真夜中の裏庭にて(「隠者は払暁に眠る」習作)

真夜中の裏庭にて(『隠者は払暁に眠る』習作)

 帝国暦一七二年(ニアーダ王国暦五二五年)十月

 

 胸に降り積もる孤独が、少年を闇の中へと走らせた。

 ハーレイは真夜中に寝室の出窓を開けた。冷たい秋の風がひょうっと吹き込んで、彼の巻毛を揺らす。少し欠けた月と星の明かりだけを頼りに、この高貴な少年は恐る恐る伸びた木の枝に飛び移った。

 寝室はお城の三階だ。落ちれば大怪我をしてしまうかもしれないが、それでもかまわない。とにかく、ここから逃げ出したかった。

 ――誰も僕のことを分かってくれないんだ。

 今日は、教育係のライサンダーと喧嘩をした。

「僕には二人兄さんがいる。二人とも立派な兄さんだ。僕はどうせ皇帝になんかならないよ。こんなに厳しい教育を受ける必要があるのか?」

 ハーレイが「皇帝になるために」丸暗記しなければならない本を積み上げると、十歳になったばかりの彼よりも背が高くて、しかも重たい。政治、歴史、法律……何もかもが難しい言葉だらけで、読むだけでも一生かかってしまいそうな気がする。

「僕にも君にも、時間の無駄じゃないか」

 ハーレイの抗議に対するライサンダーの答えはこうだった。

「稽古着にお着替えになって、中庭に出てください」

 つまり、次は剣術の訓練だという意味だ。ライサンダーはまるで取り合ってくれない。彼の態度からは、ハーレイに対する憎しみさえ感じる。

 昨日の練習試合で足をくじいたばかりなのに、まともに剣なんか扱えるわけがない。ハーレイの身体には、痛々しい生傷と青あざが絶えなかった。それでも毎日訓練、勉強、訓練の繰り返しだ。それも、なるはずのない皇帝になるための!

 こんな生活、もう耐えられない。ハーレイはライサンダーの言いつけを無視して寝室に立てこもり、そのまま夜を迎えた。ちなみに部屋まで運ばれてきた夕食は、ちゃっかり平らげている。

 ハーレイはずきずき痛む足を引きずりながら、どうにか庭へ降りた。

 お城の東側の城壁に、補修が済んでいない部分がある。十日ほど前の暴風雨で大木が倒れてきて、石積みの城壁に穴を開けてくれたのだ。身体の小さいハーレイなら、なんとかくぐり抜けられるに違いない。

 ところが、真っ暗な庭に降りた途端、ハーレイには方角が分からなくなってしまった。

 月が出ているほうが、――ええと、どっちだっけ?

 ハーレイは当てずっぽうで歩き出した。抜き足、差し足、城壁の上で寝ずの番をしている衛兵たちに見つからないように、ひっそりと。大丈夫、城壁を伝って行けば、そのうち穴を見つけられるはずだ。

 どのくらい歩いただろうか。ハーレイの小さな手は、ふと石壁とは違う、ひやりとして硬いものに触れた。

 手を鼻に近づけてみると錆の匂いがした。暗くてよく見えないけれど、恐らく鉄格子の扉だ。

 こんな扉あったっけ? 興味本位でハーレイは扉を押した。

 カシャンと大きな音が鳴る。誰かが閉め忘れたのか、鍵は掛かっていなかった。

 城壁の上から、「誰かいるのか?」と大きな声がした。慌ててその場に伏せたとき、扉がギィと音を立てて内側へと開いた。

 お入りなさい、と言われているような気がした。

 ハーレイは地べたを這って、扉の向こう側へと入った。腕に当たる感触は硬い。石畳が敷かれているのだ。

 やがて甘い香りが、ハーレイの鼻をくすぐった。どこかほっとするような香りだ。衛兵がもう警戒していないのを確かめてゆっくり立ち上がったとき、一面の白い花が目に飛び込んできた。

 白い花びらが寄り添い合って、重たげに開いた花の名前は知らない。花々は、夜の闇の中でわずかな光を反射して輝いている。けれどもハーレイには、むしろ自ら輝きを放っているように見えた。

「きれいだ」

 ハーレイは花壇に囲まれた園路に足を踏み入れた。彼は剣や軍学よりも、花が好きだった。眺めているだけで心が安らぐ。お城で生まれてから十年間、こんな花壇があったなんて知らなかった。城内に知らない場所なんて、ほとんどないつもりだった。行ったことがないのは、立入禁止の場所だけだ。たとえば、囚人が捕らえられている地下の牢獄、刑場、そして、城の西側にある裏庭……。

 裏庭。

 その存在を思い出したまさにその瞬間、背後から男性の声がした。

木春菊マーガレット、というのですよ」

 人に見つかってしまった。その声は低く物静かで、皇帝の第三皇子に対する礼儀をわきまえている。その丁重さが、ハーレイにはかえって怖かった。

木春菊マーガレットなら僕も知ってる。でもこの花は、形が違うよ」

 ハーレイは振り返らずに答えた。背筋がこわばって、振り返ることができなかったのだ。何か恐ろしいものに見咎められてしまったような気がした。

「あなたが知っているのは、おそらく一重咲きのものでしょう。ここにあるのは、八重咲やえざきの木春菊マーガレットです。……いえ、もう違う名前を付けたほうがよいかもしれませんね。ほかの花と交配させて、よい香りがするように品種改良を試みているところです」

 長く話しているうちに、その声はハーレイの耳慣れぬ訛りをわずかに孕んだ。流暢な帝国共通語だが、声の主はこの国の人ではないらしい。

「そう……言ってみれば、この花は一種の奇形ですね。雄しべと雌しべの代わりに、花びらがついている。だから、種を残すことはない」

「……あなたは、庭師なの?」

「さあ、どう思われますか?」

 ハーレイはどきどきしながら振り返る。

 どんな花よりも光り輝く人が、そこに立っていた。

 夜風に揺れる長い束ね髪は、月明かりと同じ色をしている。丈の長い白い服は、ハーレイの知らない民族衣装だ。若者ではないけれど老人にも見えず、いったい何歳くらいなのか見当もつかない。近づいてみると意外と背が高い。見下ろす瞳は薄い灰色で、わずかに緑が混ざっていた。

「私はアテュイスです。ハーレイ皇子」

 少年を皇子と知りながらひざまずきもせず、その人は名乗った。

 アテュイス。その奇妙な語感が、ハーレイの記憶に訴えかけた。

 いつの日だったか、ライサンダーに教わった気がする。ハーレイが生まれる前、この帝国――ユーゴー帝国は隣の国ニアーダと戦争をして勝った。ニアーダの王様があまりにも横暴すぎるから、懲らしめてやったのだと。――その王様を、帝国は、父上はどう処罰したのだっけ?

「あなたは……もしかして、ニアーダ王国の、王様だった人……?」

 幼いハーレイにも、言葉を選ぶ慎みはある。けれどもアテュイスは己の評判をすべて知っているかのように、口の端に皺を寄せて優雅な笑みを漏らした。

「そうですよ」

 アテュイスは花々へと視線を移した。その手にはせんていばさみがある。

「帝国との戦争に敗れて、ここへ連れて来られたのです。それ以来、ずっとここで暮らしています」

 ほら、あそこ、とアテュイスが指を差す。振り向くと、古ぼけた木造の小屋がひとつ見えた。もう二十年以上も、アテュイスはこの裏庭に閉じ込められていることになる。

「いつも、こんな夜中に花の世話をしているの?」

「夜の方が気楽なのです。番兵からあまり見えないでしょう? さいわい私は、夜目が利きますから」

 そして日が昇るころ、私は眠りに就くのです――穏やかに語るアテュイスを、ハーレイは気の毒に思った。

 この人が横暴な王様? とてもそんな風には見えない。

 ハーレイの目に映るアテュイスは、たとえて言うなら、人の世をいとうて隠れ住む、伝説の妖精王サイオシスのようだ。そう、彼は幼い頃にライサンダーが読んでくれた絵本の妖精王とそっくりだ。

「ここには、入っちゃだめだって言われてたんだ。荒れ放題で、危険な毒草が生えているからって……」

 それがライサンダーの嘘だということは、実際に入ってみて一目で分かった。

「それは、私に近づかせないための方便でしょうね」

 アテュイスは鋏を動かしながら言う。

「あなたはどうして、立入禁止の裏庭にいらっしゃったのですか?」

 皇子であるハーレイに横目で質問するなんて、本来ならとても無礼な振る舞いだ。でもハーレイには、この戦敗国の前国王のことを、自分より目下の人間だとはどうしても思えなかった。

「……何もかもが、嫌になったんだ」

 ハーレイは告白した。というより勝手に喋っていた。アテュイスの持つ柔らかな雰囲気がそうさせたのだろうか。

「皇子になんか、生まれなければよかった。そうしたらもっと、自由に暮らせるのに」

 ぱちん、と鋏が大きな音を鳴らした。伸びすぎた芽がはらりと落ちる。ほかの花をきれいに咲かせるために、摘み取られる不要な新芽だ。

「仕方のないことですね。あなたは皇子に生まれついたのですから」

「……そうだよね」

 アテュイスの答えはひどく素っ気なかった。

 ハーレイはがっかりした。僕はこの人に何を期待したのだろう。この人にとって、僕は敵国の皇子だ。憎たらしい子どもに違いない。

 急にどっと眠気が襲ってきた。徹夜すらできない子どものくせに夜中に脱走しようなんて、なんて馬鹿げた考えだったのだろう。冷たい風が吹くたびに、ふかふかのベッドが恋しくてたまらなくなっている。

 ハーレイがきびすを返そうとしたそのとき、

「つらいときは、いつでもここへいらしてかまいませんよ。私でよろしければ、お話を伺いましょう」

 アテュイスから、思いがけない救いの手が差し伸べられた。

「ほ……本当?」

「もちろん、あなたの周りの人たちは許さないでしょうから、こうして真夜中に誰にも気づかれないようにいらっしゃるのなら、ですが」

 アテュイスはハーレイに向き直って屈み、襟元から手巾ハンカチを取り出した。光沢豊かな白絹に銀の刺繍が織り込まれた、とても上等な品物だ。

「ここで育てた花の香りを染み込ませてあります。枕の下に敷くと、よくお休みになれますよ」

「僕がもらっていいの?」

「私も王族の端くれですから、あなたのお気持ちはよく分かるつもりです。……いくらあなたが皇子でも、夜くらいは自由になってもよいはずです」

 骨張った大きな手が小さな手を包み込む。血の通った温もりが嬉しくて、少しだけ涙が出た。こんな風に優しい言葉をかけてくれる人を、ハーレイは知らなかった。もし母上が生きていらしたら、同じように慰めてくれただろうか。

「ありがとう。アテュイス様」

「『様』は要りませんよ、ハーレイ皇子」

 アテュイスが微笑んだとき、ハーレイはいっぺんにこの人のことが好きになってしまった。

「うん。……アテュイス。また来るね」

 感激のうちに、ハーレイは秘密の裏庭を後にした。来た道を戻り、木を登って自分の寝室に戻り、言われた通り枕の下に手巾ハンカチを敷く。

 あの美しい人が自分の味方をしてくれると思うだけで、胸の中に希望が湧いてくる。明日からも、厳しくて無意味なけんさんの日々が続くのだろう。それでもほのかに漂う甘い香りに心を委ねていると、なんとかやっていけそうな気がするのだ。

 翌朝、ハーレイは窓辺から差し込む朝日で目を覚ました。

 眠っている間は、夢も見ないほどぐっすりだった。むしろアテュイスに出会ったことが夢だったのではないかと思える。けれどもハーレイが枕の下を確かめると、すべらかな手触りの絹布は、確かにそこにあった。(了)

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外伝集 暁天/払暁Ⅰ 泡野瑤子 @yokoawano

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