B1F:てんびん

 ユースティアは、じぶんが言った「いってきます」のことばを、口の中でころがすように、くりかえしくりかえし、となえました。なんとなく、うれしい気分がこみ上げてきます。

「いってきます、そしていってらっしゃいか…!

 うふふふ…!なんだかくすぐったい気がするものね。」

子どもらしい、にこやかな笑みをうかべて、かのじょはかいだんを下りていきました。するとどこからか、何かをよぶような声がきこえました。キョロキョロとあたりを見回しても、穴の中にいることを伝えるカベと、白黒のかいだんが見えるだけで、声の主は見えません。もういちど声をきこうと、おちついて耳をすませているとすぐ近くからきこえてきました。


「おーい、もしもし、

 もしもーし!おじょうさん!」


「きゃあ!!あなただーれ!?」


いきなりのことにびっくりしたユースティアは、ワンピースの外ヒモと、おなかの間にはさんでいた、お父さんのお手紙に目を下ろしました。小さな手がつかむ手紙には、目も口もありませんでしたが、さも当たり前のように話すので、むすめはぎょっとした目で見つめてしまいました。


「ったく、あんまり気分が良さそうだったので、声をかけずにそのままにしときたかったんんだがよ。だが下まで、まだものすごく道のりがあるから、今のうちに声をかけとかねーと、あとでタイミングをのがしちまうかもだし。」

「だってわたし、体が弱くて、お家にこもりきりだったのよ。

 今まで外に出ても、お家のまわりだけだったから、

 ここまではなれて外の世界を歩くの、はじめてなんですもの。

 あなた、しゃべれたのね… ものすごくビックリしたんだから。

 えっ、あなたは生きものなの?どうして言葉を話すことができるの?」

「おいおい、質問ぜめはよくないぜ。」

手紙は「やれやれ」とでも言いたげな声色で、身を反り返らせて答えた。



 お父さんの手紙は、自分のことを“ガイド”と名乗り、生きた手紙なんだ、と言った。それは、彼女のお父さんとお母さんが、お使いを彼女にたのんだときに、とくべつな魔法をかけて生まれた手紙だから、しゃべれるようになったんだ、と手紙はていねいに説明した。

 やはり、お父さんのお手伝いは、ただ手紙をわたすお使いではないのだろうか、とユースティアが不安がると、ガイドはすぐに言った。

「いいや、この先に待っているある人に、オレをわたせば、それでおしまいだろうよ。あとはまっすぐお家に帰りな。体の弱い女の子にできることは、ほかには何もないよ。」

「まあ、私をばかにして!」

と少女はほっぺたをふくらませたが、すぐに気づいた。彼女自身が、自分の体の弱さを一番よく分かっているのだ。

 思えばこの階段は、ぐるぐると先が見えないほど続いているし、小さな手をつかまらせたり、体をもたれたりするような手すりがない。おまけに女の子の足は枝のように細いので、この先に待っているであろうおじいさんへ、無事に手紙を渡すことができるだろうか。

「なんだ?心細くなったのか?」

うん、ちょっぴり、とうつむく彼女。手紙は勇気づけた。

「そんなことだろうと思って、お前のオトウサンはこのオレを、おしゃべりなやつにしたのさ。」



「どうしてこの階段は、こんなに深くなっても、まだ目が見えるのかしら?」

「さあ、ふしぎだね。暗くなると危ないからじゃない?」

 ガイドはユースティアの良き話し相手になったが、しかしアテにはならなかった。話題が世間的なことならば、ガイドは決まって「やれやれ」と子ども扱いをするように彼女に接した。ところが、お使いの内容についてたずねてみれば、彼はほとんど何も知らないのであった。

 そんなガイドが唯一、お使いについて教えてくれたのは、このことだった。

「私を待っている長老様って、どんな方かしら?会ってその人と分かるかしら?ご様子をお父さんは教えてくれなかったから…」

「うーん、まあ悪いヤツじゃあないと思うよ。多分ね。」


 ずっとずっと続いていくかに見えたこの風景だったが、ようやく平けた部屋に着いた。これも不思議なことだが、外からこの部屋は、それと気付かないように隠されていた。カメレオンが周りに溶けこむように、底に向かって続くであろう暗い穴を、その部屋の黒い天井は気取っていた。その階の数段上に着いて初めて、部屋の床やカベが見えて、異なる空間がそこにあると分かったのだ。

 一息つこうと、ユースティアは部屋に足を踏み入れた。階段に接する床やカベは、無機的なものだったが、部屋の中のカベは、見ているともう目が痛くなりそうだった。幼児が複数のクレヨンをもって、画用紙をぬったような、分からないデザインをしている。それが十八畳ほどの部屋の上下左右に張らられていたので、育ちの良い少女であっても、くもった表情を隠しきれなかった。

 ユースティアはこれまでずっと階段を下りてきたので、いざ部屋に立つと、なんだか自分の体が平面にいるのか、斜面にいるのか分からなくなって、くらくらとした。ひとまず落ち着こうとカベに手を当てていると、部屋の真ん中に、ポツンと台が置いてあることに気付いた。

「あれ、なにかしら?」

大人びて、かしこい少女だったが、どうやらまだ、子供らしいところも残っているようだ。疲れて部屋で休もうとしたはずなのに、好奇心の前には勝てず、台へ歩み寄った。台の上には小さい、おもちゃの“てんびん”が置いてあって、部屋は密閉されて風もなしに、かたむいたまま止まっていた。

「何も乗っていないのに、かたむいたままだなんて。きっと、こわれてしまっているのね。だれがいつから置いたのかしら。ねえ、ガイドさん。」

ガイドはうんともすんとも言わず、てんびんをじっと見ているようだった。珍しく静かなものだから、何だろうと少女もてんびんを見てみた。木でできているようにも見えるが、金のメッキをはった別の何かかもしれない。彼女の家の台所にあったのは、よくある木づくりの品だったはずだ。かたちを確認できるとはいえ、この部屋は夕方くらいの明るさなので、はたから見ただけでは材質は分からない。そんなことを考えていると、少女が見ている目の前で、さわられてもいないてんびんが、「自分の意思があるかのように」、スーッその両腕を水平に戻した。


「おお?」

「ユースティア、これがお前のお母さんが言っていた、妖精ってやつだ。」

ケケケケとてんびんは笑った。傷だと思っていた黒いくぼみがみるみる内にゆがみ、顔のようになった。ちっちゃい顔がパペットのように、顔をしかめたり、伸ばしたりしている。

 なるほど、命が吹き込まれてからその後で体は動き、命がなくなったら動かなくなるのか、とユースティアは思ったが、その考えの内容を悟ったかのように、ガイドが笑ってぷるぷるとしはじめた。

「何よ!もう!」

「え?何が?」

「頭の中、勝手に読まないでよね!」

「だってすげえアホ面だったから、何考えてるんだろうと思って…」

「きゃああ!!やっぱりあんた読めるのね!そうなのね!」


 てんびんは台の前でさわがしくもめる来客を尻目に、ごきげんに笑いながら部屋中をピョンピョン跳ねて回った。来客に心が踊っているのか、ユースティアよりいっそう幼い面持ちで体を動かす。そして何周か部屋を回った後、再び大きくジャンプして、そのままふわりとユースティアとガイドの前に浮いた。

「みゃ、客来た。みゃ。」

「どうも、はじめまして。」

「ん。どーも。」

 ユースティアは淑女レディらしく、片足を下げてつむじを傾けた。カチューシャが灰色の美しい髪をきっちり抑えて離さない。つままれたスカートさえ、遊ぶことなくしっとりと少女に従う。その姿はじつにまじめな娘だった。ガイドは投げやりに応じたが、少女の華やかなビンタを受けてから少しヘソを曲げていたのだ。

「こら、正しくごあいさつしなきゃだめでしょ!失礼の無いようにしなきゃ。

 私たちはいきなり部屋に入ってきちゃったわけだし、ごきげんをそこねて

 しまわないように…」

「ああ?いいんだよ。妖精はそういうので腹を立てたりしねぇよ。

 どうせ人間の作法なんて分からない、おつむの弱いやつらだよ。」

「何てことを言うの!ごめんなさいね、わたしの、連れが…」

小さな淑女は急いでおもちゃのてんびんに謝った。ガイドを指して何と呼べばいいのか分からなかったので、“連れ”と言ったのだが、なんだかぎこちない気がして、しかし友達というわけでもなかったから、困って妖精の方をちらりと見た。


「いいのら、気にしぃていないよ。」

おおらかな様子でてんびんは言った。間の抜けた声でゆっくりとしゃべるので、どんなに話し手が緊張しても、恐縮しても、確かに気に障ることはなさそうだった。

「人は人、自分は自分。自分を思い通りにできるのは自分だけ、です。あいさつひとつとってもね。ケケケ。ぼくが大昔、人間だった頃にも、そんなことが、ありまし、た。」

「ええっ。てんびんさんは昔、人間だったんですか。こんなすがたで…」

「それも失礼だろ。」

隙を見のがさず、鋭いツッコミを入れるガイドと、うろたえるユースティア。だが、この妖精の目にどう映ったかなど、知る由もないことだった。

「正しいと思っているのは自分だけかもしれない。『正義の反対はまた別の誰かの正義』~。それは、あれが正しい、これが正しいと思うのは、皆自分の思いが始まりだから。自分の正義を振りかざすのはダメ、ダメ。正しいは人の数だけある。」


 ふと目を上げると、何を書こうとしたのか見当もつかない、混沌とした壁紙に囲まれていたことを思い出した。誰かが、何かを表現しようとしたのかもしれない。ユースティアにもガイドにも、その試みの正体は分からない。

「この壁は何を描こうとしたのですか。あなたが何か描きたかったのであれば、教えてください。」

 てんびんはこちらの言わんとしていることに、合点がゆかないとでも言いたげに、頭をかしげた。とはいっても首はないので、その支柱を曲げたのだが、吊るされた天秤皿は水平を保って、あばらのような場所に触り、くすぐられた幼児のように、天秤はケタケタと笑った。

 ただ、物を描こうとしたのではなく、無作為に心の赴くままに、筆を走らせようとしたのだろうか。だとしたら、かなりちらかったままこの壁を描き始めたのかもしれない、と二人は考えた。

「ちらかすのも、かたづけるのも、その人にしかできないのなら、ちらかっているものに勝手に触るのは、よくないことなのかもしれないね。」



 二人はてんびんに礼を言って部屋から出ると、また目の届きゆかぬ程に長い螺旋階段に向き合った。外から部屋の中を振り返ると、(ユースティアは見たことがないので分からなかったのだが、)その風景は変化して、事務室のような見栄えになり、スーツ姿で仕事をしている人が、カカリチョウ、などと呼ばれて捺印と筆記に追われていた。

「人間だった時の映写が始まったのか。気になるぜ。」

「でも見ていたらキリがないわ。もう行きましょう。」

二人は足早に部屋を立ち去っていった。

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