第6話
「どうしちゃったのかな、桃子……」
人間の喜怒哀楽は、時間の経過と共に薄れゆくものだという。
でも僕の喪失感は、相変わらず続いていた。
付き合っていた時よりも、むしろ今の方が「桃子に会いたい」という気持ちが強いのではないだろうか。
自分の部屋で、一人で大学の勉強をしていると、突然彼女のことを思い出して、何も手につかなくなるくらいだ。
これではいけない。それは自分でもわかっていた。
だから。
「桃子。君が姿を現すまでは、この人形を君だと思って、大切にするよ……」
あのビスクドールを手に取って、僕は撫で回すのだった。
桃子の机の引き出しにあったビスクドール。
母親と刑事が入ってきた際、ちょうど手にしていたのが幸いだったのかもしれない。
あの時、驚いた僕は無意識のうちに、そのビスクドールを足元の鞄の中に入れていた。そのままビスクドールを持ち帰る形になってしまったのだ。
そのことに気づいたのは、警察の取り調べから解放された後であり、今さら返しに行く気にもなれなかった。
だから今、桃子のビスクドールは、僕の部屋で飾られている。
「桃子……」
彼女の部屋でも思ったように、ビスクドールの顔は桃子とよく似ていた。
それどころか、持ち帰ってから気づいたのだが、彼女と同じ香りまで漂わせていた。
なるほど、彼女の部屋にあったものだから、香水などの匂いが染み付いているのだろう。最初はそう思ったのだが……。
よく考えてみると、桃子は『香水』なんて使っていなかった。
知り合ったばかりの頃、こんな会話があったのだから。
「いい匂いがする。素敵な香水だね」
「ありがとう。キンモクセイの香りよ。でも……」
はにかむように笑う桃子。その笑顔こそが、彼女を意識し始めた瞬間だったのかもしれない。
「……これ、香水じゃないのよ。ヘアオイルなの」
彼女は軽く頭を振って、髪から甘い香りを撒き散らす……。
いったん思い出してしまえば、忘れることの出来ない場面だった。
香水ではなく、ヘアオイル。
当時は意識していなかったが……。
どうなのだろう?
髪から漂うヘアオイルの匂いも、室内の物体に移るものなのだろうか?
「……」
見れば見るほど、桃子そっくりに思えてくる顔だ。
そんなビスクドールに、クンクンと鼻を近づけて、改めて匂いを嗅いでみる。
人形の手足や、ヒラヒラした服からではない。キンモクセイの甘い香りは、ビスクドールの髪から漂ってくるのだった。
(「キンモクセイの甘い香りが漂って」完)
キンモクセイの甘い香りが漂って 烏川 ハル @haru_karasugawa
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