第2話 パラレルワールド
死に瀕した兄の耳に、私のひきつった笑い声が届いてしまっただろうか?
兄のお見舞いに行くと、病室からちょうど出て来た看護師さんに出くわした。
「お世話になります」
私が挨拶をすると、
「娘さんですか?」
と尋ねられたので、
「いえ、妹です」
と打ち消した。
「あ、失礼しました」
彼女の手からファイルが落ちそうになっていた。
「いえ、全然」
私はちっともおかしくもないのに、不自然な笑い声をあげていた。
そこで、ほら、とマスクを外せば実年齢を言い当てられただろう。
還暦を迎えた父が亡くなったのは、私が30歳のときだったが、そのとき私は医療関係者から父の孫娘だと思われていた。髪が真っ白だった父は八十を越えた老人にしか見えなかったのだ。
病の苦しみは人を急速に老けさせるのかも知れない。
ドアを開けて中に入ると、部屋がやけに薄暗い。兄が暗い方がいいと言っているらしいが、既に命の無い人のようにこの暗闇に横たわっている。
胸の皮膚に帯状疱疹が出て、少しでも布などが擦れるとひどく痛むそうなのだ。
昨日よりも左手や左足の浮腫もひどくなっている。
「しんどい?」
私が尋ねると、微かに頷いた。
「何か飲んでみる?」
兄の耳元に口を近づけて聞いてみたが、もう何の反応もない。
昨日は何とか吸い口から冷水を口に含むことができたのに、たった一日でこうも弱るのかと思うほどの衰弱ぶりである。
少なくとも昨日までは、天井を見つめて「死」と言う字を描いていた。それが今では部屋の暗闇の至るところに、死が潜んでいるようだ。
不吉なものの威力に圧倒された私は、椅子に崩れるように座り込んで目を閉じ静かに泣いていた。
どのくらい時が経っただろうか。
小さな覚悟を決めて目を開けてみたけれど、兄は眠り続けている。
「じゃあ、今日は帰るけどまた来るからね」
たぶん私は、兄ではなく兄の体内に巣食う癌細胞にそう言ったのだ。
入院棟を出ると、外は宵闇に包まれていた。有料道路の橋を渡ると、煌めく街の灯りが暗い海面にぼやけて映し出されていた。
明日はテニスをしよう、私は疼く右肩の痛みを左の手で押さえ込みながら、ぼんやりと考えていた。
明るい朝の光の中で、私は肩の痛みを打ち消すようにラケットを振るだろう。そして、仲間たちと声をたてて笑い合うだろう。
すべてはもう一つの別の世界で起こっている出来事なのだ。
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