第3話 怖いライン

 今朝起きてスマホをチェックすると、入院中の兄からラインが来ていた。

「左足に触るな」

 メッセージは朝の7時前に送られていた。

 スマホは個室の窓際にあり、寝たきり状態の兄が自分で手にして操作したとは思えない。では誰が、と考えてもやはり兄本人からとしか考えられなかった。

 昨日病室から出る前に兄に

「足の浮腫みどう?」

と尋ねても無反応だったので、毛布をめくってそっと手で確かめてみたのだ。

 今日は朝早くから夫と家を出て、テニス仲間たちを拾って隣町のテニスコートに行くことになっていたので、すぐに返信をする余裕がなかった。

 ずいぶん後になって

「ごめん。今後は触りません」

とメッセージを送った。

 兄はもしかしたら一晩中怒り狂っていたのかも知れない。とにもかくにも謝るしかない。元気なときの兄弟げんかとはわけが違うのだ。


 ロキソニンを2錠服用したこともあり、テニスをしている間は、可動域を越えて腕を動かさなければ肩の痛みを感じない。兄のことも考えない。それなのに、仲間たちと別れるとやはり兄のことが気になって仕方がない。


 夫と娘が今日ならお見舞いに行けると言うので、昼食もそこそこに3人で大学病院に向かった。

 朝9時から来ていた兄嫁は帰った後だったが、お昼過ぎに電話で話したとき、今日帯状疱疹の痛み止めの注射を打ったと言っていた。

 そのせいか、痛いところはないか問うと、兄は小さく頷いた。

 しかし、その後やはり反応がなくなった。

 意識が混濁していると言うわけではなく、反応するのが面倒なのかも知れない。

 窓際の棚には充電したままのスマホがあり、その横に病状を書いた書類があった。

 やはり癌細胞が肺に転移して水が溜まっているのだ。左手の浮腫みも酷くなっている。

 しばらく3人で様子を見ていたけれど、本人はじっと目を閉じているだけだ。

「また来るからね」

と声をかけると、ようやく微かに顔を縦に振った。

 夫が駐車場に車を取りに行った間に、娘が院内のスタバに行きたいと言い出し、ハーブティーをテイクアウトした。

 ハーブティーは、この季節の木々の紅葉に染められたような色をしていた。

 その美しい液体とともに、ざわついた心を一口ずつゆっくりと飲み込む。

 娘と別れて、夫と美術館を訪れた。今週末までの企画展のチケットを2枚持っていたので、急遽行くことにしたのだ。

「移ろいゆく季節と生と死」

 そんなテーマの日本画を観賞していると、白と黒で描かれたさざ波の一つ一つが、芸術のよくわからない私をも圧倒するように押し寄せて来る。

 美術館から出ると、また兄のことを考えた。

 この文章を書いている間もずっと考え続けているのだけど、不思議なことに今だけは肩の痛みを感じない。

 もうすぐ緩和ケアに移ると言う兄の痛みは、そこで軽減され穏やかな死を迎えることができるのだろうか。

 怒りに任せて喧嘩を売ってくる類いのラインでもいい。そこから何かメッセージを送って来てくれるとしたら嬉しいのだけれど。


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