B2F:たいまつ

 少女は意気揚々と階段を駆け下りる。なんだか少し自分は頭がよくなった気がしたのだ。ユースティアの人生の中にはまだ、それほどたくさんの登場人物が現れてはいないので、彼女の自分と比較する人物と言えば彼女の両親のみなのだが、それでも尊敬する両親に一歩近づくことができたようで誇らしかった。

「最初は、不安だったけれど。」

ユースティアは軽く息を乱しながらガイドに言った。

「よかったわ。すこしでもお父さんとお母さんの、心の中が分かったような気がして。大人ってきっと、こういう考えをまとめながら、気持ちを整えていくんだわ。」

「まあ、そりゃそうだ。でもお前が大人の階段をひとつ登ったことに、俺は今不安になっている。」

ガイドは賛同したが、それにしてもユースティアは元気が良すぎた。少女が小走りで降りるため、自分をあおる風が強くなったことがなかんずく不安であった。機嫌がいいのは結構だが、このままこの娘は自分を落とすのではないかと、細かく揺れるのが大変心地悪かった。当のユースティアはガイドの不安に気づきもせず、その幼い可愛らしい顔に、溢れんばかりの笑顔をしたため、階段を下っていく。

「あー、あー、そんなに急ぐなよ。絶対に落とすなよ、俺を。おい、嬢ちゃん聞いてる!?嬢ちゃん。ねえ、安全に降りような!」

 ようやく勢いが収まると、身を強張らせていたガイドも気を許した。しっかりしているように見えて、幼い部分もまだ多く残す。まだまだ先が長く、疲れることが分かっていても、時には気が急いて、その歩調が速くなることもある。好ましいことではないか。

 回り続けて更にしばらく往くと、また部屋があった。今度はそのわずかな空間のズレに気が付いて、ユースティアは4段も上からぴょーんと飛び降りた。例に漏れず握られた手紙はわめいたが、少女はおかまいなしに部屋を見回した。また新しい妖精がいると思ったからだ。


 果たして妖精はいた。その部屋は3つで1つの正方形にまとめられた床板が、ニス塗りでつるつるに仕上げられ、奥へずっと敷き詰められていた。その上には大きな黒い板が吊るしてかけられていて、縦に長い部屋だ。そしてなにより、地下であるにも関わらず、格子状の窓が側面に並び、丁度夕暮れ時のように暗かった。部屋の中は外より明るかった。この規則正しく角ばったような空間の内側の中央に、陣取っているのか、佇んでいるのか、暖色の光がぼんやりと浮いていた。

「ガイドさん、あれ…」

「ああ、今回は“たいまつ”みたいだな。」

 そのたいまつは、部屋全体を照らすほど強い光で照らしたのではない。やはり小さい玩具にすぎなかった…と言えばそれまでなのだが、きっと誰かが、小さい子供が持つことを考えて、その手に合うように小さく造ったのではないかと、成長した少女は推し量った。だから、小さな子に話しかけるように、少女は優しく言った。

「こんにちは、小さい妖精さん。」


 すると、たいまつはこちらをゆっくりと振り返って、何やら思案に暮れていたのか、心ここに非ずと言った返事をした。

「むーー、、お客さん。こんにちは。」

「あなたは妖精さんですのね、何か考えごとですか。」

たいまつが見せた少々老けた様子に、ユースティアは一瞬呆けてしまったが、続けざまに妖精の発した言葉が、重々しい感じがしたので、一層面食らってしまった。

「む、は考えているのだ。人間はどのようにして、自らの正義を信じ、行動に表すのだろうと。むー、余は、答えの出ないほど散らかしてしまった、自分が憎い。憎い。」

ひょっとするとこの妖精は、私たちがここに来るまで、ずっと頭を悩ませていたのだろうか。そうすると、ひとつ前の妖精から教えてもらった事が、役に立つかもしれない。ガイドがユースティアの顔を見上げたときには、もう話し始めていた。ほんの善意のつもりで少女は紹介した。混沌とした部屋で会話したことを。さぞ暖かい知恵の光が、彼を包むことだろう。


 ところが、それは違うよと言わんばかりの表情をして、たいまつはうつむいた。

「むー、では問おう、人間さん。例えばここにひとりの商人がいて、彼を待つ客の為に、急いで乗り合い馬車を止め、商談の場へ向かおうとする。待たせていては申し訳ないと思い、手綱を持つ御者を、めいっぱい急かす。

 御者は正当に決められた道を通る必要がある。自ら法を越えたいとも思っていない。だが、あまりにも急かされるものだから、つい道を折れ、狭い道を通った。何度も何度も通るなと言われている狭隘な路地を、客の為と思って通り、巻き返して定刻に間に合わせることに成功した。だが、御者としての務めの範疇を違えた。御者自身、そうありたくなかったと、この客を降ろした後も、気に病んで仕事をすることになる。酷い時であれば、直ちに呼び止められ、この馬車は捜査局や周辺住民から叱責を食わされることになる。御者に味方する者はいない。馬車の抱える諸々の事情は知らぬことだからだ。御者は警察から、そうでなければ自責の念で自らを裁くだろう。

 正義と言っても、対象が変わればその方向性のあり方は変わるものだ。実際問題に照らしてこれでもまだ、お互いがそれぞれ手を引くことが正しいと言いながら、終わらない悲しみや憎しみを、『罪人つみびと個人の問題に帰結させよ』と仰るのか。これでは正義で自らを飾ることが、直接他者に“異なること”を強いてしまうのではないか。それは正義か。」


 入学したばかりの溌溂な学生が、自信の関心事を教授に尋ねたが、その専門的な返答の前に活気を失ってしまう所を見たことがあるだろうか。小娘は返す言葉がすぐに見つからず、口ごもりながら意気消沈した。

「…関係者みんなが、事情を考慮すれば…きっと乗客が、『余裕を持った段取りを組むことができなかった自分が悪い』と言って、助け船を出すのでは…」

「出すかもしれねえし、出さないかもしれねえよな。待たせてたんだからよ。」

ガイドは適当に横槍を挟んだが、少女は劣勢であったために、あえてつーんとそっぽを向いて、自分自身に言った。

「いいや、もし話を聞きさえすれば、周囲は誰の正義がより順当かを判断するでしょう。だから、ここそこが持つ正義の内容を踏まえての、聴聞と主張が重要なのよ。」

「いま、二つの論点が出た。一方は、断定しないように主張しろと。しかし、その主張の意味する所は少なくとも、『衝突先に改正を要求する』ことになる。ここで言う主張することと、振りかざすというのとでは、いったいどうやって区別するのか。

 他方は正義という要素は、話を聞く前と聞いた後、その時間と認識の流れの内で、月のように姿を変えるというのか。今日信じた正義が明日変わっているというのなら、余はいかにしてその正義の心を、自らの内に保存しようとするのだろうか。」


 決してたいまつは怒って喋ることはないのであったが、その滔滔とうとうと話す様子が、むしろ聞いている少女を怖がらせた。それでいて間違ったことは言っていないのだから、気圧されるのには充分だった。

「もしその正義の考察が正しければ、様々な正義がこの地を満たすのだろう。他者を尊ぶことは良いことだ。とはいえ、現実に現れてくる諸問題が解決されるようには見えない。正しい者が収監さるる悲劇もあれば、真犯人がどこ吹く風か、のうのうと生き延びる例は存在しないと断言できない。ここに余は、各人の正義を大切にできない。誰か傷つく人が出る。

 余は他者に正義を期待してゐる。そしてこれを信ずる。だからこそ、いずれ考えは議論の末、個たる正義が大いなる真理へと統合されることが望ましいと思う。他者を傷つける事を主張する正義が、どうどうといてはいけないことは、君も分かるだろう?そうやってある程度、各人の持つ正義は大きいものに置き換わってゆくのだと思う。」


「改めて尋ねよう。正義を相対的に捉える君は、正義のしもべであり続けることの重さと軽さに耐えられるか。むー」

「わ、分からないわ。正義って何かしら。」

「おい、もう行くぞユースティア。長居しすぎた。」

ガイドは多少強引にユースティアを引っ張って部屋から連れ出した。失礼にならないようにと挨拶をした淑女の眼には、相変わらず悩み続ける妖精が、不気味に光るばかりだった。

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