎは何も答えなかった。それは分からないからではなく、小さな少女によるあまりの鮮やかな斬り込みに、照れてしまったからである。

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