砂漠渡りと長月 / 僕だよ

秋色

僕だよ

 この横断歩道はまるで砂漠みたいだ。長くてつらい。


 向こう側にあるのはオアシス。その証拠に向こうに陽光ひかりが降り注いで、みんな笑ってる。手にはキラキラ光を反射しているペットボトル。緑の多い公園もある。この横断歩道の上だけは、乾ききっていて、空には白い月が昇っているような気さえする。渡り切れるかな、信号機が赤に変わるまでに。私は痛い膝をかばって足を引きずる。



 昔の私なら、簡単に闊歩かっぽ出来た。あの頃はこんな擦り切れたローファーでなく、ハイヒール。スーツにあわせた色のハイヒールで颯爽さっそうとビジネス街を闊歩かっぽしていた。


 あの公園の木陰のベンチがデートコースの一つになっていたのはいつだった? ハイヒールを履き出して間もなくだ。


 ――君を生涯愛します。生涯かけて守ります。だから仕事をやめてください――


 ――今は無理。まだやりたい事あるし。待ってくれない?――


 ――待つってどのくらい?――


 生涯かけてと言った人はあっさり他の安らぎを求めてどこかへ行き、今どうしてるかも分からない。


 あの公園の前で路上ライブをしてた人と付き合ってた事もあったなあ。本当に好きだと思ってたけど、気持ちがすれ違い始めたある日、別れの言葉もなく故郷に帰って行ったっけ? あの時聴いたラブソングも今では思い出せない。



 交差点の大型モニターに、オレオレ詐欺撲滅のキャンペーンCMが流れる,。


「ほら、僕だよ」で始まり、「他に頼る人いないんだ」、そして最後に「ありがとう。相談して良かった」とにっこり。でも電話の向こうの老人に見えていないその顔は悪魔の微笑に変わる。


 そんなのに騙されない。騙されるわけがない。たとえ歳をとっても。若い頃から近所では、着物や美容機器のセールス、宗教への勧誘等、路上で声をかけられる事が多かったから、無視して通り過ぎるのに慣れてるんだ。



 ――僕だよ――


 ふっと耳をかすめる。誰か聞き覚えのある声。でも思い出せない。後ろを振り返るけど、はしゃいだ若い女の子達、昼休みに外へ食べに出た会社員達の姿しか見えない。


 空耳だったのかな。どちらにせよ久しぶりに会う相手だったら、「僕だよ」なんて言葉じゃ分からないだろう。名前を言わないと。


 そう言えば小学六年の時、生まれて初めてラブレターをもらったっけ。


 ――ずっとサワちゃんの事が好きです。中学に入ったら会えないから残念です――


 そんな風に書いていたのに、自分の名前を書き忘れてるドジなやつ。でも中学からは地域の公立中学ではなく、少し離れた私立へ通ったから、結局今も誰だか分からないまま。


 今はスマートフォンの時代だからラブレターという手段も少なくなってるのかな。それはザンネン。あの封筒を見た時の、そして封を開ける瞬間の胸のドキドキ、高揚感はスマートのタップじゃ味わえないと思うけど。



 ――僕だよ――


 また声が聞こえた。振り返っても親子連れや男子高校生の姿しか見えない。


 こんな雑踏の中で声をかけてくる人がいるとしてそれは一体誰だろう? 最後にラブレターをくれた人? まさかね! 最後にもらったラブレターはかわいいやつだった。


 あ、でも……


 そう言えばついさっき、一瞬だけ、雑踏の中で見知った顔が視界に入ってきた。いや、ただそんな気がしただけ。面影というのか。そのままの顔ではなく、成長して骨格が変わっているけど、あの子じゃないかなって。


 やっぱりあれはリョウ君?


 振り返ると、向こうも振り返った。優しげな若者の顔に変わっているけど、間違いなく見知ったあの子の顔。


 あれは人生で二番目に落ちぶれていた時代の事。あの頃、数年間OLとして勤めていた商社を辞めて、次の就職までブランクがあった。社会に関わりを持たない気楽さと不安。もちろん今と比べれば全然大丈夫な時期だったんだろうけど。マンションの隣に住む主婦と何気なく話していて、今、何もしていないと言うと、親戚のやっている店を手伝ってほしいと言われた。信頼の置ける相手からの頼みだし、暇だからいいわよと何も考えずに答えた。

 結果、別に怪しい話だったわけではないけど、それは古き良き時代の故郷の香りのする仕事。つまり、お惣菜屋さんの夕方の忙しい時間を手伝うという仕事だった。売れ残りそうな商品を店の前に出して、呼び込みみたいな事までさせられた。自分の一存で売れ残りそうな惣菜を割り引いて売ったり、オマケをつけてもいい事になっていた。


 そんなふうに店に出て販売していると、常連さんと顔なじみになる事もあった。仕事帰りの会社員やOL、近所の主婦等、顔を覚えて挨拶を交わした。


 そんな中に十才位の男の子がいた。実際、小四と聞いたから十才なんだろうけど、年齢を知らなかったら七才位だと思ってしまいそうな、小ちゃくて幼い感じの子だった。後ろから見ると、黒い大きなランドセルで背中が隠れていた。

 いつも親が仕事で遅くなるそうで、一番安いクラスの惣菜を買って帰っていた。小盛りの198円のだった。


 よくお店のオーナーと「あんなんが夕食なんて栄養足りてるのかな」と話していた。それでもその子、リョウ君は、「他にも自分で卵料理とか作れるから大丈夫」とニコニコしながら話してたっけ。

 それでその日、売れ残りのコロッケがあると、オマケでつけたりしてた。そんな時のあふれるような笑顔。

 ――おばちゃん、ありがとう。おばちゃんからもらったの、いつもおいしいから――


 ――寄り道しないで早く帰るのよ。お家に誰も居なくてもね。真っ暗の部屋に帰るの、いやでしょ?――


 ――うん、やだよ。ねえ、おばちゃん、夕陽があんなに燃えてキレイだね――


 ――ホントね。反対側の空には、ほらもう月が顔を出してる――



 あのリョウ君なんだろうか?



 ――リョウ君……なの?――


 ――さわ子さんですか? お惣菜屋さんの? やっぱりそうだったんだ!―― 


 ――もう! 昔みたいにおばちゃんでいいよ!――


 ――わぁ、懐かしいなあ。あの、角のバーガーショップで話しませんか?――


 ――いいわよ――




 そう、あの、かわいいラブレターは、「おばちゃんへ」で始まってたっけ。って言うか、学校で身近な大人に感謝の気持ちをあらわすラブレターを書きなさいって宿題が出て、それで書いたんだって言ってた。


「おばちゃんへ

 いつも買い物に行った時、夕食を選ぶの手伝ってくれてありがとう。コロッケや巻き寿司をおまけしてくれてありがとう。おばちゃんは大人でもいつもにこにこしてかわいいし元気いっぱいなので、お店の前にいるのを見ると、うれしくなります。

 お店で買ったものを食べながら、アパートでアニメを見ていると、さびしくありません。おばちゃんの、暗くなる前に帰りなさいよと言う声が聞こえてくる気がするからです。

 これからもずっと元気でいてください。お客さんはみんな、おばちゃんのお店で、買い物するのが楽しみだからです」


 あの手紙だと、まるで私の経営する店みたいに聞こえる。それに一緒に店に出てるオーナーさんや他のパートさんの立場無しだな、なんて。

 

 とにかく、あのラブレターは宝物だ。でも結局、それから一年も経たず、私は大手のコンピューター関連の会社に再就職し、再びビジネス街を闊歩かっぽするビジネスウーマンへと返り咲いた。その選択が良かったのか、悪かったのか。それが今のこの都会の砂漠に繋がっているのだから。


 長い月日の間に、よくお惣菜屋さんの事、ひ弱そうだったリョウ君の事を思い出していた。特に夕暮れ時、下町に夕餉ゆうげの支度の香りが立ち込めるような時刻には。

 胸によぎるのは、あの半分ネグレクトっぽかった少年が無事、成長できたかという心配。


 今、ここにいるたくましい若者がリョウ君であるなら、心配は無用だったって事ね。良かった。世の中って危惧きぐするほど悪いもんじゃないんだ、きっと。




 私達は十分後にはバーガーショップで向かい合って、ハンバーガーとマスカットシェイクを前にしていた。


 ――おばちゃんの姿がお総菜屋さんから消えて、僕、本当に寂しかったんですよ。あのコロッケの味とおばちゃんが、僕の中では完全、一体化してたんです――


 ――私が作ってたわけじゃないんだけどね――


 ――でもおんなじです。小学生の頃、夕方いつも一人ぼっちで寂しくて、でもおばちゃんから買ったお惣菜があると、いつも心がほっこりしたんです。アパートの部屋でテレビのアニメを見ながら食べる一人ぼっちの夕食。でもこれは、おばちゃんのご飯だって思いながら――


 ――私のご飯? ふふ。今は元気そうね――


 ――中学に入る時、見兼ねた親戚の支援で、全寮制の中学に行く事ができて、そこが自分に合ってたみたいで、成績もどんどん良くなったんです。大学は奨学金とバイトで行きました。今は営業の仕事してて、結婚して三才の娘もいるんですよ――


 ――そうなの? あのリョウ君が……。良かった――


 ――僕は真剣にまたおばちゃんに会いたいなぁって思ってたんです――


 ――あの頃の感謝とかかな? だったら私、気恥ずかしいよ。何もしていない――


 ――そんな事ない。いっぱい勇気もらいました。今でも、仕事帰りに月を見上げると、昔、アパートで一人で窓の外の月を見てた事、思い出して心が冷え冷えするんです。そんな時、おばちゃんが『今日もありがとう』って笑顔でお惣菜、渡してくれた事もセットで思い出して、元気出ます! 感謝ってか、ただ大好きなおばちゃんに会いたかったってだけです――


 膝の上に置いたポーチを知らず知らず、ぎゅっと握りしめていた。

 ――そうなの……?――


 ――そうです。どうかしましたか?――


 ――故郷の実家にいる甥っ子や姪っ子もそんなふうに言ってくれるの。姪っ子の誕生会に参加してって、新幹線のチケットも送ってきてくれて。でも故郷は遠いしって思って――


 ――いつなんですか?――


 ――それが今日なの。二時半までに新幹線に乗ったら日暮れまでに着く便で。もう諦めようかと思ってたんだけど。故郷の人達、歓迎してくれるのかなって――


 ――おばちゃん、帰りたくないの?――


 ――帰りたいわ。故郷の風景、もう一度見たいなって時々思うもの――



 故郷の美しい川岸や陽光の差す田舎道を思い出していた。



 ――時々じゃないでしょ? 甥っ子さんや姪っ子さんも絶対会いたがってるから。さ、今からならまだ間に合うよ、行こう――


 ――間に合わないんじゃ……――


 ――そんな事言わずに早く! そこに地下鉄の駅あるし! そこから東京駅へ行けばすぐだから――



 リョウ君は、私のキャリーバッグを抱えた。私は、リョウ君の熱意に押されるように、駅へ向かった。そして駅へ向かうまでの交通費も全て払ってくれて、私を速達の荷物みたく列車に乗せた。


 ざわめくホームで手を振るリョウ君は最後に言った。


 ――おばちゃん、元気でね! 今日声掛けて良かったよ――



 良かったよ、という言葉がこだまする。


 窓の外を風景が流れていく。

 砂漠から乗ったように、新幹線は遠い故郷を目指す。もう二度と戻らない砂漠の街。故郷に着く頃には夕陽が射しているんだろうか。


 いつかリョウ君にかけた言葉を思い出す。


 ――寄り道しないで早く帰るのよ。真っ暗の部屋に帰るの、いやでしょ?――


 いやだったに決まってる。長い事。



 *********************




「パパ、どうしたの? 居眠りしたりして」


 バーカーショップでハンバーガーとマスカットシェイク越しに幼い娘が訊く。


「どうしたの? リョウちゃん、疲れてるんじゃない?」と妻の心配そうな顔。


「金曜日、残業したからかな。いや、大丈夫。いい夢みてた」


「どんな夢?」と娘。


「昔、パパがお世話になった人の夢。子ども時代にね」


「昔、鍵っ子だった時に夕食を買いに行ったお店の人? 結婚前、一緒に一生懸命探した……。 やっぱり疲れてるのね。」


「そうかな」


「あの時辛そうだったから。お世話になった人が、数ヶ月前に都会で孤独死してたんだものね。お空にいるその人にリョウちゃんの気持ち、伝わってるといいな」


「うん。伝わってると思う。だって夢の中で僕を見るおばちゃんの眼が優しかったから。それに、幸せそうに光の中を列車に乗って故郷へ旅立って行ったんだよ」

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