第6話 永訣の朝

 「永訣の朝」は約百年前、宮沢賢治が妹を結核で亡くしたときのことを書いた詩で、昨夜私は詩の講座のためにその詩をパソコンで打ち込み、日付が代わってから寝た。

 5時前に目が覚めて朝食の下ごしらえをしシャワーを浴びた。洗濯機を回し髪を乾かしていたところ、6時前に病院から電話があった。

 兄が亡くなったのだ。

6時20分ごろ家を出て夫と病院に向かった。いつもと何ら変わらない土曜日の朝である。昇り始めた太陽の光の中、車の列は滞りなく流れる。高速道路のデジタル温度計は10度だった。


 入院棟の夜間通用口で手続きをして、10階に急ぐ。兄嫁は売店の自販機に兄の寝巻きを買いに行っていて、姪がひとりで兄に付き添っていた。

 医師がすぐに来てくれた。

「我々にも予測できない急変が起きたようです。もう少し先までもつと思っていたのですが、苦しい時間が短かくすんだのはよかったかも知れません」

「そうだったんですか。いろいろとありがとうございました」

 目を閉じて頭を下げる祈りにも似た一連の動作は、こういうときお互いに無言の了承の合図となる。

 慌ただしくお葬儀の打ち合わせをし、10時には霊柩車が迎えに来て、私たちも病院を後にした。


 兄の自宅に近い葬儀ホールで、兄の遺言通り身内だけの家族葬となった。

 着いてまもなく所縁のあるお寺の住職さんが来て、枕経をあげてくれた。

 今日5時からお通夜、明日11時からの本葬の日程も決まり、ことさら主人公の不在が際立つイベントの準備が粛々となされる。

 兄嫁と姪が、昨夜に引き続き一晩中兄に付き添ってくれることになり、私たち家族はお通夜を終えて家路を急いだ。

 全てが兄の書いたシナリオ通りに運ぶ、今日と言う1日に凝縮されたドラマのようだ。

 家族葬とは言え、遠くの親戚縁者に一応連絡を入れないといけなかったので、その窓口を担った私は、叔母たちや従弟妹たちからの電話やラインでの対応に追われていた。スマホの充電が必要なのと同じように、心身ともに消耗しきっている。


 棺の中に眠る兄は蝋人形のようで、昨日までの苦しい息はもう聞こえない。

 昨年の夏、食道がんステージⅣとわかってから今日まで、命尽きることと向き合った1年と2ヶ月余りの日々を振り返ってみても、全てが幻のようだ。



 

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