ある秋の記

@yoine

第1話 緩和ケアと棺桶

 末期癌で入院中の兄を見舞った。

大学病院の入院棟の個室で、ぼんやりと天井を眺めている。小ぶりのクッションの上に投げ出した左足がずいぶんと浮腫んでいる。

「調子どう?」

私が覗き込むと、視線だけがこちらを向いた。

「氷」

と言われても氷はないので、冷蔵庫にある水の入った吸い口を口元に持って行くと、何口かは吸えた。

 飲み込めないのでうがい用の容器に吐き出させ、枕元のタオルで濡れた口ひげを拭ってあげる。

「さっぱりした?」

と聞くとわずかに頷いた。

「病院を変わる」

 もぞもぞと掠れた声で言うので、耳を近付けると「○○記念病院」と、やっと病院名が聞き取れた。

そして

「か、ん、お、け」

と途切れ途切れに言う。思わず耳を疑いながら

「棺桶?」

と問い返すと

「緩和ケア」のことだった。

 まずいことを言ってしまったと後悔したけれど、既に遅い。

「かんおけって言ったんかと思った」

 くっくっくとおかしくもないのにくぐもった笑いでごまかすしかない。

 兄の見つめる天井に浮かんでいるに違いない「死」と言う文字と、緩和ケアを棺桶と聞き違える肉親のデリカシーの無さ。

 寒いと言うので電気毛布を掛けようとしたが、コードが見当たらないので結局看護師さんに来てもらい、私は駐車場に向かった。

 白衣の学生たちが笑いながら私の傍らを通り過ぎる。

 車に乗ってシートベルトをしようとすると、右肩に痛みが走った。

 そして思い出した。

母が亡くなる前、病院でずっと意識がなかったのもこの季節で、その頃も私は左肩に鈍痛を抱えていたのだ。

 この痛みは兄が亡くなったとしても、当分続くのだろう。母のときと同じように。

 精算機ゲートで車を停止させると、ループ状になった道路の先に、人々や車の列を見下ろす大きな銀杏の樹があるのが見えた。

 銀杏の樹から、黄金色の蝶の形をした葉がゆっくりと散っていた。

 夕陽に照らされた蝶たちは、それぞれの夢を思い描くように光の中をひらひらと翔び、地面に舞い落ちて行くのだった。




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