第5話 呼び出し

 体操教室の仕事で隣町にいた今日の午前10時40分ごろ、兄嫁から電話があった。ちょうど前半の私のパートが終わったタイミングだった。

「お父さんがようないんよ。先生が会いたい人がおったら今のうちにって」

 兄嫁の声がこわばっている。

「仕事が終わり次第出ます。12時半には着けると思います」

 電話を切るなり、やり取りを聞いていた私の仕事のパートナーが、

「実のお兄さんでしょう?ここはいいからすぐに行ってあげて」

と気を利かせてくれた。

 家には寄らず、仕事着の紺のポロシャツの格好のままで高速に乗った。

駐車場に停めるのももどかしく病室に駆け足で行く。

 兄は昨日とは全く別人のようで、ぜいぜいと苦しそうに息をしている。額には白いタオル、頭の下にはアイスノンが置かれている。

 軽い鎮静剤を点滴で入れているそうで、半分眠っているようだが、呼び掛けると目を開けた。

 白眼が濁って死んだ魚の眼のようにどろりとしている。

 血圧は上が80を切り、指先のオキシメーターは70辺りをさ迷っている。

それでも、私が

「わかる?大丈夫?」と問うと僅かに頷いた。

 兄嫁がお昼を食べに行った間に、担当医が様子を見に来てくれだが表情は険しい。

「苦しむようなら、ご本人の希望通りもう少し強い鎮静をかける予定です」

 その言葉に頷くしかない。

「よろしくお願いします」

と頭を下げた。

 兄と私だけになった無音の病室には、どこか遠い空の上から聞こえる雷鳴のような兄の呼吸音だけが響き渡っていた。


 兄嫁が戻って来て私がお昼を食べに行った後、兄嫁とふたりで緩和ケアの話をしていたところに、夫と息子が到着した。

 夕方には他県に住んでいる兄の息子や娘も来たので、ベッドを総勢6人が取り囲む格好になった。

 鎮静し過ぎると、ずっとそのまま眠ったきりになるので、午前11時過ぎに点滴を始めた鎮静剤を午後3時に止めていた。そのせいか兄は誰か現れるたびに、目を開けて何か言いたそうにしていた。だが、酸素マスクの下で喘ぐだけの口元からは、何の言葉も漏れては来ない。

「何か言いたいんよね」

そう投げ掛けても、もはや頷きも見られなくなっていた。

 兄嫁と娘である姪がふたりで病室に泊まってくれることになり、私たち家族は一度家に帰ることにした。

 英会話サークルに行くと言う息子が、私が乗って来ていた車で一足先に出発し、夫と私は病院の売店でお弁当を買って、兄の病室のあるフロアーの談話室で食べた。

 夕闇が迫った窓の下には灯りが点き始めた街並みが広がっていたが、私の中では朝家を出たときから時間が止まっている。

 帰宅してから3日後の詩の講座の資料作りの仕上げをした。いつ病院から再び呼び出しがあるかわからない。パソコンのキーボードを打つのももどかしかった。

 明日をも知れない兄の命を思うとき、息ができないような胸の苦しさや鋭い心の痛みを覚える。

 先人たちの詩は、自然も人の生き死にも無限大の宇宙をも、途方もない言葉の力で私を引き寄せる。

 今日はもう明日と言う日に取って代わろうとしている。


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