笑うヘンデルと二重奏
KaoLi
笑うヘンデルと二重奏
バサリと揺れるカーテン。
母の頬に涙が流れ、小雨が室内に入る。
ベランダへとつながる大きなガラス戸は開いていて。
私は、どうすることも出来ず、ただ。
ただ、彼女が落ちていく瞬間を見ていることしか出来なかった。
§ § §
ピピピッ、ピピピッ――。
どこかで朝を告げる愛らしい音が私の耳に届き始める。
「ん、んー! うるさい!」
私は我慢できず、机の上に置いてあった目覚まし時計を手に取り床に叩きつけた。愛らしい音のボリュームの大きさに毎朝腹を立て、いつも無造作に床に叩きつけてしまう癖があるらしい。寝ぼけていて毎朝覚えていないのが不幸中の幸いか。今日も目覚まし時計はどこかにヒビが入ってしまったことだろう。いい加減、新しいものを買わなくてはいけないとは思うもののなかなか買い替えることが出来ない。ときめくものが無いためだった。
「……やってしまった。はあ……」
再度、なかなか手放せない目覚まし時計を床から救い上げ、ベッド横の机に置き直す。
「今日もごめんね、“しずくちゃん”」
ちなみに、しずくちゃんというのはこの目覚まし時計の名前である。水滴のようなフォルムをした水色の時計だから、そういう名前を付けた。名前なんて付けたから手放せないのか。そのことに気が付いたのは最近だった。
「……あ、いけない。今日は早めに出る日だった!」
部屋のドア付近に取り付けているカレンダーがふと目に入った。今日の日付までにはバツ印が入っており、今日の欄には『母』という一文字が書かれている。
「やばいやばいやばい! 行ってきまーす!」
私は朝ご飯を食べる時間も無く、朝の六時に住んでいるマンションの部屋を出た。
「――美音さん、美音茜さん」
「は、はい!」
名前を呼ばれ、先ほどまで来ていた眠気がすっと抜ける。
ここは母の入院している病院だ。十五年前から母は入退院を繰り返しており、十年前からはずっと入院し続けていた。
理由は、よくは知らない。ただ、担当医曰く「立ち直ることが出来ない病気」なのだそう。要は心の病。精神疾患のようなことなのだろうと私は解釈している。
「面会大丈夫です。どうぞこちらへ」
「はい」
いつもは来ることは無い。ああいう状態になった母に会うのが苦手だから。誰でも精神が不安定な人間に会いたいとは思わないだろう。私もそのうちの一人だ。
けれど、今日は来なければならない日だった。母が来いと連絡をしてきたのだ。
「お母さん、入るよ」
「……」
返事は無い。分かってはいたことだ。特に何も思わない。
「……とりあえず、一週間分の着替え洗濯してきたのと、暇だと思ったから音楽系の雑誌何冊か家のやつ見繕って……」
「…………。茜」
「ん?」
「私が死んだら、家にあるもの全て処分しなさい」
「家のもの? 全部?」
「何も残さないで」
母は真っ直ぐ前だけを見てそう言う。
「分かった。……でも、死ぬなんてそんな。まだ若いんだし。病気も治るんでしょ」
「今日、あの子が迎えに来るのよ。私を殺しにね」
何を言い出したのだろうか、この人は。けれど、母は何も間違っていないと言わんばかりの表情で私を見た。本気で、そう思っているのだと肌で感じた。
「……あの子って、……お姉ちゃんのこと?」
「…………ええ」
「……そう。……あ、ごめんお母さん。私そろそろ行かなきゃ。仕事あるから。話って家のことだけで良かった?」
「…………」
「だんまり……。じゃあ、行くね。また来るから」
私は逃げるように母の病室を出た。
向かった先は勤務先の学校、私立
小さい頃は家の都合で音楽家になることが当たり前だと思っていた。けれど、いつしかそんな気持ちは薄れて現在の教師の夢を抱くようになった。念願叶って、去年母校であるこの高校に赴任した。毎日が楽しくて、刺激的。先ほどまでもやもやしていた母のことなど忘れていた。
そしてこの学校は吹奏楽部が強豪校として有名だった。音楽をやっていた身として、吹奏楽の副顧問を立候補した。結果は合格。とても嬉しかったのを覚えている。
通常授業を終え、部活動の時間帯となる。夕方の四時頃から六時頃まで。ただ今日からは夏の演奏会に向けての練習が始まるため、練習は七時まで延長される。
みんないい顔をしている。なんだかこっちも嬉しくなってくる。いい週末を送れそうだ。
一通りのパート練習が終わり、時刻は七時を回ろうとしていた。楽しい音楽の時間はすぐに終わってしまう。私は少しだけ寂しく感じた。
「茜ちゃん、また月曜日ね!」
「こら、先生と呼びなさい! またね」
「ばいばーい!」
「はい、さようなら」
生徒たちが全員音楽室から出て行ったことを確認し戸締りをする。職員室に戻り、今日の日誌を書きまとめる。そこへ、吹奏楽部主顧問である須藤明彦先生が顔を出した。
「美音先生、お疲れ様です」
「あ、須藤先生。お疲れ様です」
「今日はどうでした?」
「みんないい顔で演奏していましたよ。気になるなら来ればいいのに」
「いやいや、俺は嫌われてるから。『須藤は煙草臭いから嫌』『真面目に教えてくれないから来なくていい』、とかね」
「あはは……」
流石に本当のことだと判断してしまったので私は苦笑いする他なかった。
「それよりも、今日どうですか?」
くいっ、と須藤先生が指を動かす。飲みの誘いだった。
「あー……いえ。今日はちょっと」
「いつもそうやってひらりとかわしますね~。いいじゃないですか今日くらい」
「はあ……。でも、やることが」
「少しくらい、ね」
須藤先生は私の横にいつの間にか座っており、机の上に置いていた左手の平に指を絡めようとする。私は小声で「セクハラですよっ」と一喝するが彼は聞く耳を持たないようだ。好意を持たれていることはなんとなく察していたが、これでは脅しにも取れるなとため息を吐く。私は、面倒になったのかいつしか抵抗することをやめていた。
「……行けばいいんですね?」
「そうこなくちゃ」
そして再び落胆。まあ、金曜日だしいいだろう。明日は土曜日で吹奏楽部の活動もない。仕方ない。付き合ってやろう。
「でも仕事が終わらないと行けないんで、退いてくれませんか?」
「いや、終わるまでここにいよう。君は見ていて飽きない」
「馬鹿なの?」
「敬語!」
「――美音先生!」
不意にほかの教員に声を掛けられ、勢いで隣に座っていた須藤先生を押し倒してしまった。ガチャンッという大きな椅子が倒れる音が職員室に響いた。
「大丈夫ですか?」
「ご、ごめんなさい! あの、なんでしょうか?」
「あ……。それが、安藤総合病院の三浦先生という方からお電話で……」
「え…………?」
――今日、あの子が迎えに来るのよ。私を殺しにね。
朝の、母のあの言葉が過ぎった。
電話を受け取る手が震える。恐怖が冷や汗に代わっていく。
「……はい、美音です」
『…………美音さん、落ち着いて聞いてください。
――お母さまの美音雪子さんが、亡くなりました』
時が止まった気がした。職員室に飾ってあるカレンダーが目の端に映る。
五月二十二日、金曜日。
――今日、あの子が迎えに来るのよ。私を殺しにね。
あの言葉が耳から離れない。電話越しに担当医が何か言っている気がしたが、私は電話から手を放し、職務を放棄していつの間にか職員室を出ていた。
タクシーを拾い、急いで病院に向かう。嘘だ。あの人が死ぬはずがない。嘘だ。そんなのあり得ない。震える手を必死に抑えながら、病院に着き、病室に急いだ。
病室には数名の看護師と担当医、三浦先生が母の周りに立ち尽くしていた。
「美音さん……!」
「お、母さんは?」
「蘇生を試みましたが……」
三浦先生の腕の隙間から、母の姿が目視できた。顔色は白く、朝とはまるで別人だった。
「朝まで……生きてたのに……?」
――今日、あの子が迎えに来るのよ。私を殺しにね。
五月二十二日、金曜日。
母が、死んだ。十年前の今日、死んだ姉によって、死んだのだ。
§ § §
死亡診断書に名前を記入し、遺体の安置やら葬儀のことやら一通り病院側の説明を受けた後、私は覚束ない足で病院を出た。
何もやる気が起きなかった。学校に連絡を入れなければならないのに、手が動かない。
私は、ついにひとりになってしまった。
やっとの思いで住んでいるマンションに辿り着き、部屋の鍵を開け中に入る。玄関先で靴を脱がずにその場に座り込む。
――有休、取らなくちゃ……。
頭では分かっていても、実行に移せない。やらなければならないことが山ほどあるのに、今はとても眠かった。私はそのまま倒れるようにして床で眠ってしまった。
§ § §
バサリと揺れるカーテン。
母の頬に涙が流れ、小雨が室内に入る。
ベランダへとつながる大きなガラス戸は開いていて。
私は、どうすることも出来ず、ただ。
ただ、彼女が落ちていく瞬間を見ていることしか出来なかった。
また、同じ夢を繰り返し見る。この夢はきっと私の過去の記憶なのだろう。けれど、私はその当時のことを覚えていない。
十年前、双子の姉が死んだ時のことを、何一つ覚えていない。
目覚まし時計が鳴る前に目が覚めてしまった。というのも、床で眠っていた所為で体が悲鳴を上げていたため、反動で目が覚めた。土曜日、時刻は朝の九時。休日にしては上出来だ。ゆっくりと体をほぐしながら起き上がる。まずはシャワーを浴びよう。きっと汗や涙で化粧がぐちゃぐちゃになっていることだろう。よれたスーツをかごの中に無造作に入れ、シャワーを浴びた。十分ほどで上がり、ドライヤーで髪を乾かしてリビングに向かう。冷蔵庫から野菜ジュースをコップに入れ、テレビの前にあるソファに座りテレビの電源を入れる。朝のニュースでは「好きなクラシック曲はなんですか?」というコーナーがやっていた。
「……好きなクラシック、ねぇ」
バッハ作曲、パルティータ第三番がテレビ内で流れる。
この曲は、一番好きだった曲だった。けれど、今は嫌いだ。無意識にテレビ画面から目を逸らす。すると、ピコンと携帯が鳴った。差出人は“郁さん”。母が開いていた音楽教室で教えていた生徒のひとりだった。
「郁さん?」
内容はこうだ。――今から会えませんか? たった一文。
「…………会えます。送信」
私は簡潔に返事を返し、部屋を出る準備をした。
「……茜さん! お久し振りです」
「郁さん」
四藩駅からすぐの集合オブジェがある場所に郁さんはいた。
立ち話も何なので、と私たちは駅近くにある少し洒落たカフェに入った。お互いに注文した飲み物が来ると一口だけ口にして私は郁さんに切り出す。
「十年ぶりですね、連絡をもらった時はびっくりしました。お元気でしたか?」
「ええ。この通りです。……雪子さんのこと、聞きました。この度は、惜しい人を亡くしましたね」
「……そう、ですね。はは、やること山積みで、混乱してます」
「……。あ、そういえば、今日は私にお話ししたいことがあるのでは?」
だから会ってくれたんですよね? と自嘲気味に郁さんが笑う。私は俯くように頷いた。
「……まさか、本当にその日に死ぬなんて……思わなかったんです」
「本当に? それはどういう」
「……母が、死ぬその日の朝、言っていたんです。あの子が私を殺しに来るって。多分、あの子というのは雫のことで……。でも絶対あり得ないんです。だって雫は、姉は――」
「十年前に、死んでいるから。ですよね」
「……はい」
そう。十年前に姉の雫は死んでいる。だから、母の言っていた言葉が理解できなかった。けれど、本当にそうだったのではないか、と思わされる死に方をした。心臓発作による突然死ではあったが、不審死、に近かったそうだ。
「……まあ、母も、これで楽になったんじゃないかなって思いますね。生きていても、死んでいるようなものだったので」
「……晩年の雪子さんは儚い感じがありましたね~」
「そんなこと言うの、郁さんくらいですよ」
「厳しくご指導、愛して頂いた人なので、嘘でも言わないと。はははっ」
今何か黒いものが垣間見えたような……。私はリアクションに困ったのでとりあえず苦笑しておく。
「……あ。そうだ。郁さん。実は母さんから遺言で遺品を全て残すな、と言われていまして。私一人ではとても整理しきれないので助けていただけませんか?」
「遺品整理、ですか! 私なんかがいいんですか?」
「だって、……頼れるの郁さんくらいだし……」
「なるほど、そういうことでしたか! 雪子さんの娘さんである茜さんのお願いとあらばぜひ、喜んで手伝いましょう」
「ありがとうございます」
よかった。お母さんの知り合いは他にも沢山いる。けれど、彼女が死んだことによって彼女の所有していた珍しい楽譜やコレクション、楽器などを知らない人に触られるのは気が引けた。あわよくば盗まれるということも視野に入れなければならない。気を張ってまであの家の中のものを整理していくのは至難の業だ。
「珍しい楽譜、気になったものがあればもらってもいいんですか?」
「もちろん。全部捨てていいとのことだったので」
「やったー! ちょうどいい機会でした。茜さんに渡したいものもあったし。一石二鳥です」
「は、はあ……。じゃ、じゃあ来週の土曜日、場所は実家に集合でいいですか? 時間はまた後ほど連絡します」
「了解しました」
そう言って郁さんがテーブルの端に置かれていた伝票をヒョイと取ってしまう。
「あ」
「ここは私が。また来週」
郁さんは逃げるように伝票を持ち出し、代金を払って店を出て行ってしまった。その後ろ姿を見て私は咄嗟に「なぜこの人はモテないのだろう」と本気で思った。
店員に説明し、私も店内を出る。外は雲が厚くなっていて今にも雨が降りそうだった。急いでマンションに戻り、貴重品を持ってもう一度部屋を出る。向かう先は実家。来週の撤去までに一度様子を見に行っておきたかった。実家を出てから随分になる。心の整理の為にも見ておきたかった。
実家に着き、扉の鍵を開ける。ガラガラという無機質な音が妙に寂しさを感じさせる。
「……ただいま」
その声に応える音はない。分かってはいたことだけど、私は無性に寂しくなった。この家はこんなに静かだっただろうか。
お母さんが死んだなんて、まだ信じられない。
この心の焦燥感は雫が死んだ時と同じだ。
美音雫。双子の姉であり、十年前にある事件で亡くなったと聞く私の半身。
「人が死ぬって、こんなにも静かなんだ……」
一通り、家の中を確認していく。物は思っていたよりも少なく、少し安堵した。ふと、何かの気配を感じ、私はその気配のしたリビングに向かった。まるで吸い込まれるように入ったリビングに、目を逸らしたくても逸らせない、雫のストラディバリウスが埃を被りながらも夜光に照らされ存在感を放っていた。
ゆっくりと近付いて、ひと撫でする。彼女が生きる理由として大切にしていたものだ。お母さんも捨てるに捨てられなかったのだろう。世界に数本、高額なもの故、かもしれないが。
「…………お姉ちゃん、お母さん死んじゃったよ」
私は悪くないが、とてもごめんと謝りたくなった。
明日は通夜で、明後日がお葬式。やることは沢山ある。よし、と気合を入れ私は家を後にした。
§ § §
通夜と葬式には沢山の人が母を弔いに来た。人望があったとは意外だった。現役から退いてもう結構経つというのに、彼女の音楽家としての名前は業界内では健在だったようだ。嬉しい気もするが、私にとっては八割方複雑な気持ちが勝った。
一通り、母の友人や知り合いたちに挨拶を済ませて会場を立ち去る。耐えられない。十年前のあの時も、私はこうして目の前の現実から逃げ出した。怖気づいたのだ。人の死に。あの言葉に。
数時間後、全工程が終了し、帰宅する。マンションに着いたのは午後十時だった。有休を使って休んだので明日には学校に戻らなければならないと思ったのだが、昨日、今日の葬式のことを電話越しに聞いていた須藤先生が「一週間ほど休みなさい。今のあなたには休息が必要です」と言ってくれたので、その言葉に今まで我慢していた涙が出た。
そうだ、と手に持っていた袋の中に入っていた携帯電話を取り出す。
「……郁さんに、電話」
指を画面に滑らせ電話番号を検索する。郁さんの電話番号を確認してタップする。2コール目で彼女は電話に出た。
「…………あ、もしもし郁さん。昼間はお忙しい中ありがとうございました……」
『いえいえ。恩師のお葬式ですから。それよりも大丈夫ですか? 随分とお疲れですね』
「ええまあ。こんなに体力勝負とは思いませんでした」
『雪子さんはこれを二回も経験されてますからねぇ。凄い精神力でしたよね』
二回……? 一瞬、郁さんの言葉に意識が取られたが今はそこを気にしている場合ではない。
「あの、今週の土曜日なんですけど、朝の十時に実家集合でお願いしてもいいですか?」
『ええ、全然構いませんよ~』
「ありがとうございます。では、また土曜日」
電話を切り、用意していたお風呂に入る。湯舟が温かくて気持ちがいい。意識が微睡み、危うく溺死するかと思ったのは言うまでもない。
約束の土曜日。私は早めに行こうと思い、九時にマンションを出た。ここからの距離で実家までは三十分ほどで着く。余裕を持って出たつもりだった。
出発して携帯を確認した。郁さんから一文、メールが届いており、その内容に私は本気で引いた。
実家前にはすでに郁さんが立って待っていた。
「……郁さん」
「おっ。おはようございまーす、茜さん」
「あの。この間言ったこと、覚えてます?」
「え? えーと……美音家に集合?」
「その前! 十時に、集合! あんた私の携帯に連絡してきたのいつですか!」
私は携帯画面に彼女とのトーク履歴を見せつける。そこには『着いちゃいました~』という文が可愛らしいスタンプと共に送られていた。しかし問題視するべきはそこじゃない。
「何時からここにいんだあんた!」
「七時……?」
「なんでだ!」
この人は時間を守ることをほとんどしない。いや、遅刻することはまったくないと言っても過言ではないが、それよりも早く来すぎる傾向にある。これではこちらが遅刻してしまった感覚になるのでやめていただきたいと切に願っている。
「……はあ。もういいや。どうぞ、上がってください」
「すみません、いつもの癖で。お邪魔しま……。……ん?」
ふと、玄関先で郁さんが立ち止まる。
「あの、何か?」
「今、何か音がしませんでした?」
「え? ……」
耳を澄ませてみるが何も聞こえない。
「何もしませんけど。恐いこと言わないでください」
「あはは、すみません。 私の気のせいですね~。さ、さっさと片付けてお昼に美味しいものでも食べに行きましょう!」
で、どこから? となんとも言えない顔でこちらを向いた郁さんが可笑しくて吹いた。
とりあえず郁さんにはリビングの清掃をお願いし、私はその横の広間を片付ける。広間にはひとつ大きく立派なグランドピアノが置いてある。これは母のもので、小さい頃はみんなで弾いたものだ。埃が舞っており、少し可哀想に見えてしまう。この子も捨てなければならないのかと思うと心に来るものがあった。
壁際には箪笥が設置されており、写真立てがいくつか並んでいたが全て伏せられていた。その中の一つを手に取る。そこには、私と母と、雫が笑顔で写った写真が入っていた。
いつから私たちはバラバラになってしまったのだろう。
「……そういえば郁さん」
「はい?」
「この間、私に何か渡したいものがあったとか言ってましたよね?」
「は?」
「は?」
「なーんて! 冗談ですよ! ちゃんと持って来てます。ちょっと待っててくださいね」
「今絶対忘れてましたよね? 郁さん⁉」
渡したいもの、というのは一体何なのか。私は郁さんが戻るまで箪笥の中を確認する。小さい頃のアルバムが何個か収納されていた。どの写真もよく撮れていた。けれど日付が確認できたのはどれも十五年前まで。きっと、ここから崩れ始めたんだと感じた。
「すみませんすみません。カバンの中に入れていたと思っていたんですが、カバンを車の中に忘れていました~。はい、どうぞ」
「……これは」
「いえね、雪子さんが亡くなったと連絡をもらってから、ちょっと気になって自分の家の本棚を整理したんですよ。そうしたらこんなものが出てきたものですから。茜さんにぜひお渡ししたいと思いまして」
はい、とクリップ止めされた紙の束を受け取る。
「これは、雫さんの遺品です」
そうだ、間違いない。渡された紙面の正体は楽譜。そこにはメモの字がびっしりと敷き詰められていた。これは、雫の字だった。
楽譜の内容は『パッサカリア』。ヘンデル作曲の二重奏曲。雫の一番好きだった曲だった。
「どうして、今まで見つからなかったのか……。まさか、郁さんのところにあったなんて。でも、今更……見つかっても、もう……」
「意味がない?」
「そういう意味じゃ! ……ないんです、けど」
図星をつかれ、私は口ごもった。
「……あー、あの、茜さん」
「はい?」
「これは……やっぱりやめておきましょうか! さー、掃除の続きを、」
「ちょっと待て。今何で言うのやめました? 何の話をしようとしてました?」
「んー……。さっきの、音のことなんですけど」
「はい」
「さっき、見てしまったというか……視えてしまったというか……?」
「はい。」
――ん? 今なんて?
「……だからね、視えたんですよ! 彼女が!」
「………………は?」
その言葉の意味を、すぐには理解できなかった。
「君の、双子のお姉さんの美音雫さんが、そこに!」
「は、はあ⁉ じょ、冗談よしてくださいよ……」
「冗談だったらまだそれっぽく言いますよ。けどね、はっきり視えちゃって」
それに、と付け足す。
「その子、彼女そっくりに微笑んだんですよ。しかもヴァイオリンを弾きながら!」
ほぼ、間違いないかと、と郁さんが言う。
そんなことはあり得ない。何故なら雫は、何よりこの場所が嫌いで。実家にいることすら息苦しいと言っていたくらいなのに。
「……本当に、はっきり……見たんですか? 雫、お姉ちゃんを」
「視ちゃいましたね~、雫さんを」
「郁さん、それ、絶対雫じゃないです。……だって、郁さんも知ってるでしょ」
「何をですか?」
「雫は……十年も前に亡くなっています。これじゃあまるで幽霊じゃないですか」
「……でも、茜さん。雫さんが亡くなった当時のことを忘れているでしょう? もしかしたら死んでいなかったかも、とは考えたことはないのですか?」
「それは! ……そう、ですけど……」
確かに私は、雫が死んだ時のことをはっきりと憶えているわけじゃない。死んだ理由も、どうして死んでしまったのか。どうして憶えていないのか。ただ気付いたら目の前から消えていた。
「そう睨まないでくださいよぅ。可愛い顔が台無しだ!」
「ふざけないでください。……そもそも雫はこの家でヴァイオリンを弾くことが嫌いでした。だから、あり得ない」
「あはは。そうでしたね~。寒い日でもうちに来て弾いていたくらいでしたからね。“音がこもるのは気に食わないけど、あんな家よりはマシよ”って……。あれ、結構酷いこと言われてました、私?」
「そんなことを言う雫が……この家に化けてまで出てくるはずがない。……しかもここで弾くことが一番嫌いだったヴァイオリンを演奏するなんて」
「ふーむ。考えれば考えるほど、謎ですね~」
「そもそもの話をしていいですか?」
「はい?」
「郁さん、幽霊なんて信じてますか?」
「信じてるような顔に見えます?」
「――ぜんっぜん、信じているようには見えないわね」
「やっぱりそう思いま…………ま?」
ふと、郁さんの言葉が中途半端に止まる。私も「見えない」と便乗しようと思ったが、それはある声によって遮られた。
知っている声。今一番、聞きたかった声。けれど、聞くことは叶わないと思っていた声。
「あなたのそういう、いい加減なところ? というか何も考えていないところ。大嫌いよ」
意地の悪そうな顔をして、ぷにっ、と郁さんの頬を人差し指でつつく。目の前にいる『それ』は、彼女の形をしていた。彼女――雫に、とてもよく似ていた。
「で、で、で、出たぁああ‼ ほら、言ったでしょ茜さん! 雫さん、出たでしょ⁉」
「……視えてる……。浮いてない……。実体……?」
嘘でしょ、と掠れた声がどこからか聞こえた気がした。雫は頭上にクエスチョンマークを浮かべてこちらの様子を窺っていた。
「? 自分の家に僕がいて何が悪いの? 茜まで……どうして驚く必要がある。ここ、僕たちの実家だよね」
「そうだけど……。……なに?」
何か不思議そうに雫が私を見つめる。昔からそうだった。私の心を読むかのように、喰らおうとしてくるその目が、吸い込まれそうになるその目が私は少しだけ苦手だった。
「……随分、大人びたじゃない。彼氏でもできた? それに……どうして制服を着ていないの? 今日は休日だったかしら」
制服、という単語を聞いて私はハッとした。目の前にいる彼女は高校生の姿のままだ。夏服のセーラー服。その昔、天才と呼ばれた雫。学校に通うことすらままならなかった所為か、休日でもよくセーラー服を着ていたことをふと思い出した。
「そ、それは……。十年も経ってれば私だって大人になるよ!」
思っていたよりも私の口から出た言葉は大きく叫んだようだった。自分でも驚いた。目の前の雫も、目を見開いていたが、笑顔は消え失せていた。
「十年? なんのこと?」
憶えていない? 自分が死んでいることも、私が大人なのも、雫は分かっていない。分からないんだ。不意に目の前にいる彼女が“自分は幽霊なのだ”と伝えてはいけないと私の本能が告げていた。
「茜?」
だから、この質問に、答えるべきじゃなかったんだと今なら思う。けれど、私はこの時聞いてしまったんだ。「今年が何年か、分かる?」と。
彼女はこう答えた。「今年は2010年でしょう?」と。それは、雫が死んだ年だった。
「違う……。今年は、2020年だよ」
「……は? 嘘。馬鹿言わないで」
「嘘なんか言ってない」
「茜のくせに私に嘘つくなんて生意気‼」
「な、生意気⁉ どっちが!」
「ちょ、ちょっとちょっと! 感動の再会でしょ、喧嘩しないの。魂の繋がった双子の姉妹じゃないですか。もっと仲良くしようよ」
「あんた、僕と茜とどっちの味方!」
「郁さん、どっちの味方するんですか!」
「え、ええ~?」
郁さんは困った顔をした。それもそうだ。急に幽霊が出てきて、それが十年前に死んだ姉で。でもあの頃と何ら変わりのない、調子で喋るものだから、私もどんどんヒートアップしてしまった。
「はあ。飽きれた。茜が僕の言うことを聞かなくなる日が来るだなんて」
「私だってあの時のままじゃない。もう大人なの!」
そう。私だって大人だ。あれから十年。二十八歳なのだから。
「帰ってきて損した」
雫は興味をそがれた表情をして、肩に掛かった長い髪を一回払うと姿を消した。
言葉のまま、姿を『消した』。
「あららら。行っちゃいましたね~」
「行ったというか、消えたよね……? 今の、夢じゃないですよね。郁さんにも、見えてましたよねっ?」
「見えてましたね~」
「はっきり」
「ええ、はっきり」
「……やけに、あっさりしてますね」
「まあ、以前から何となく霊感はある方なのかなとは思っていましたので。別に平気というか」
「じゃあさっきの驚きようはどう説明する……って、もうこの話はどうでもいい! それよりもなんで雫がこの家にいるのか、よね」
「さて、さっさと片付けの続きを――」
「逃げちゃ、ダメよね。こういう時こそ、ちゃんとしなきゃ」
「茜さん? 早くしないとお昼が……」
「郁さん!」
私は思わず郁さんの両手をぐっと勢いよく掴んだ。郁さんは私の行動に驚いた表情をしていた。
「少し、協力していただけますか?」
§ § §
「十年って何? 意味が分からないんだけど。……。えーい、考えるだけ無駄無駄!」
消えた後、彼女は再び姿を現した。しかし現したのは茜たちのいる一階ではなく二階だった。右手には知らぬ間にヴァイオリンを持っており、雫はそれを持ち上げた。
「……結局僕には、これしかないのか」
雫は持ち上げたヴァイオリンを右肩に置き左下部にある顎当てに顎を置く。そして弓をゆっくりと引く。美しい音色が部屋中を舞う。
曲名は『G線上のアリア』。昔、バッハが好きだった“父”に教えてもらった最初の音楽だった。けれど上手く弾くことが出来なくてとても悔しい思いをしたものだ、と雫は苦笑する。不意に「カシュッ」という缶を開ける音と誰かの足音が雫の聴覚を刺激した。郁が部屋のすぐそばにある階段の最上部に腰掛けた。
「懐かしい曲ですね。G線上のアリア。うん、美しい曲だ」
「……」
「どうなさったんです? この選曲は、雫さんらしくない」
「……。なんのこと」
「どちらかというと、この曲は茜さんが好みそうな――」
雫は急にG線上のアリアを弾くことを止めた。妙なタイミングで曲が止まったため、郁は思わず咳き込んだ。
「こふっ……。なんで急に止めるんですか」
「分かったような口、聞かないでくれる?」
「うわー。相変わらず素の君は口が悪いなあ。でもこうでなくては面白みがありません」
「何しに来たの。掃除は」
「今は休憩中です」
「あ、そ」
再び郁は飲んでいた缶コーヒーに口を付ける。
「……何故、その曲なんです? この家でそれを弾くことを嫌っていたでしょう」
「……」
「なんでかなーと思って」
「……僕が、どこで何をしようが僕の勝手でしょ。お小言は嫌い」
「お小言だなんて言ってないですよ?」
「そういう郁、大嫌い」
「それはすみません」
これ以上話したところで何の解決もしない。昔から郁はこういう人間だったと雫は思い出す。言い合いで勝てたことなど一度もない。そのことを思い出すと「はあ」と大きなため息を吐いた。
「あ。飲みます? 飲みかけですけど」
「コーヒーは嫌いなの」
「そうだった、そうだった。そうでした。すみません、忘れていました」
「いちいちむかつくわね」
「誉め言葉と受け取っておきますね」
やはり、いまいち読めない人だ。雫は再びため息を吐き、首元に手をやった。それほどかゆいわけではなかった。けれど思ったほか力が入ってしまい、それが小さな傷になる。
「……雫さん、首、かゆいんですか?」
「! 別に。なんでもない」
「そうは見えませんでしたけど……。もしかゆさが続くようであれば台所の引き出し三段目に軟膏があったはずなのでよかったら」
「だから別になんでもないって言ってるじゃない! てかここ僕の家だし。なんでそんなうちに詳しいのよ。部外者のくせして!」
「そりゃあ茜さんに頼まれて家の整理整頓をしに来ているわけですから。嫌でもどこに何があるかくらい覚えますよう」
「その記憶力、何か別のことに使ってくんない? かゆ……」
「ああ、ああ! そんなに掻いたら荒れちゃいますよ。凄くかゆそう……。ああ、見ているこっちがかゆくなる!」
「だったら見なければいい!」
「見えちゃうんだから、仕方ないですよ」
――ほんとなんなのこいつ! いつもいつも人の神経逆撫でして。茜はどうしてこんなやつのことを好いて……。雫はここまで考えて、ふと思い止まる。
「……茜?」
「今何か言いました?」
「どうして茜は郁を呼んだの」
「どうしてって。それは直接彼女に聞いてみてはどうですか?」
「それができないから聞いてるんじゃない」
――あれから茜は、僕を避けてる。
「んー。……雪子さんの遺品整理に呼ばれたから、来たんですよ」
その言葉に、一瞬周りの時間が止まったような気がした。
「あの人の? はっ。なに。あの人やっと死んだの?」
く、くくく、くふっ。雫の口から不敵な笑みが零れる。本気で、笑っているようだった。
「……それから。あなたの遺品が出てきたものですから。茜さんにお渡ししておきました」
「僕の遺品……? 何言ってんの? 本気で頭のネジどっか行ったんじゃない?」
「まあ。追々、嫌でも理解すると思いますよ――って、おわっ!」
雫は郁の背中に自身の左足を乗せ、ぐっと力を入れる。
「あぶ、危ない! 危ない‼」
「あんたの戯言になんか、付き合ってやるものですか」
「えっ」
不意に先ほどまでかかっていた彼女の左足の体重が消えた。郁が不思議に思い振り返った時には、すでに雫は消えていた。文字通り。
「あー、行っちゃったか。……ふぅ。……真実というのは、時に残酷なもの」
――できれば、あのことは私からは伝えたくないな。
茜の記憶が先か、それとも、雫に気付かれるのが先か。郁は残った缶の中のコーヒーを飲み干した。
階段を降り、台所に向かうと軟膏を手に取った。一回も開けられていないところを見ると雫はこれを使うために消えたわけではなさそうだった。
「郁さん?」
「おぅっと! 茜さん。驚かさないでください」
「え。驚かせたつもりはなかったんですけど……」
「どうされたんです?」
「あ……。……さっき、二階から、幻聴でなければ雫の演奏が聴こえたものですから。その、一緒にいるのかなと思って」
「ああ。先ほどまで一緒でしたよ。コーヒーは嫌いだと、残りは断られてしまいました」
「いや、そもそもの問題かと……。……」
「……? どうしました?」
「あ、いえ。……雫は、自分がもう死んでいるということ、理解してないのかなと思って」
「さあ。それはどうなんでしょう。あの感じだとなんとも。ただ自覚したくないだけなのかもしれないし、知っていて、その理由を私たちに知られたくないだけなのかもしれない」
果たして、そうなのだろうか。十年前に死んだと彼女に告げた時、雫は知らないような素振りをしていた。けれど私たちに対して嘘を吐いていたとしたら。
「ねえ、茜さん。もし雫さんが“自分が幽霊だ”ということを自覚していたとして……。茜さんに何か不利益でもあるんでしょうか?」
「え?」
郁さんが私に告げる。その言葉の刃は、普段のふんわりした心地の良いものではなく、真剣そのものだった。ピリピリとした空気を含んだ言葉に私は思わず息を呑む。
「彼女が……死んでいて、そのことを忘れていると思わせているだけだとしたら。私たちに嘘を吐いていたとしたら。その理由を知って、茜さんはどうしたいんですか?」
「どうしたい……?」
どうしたいかなんて、考えてもみなかった。私は……どうしたいのだろう。
「大切なのは“知ること”ではなく、きっと“その後どうしたいか”ですよ。ゆっくり考えてみましょう。時間は沢山ある」
「そう……ですね」
「あ、コーヒーごちそうさまでした。では片付けに戻ります」
郁さんは台所のシンクの中に空になった缶を置いた。
どうしたいか。今まで無意識のうちに閉じ込めていた記憶が溢れ始めて内心パニック状態に陥っている。けれど、たとえ幽霊だとしても構わないと今ならそう思える。お母さんのこと、ちゃんと雫に話すべきだ。家族なんだから。
「――よし!」
私は食器棚の中にあったガラスのコップを簡単にゆすぎ、水を入れそれを飲み干し、片付けの続きに戻った。
雫は玄関先の戸棚の上に置いてあったひとつの封筒を手に取った。
「……葬儀会館ハシモト。
……故人様名……美音、雪子。――ふーん。本当に死んだんだあの人」
雫は笑みを零し「ざまーみろ」と吐き捨て、封筒をぐしゃりと握り潰した。
§ § §
十二時になり、いいところで区切りがついたので郁は茜のいるであろうリビングに声を掛けようとした。
「茜さん、そろそろお昼にしませんか……」
「すみません、須藤先生。今家のことで手が離せない状況で……。ええ、週明けのリハには必ず参加しますから。はい、すみません――」
茜はなにやら電話越しに謝っていた。話しかけられるタイミングではないと感じると、郁はすぐそばにあった椅子に腰かけ、電話が終わるタイミングを見計らう。
「……いやー。茜さんモテてますね~。今の電話、きっと勤務先の学校の先生からですよ。あの感じからいくと、彼氏さんですかね。ね、雫さん!」
「……なんで僕に振るの」
やめてよ、と雫が飽きれた目で郁を見る。
「君がそこにいたからですけど。気になったから現れたんですよね~?」
「……うざっ」
「目を見れば分かりますよぅ。何年の付き合いだと思ってるんですか」
「一日の間違いじゃない?」
「そう! 一日! ですが生前から数えれば二十年と一日、ですよ! 出会った時は八歳。あんなに小さくて可愛らしかったのに、どうしてそうなってしまったのか……! しかも昨日はとても安眠できて、むしろ幽霊がいない生活の方が苦痛だということに気付いてしまったんですが⁉」
「いやなんで逆ギレ⁉ 僕は幽霊じゃない! あと安眠できて良かったわね!」
「ええ。もうこれでもかというくらいぐっすりでしたよ、ええ」
「だからなんなのよ」
「いやー。雫さんはずるいな。私なんか十年で三十五歳になってしまいましたよ。歳を取りました」
「どうしたら今の流れで歳の話になるの。ていうか三十五⁉ 老けたわね」
「君のせいです」
「そんなわけないでしょ。話の脱線がえぐいわよ」
「どう責任を取ってくれるんですか? 結婚ですか? 結婚して責任取ってくれますか?」
「未成年に手ぇ出したらどうなるか分かってて言ってる? 分かってて言ってるならどうぞご自由に?」
「女性の結婚は十六歳から可能ですよ」
「あんたの過去の犯罪歴をここでばらしてもいいのよ。茜ー?」
「ごめんなさい。もう言わないんで、てか、黙るんで。勘弁してください雫さん」
「ていうかそもそも同姓だから」
「愛は絶対ですよ」
「捕まってしまえ」
「ま、冗談はさておいて。知っていましたか、茜さんがどうして高校の先生になったのか」
雫は郁にそう問われ、少なからず反応を示した。
「知らない……。僕は、高校三年間家にいることが少なかった。進路で茜が何を目指していたとしても興味はない。茜は茜の道がある。そうして今があるのなら自分で決めた道だもの、僕が口出しすることは何もない」
「クールですねぇ。そうでした。当時はリサイタルのお仕事、多かったですもんね」
高校生にしてプロのヴァイオリニスト。美音雫と言えば音楽業界、その界隈で知らない人はいないほど有名であった。
「高校生でプロデビューだなんてマンガだけの話かと思っていましたが、まさか幼馴染が現実にそうなるなんて……夢にも思っていましたよ」
「思ってたんかい! どこからそんな自信が沸いて出るんだ……」
「――茜さんね、雫さんの為に教師になったそうですよ」
「………………は?」
やっとのことで発した声は、聞こえるか聞こえないかくらいの声量で自分でも驚いた。
「僕の為……ですって?」
「そう。……茜さん的には、雪子さんの後を継ぐのは雫さんしかいないと考えていたようですが……。その前に、」
郁が続きを言おうとした瞬間、雫がその言葉を遮った。
「それと僕と、何の関係があるの。茜が僕に、あの人の後を継がせようとしていた? 笑わせないで」
「どうしてそうしようと思ったのか、茜さんの気持ちが本当に分からないんですか?」
「……黙れ」
「考えることを止めないで。恐くないですよ。大丈夫ですから。……だから、そんな泣きそうな顔をしないでください、雫さん」
思わず息を呑む。「ひゅっ」という引き攣った音が喉元を通った。ぎりっ、と歯を食いしばり手をぐっとこれでもかというくらいの力で握り締める。恐怖、そんな感情が雫の中に見えた瞬間だった。
「――いや、ですから何度も言ってますけど、そのメールに意味はあんまりないというか! いや、あるんですけど! ……えーい、とにかく! 週明けのリハにはちゃんと行きますから! え……すぐそこまで来てる? 私、実家の住所あなたにお伝えしてないですよね? 校長に聞いた? は? ちょ、ちょっと待ってくだ……って、切りやがった……。あー、もう‼」
私は須藤先生との会話を中途半端に切り――正確には切られ――、急いでリビングに置いておいたカバンを手に取り携帯をズボンのポケットの中に仕舞う。側にあった椅子に、いつの間にか郁さんが座っており、私を見てにこにことしていた。
「どうでした、電話の方は」
「学校の同僚から。なんか、郁さんとは違う意味でめんどくさい人なんで、めんどくさいことになりました。すぐに出ます。夜まで戻れないと思うので、家のことよろしくお願いします! すみません!」
私は早口で郁さんに伝えることを伝え終え、急いで玄関に向かい靴を履き、髪も整えないまま外で待っているであろう須藤先生を探しに出た。
そういえば郁さん、さっきまで誰かと話していたような。――まさか、雫と……だったりしてね。なんて願望を抱きつつ、外に本当に須藤先生――の車を発見して顔が青ざめたのは言うまでもない。
残された二人はどうしていいのか分からず、数分固まっていた。
「……今、さらっと凄いこと言われてたわね」
「えー、お昼どうすればいいんですか? コンビニかなあ。雫さん、お留守番頼めますか?」
「どんだけメンタル強いの。メンタル鋼で出来てるんじゃないの?」
「いえ、結構傷ついてますよ? どちらかと言えばガラスです」
「強化ガラスの間違いだわ」
「ふふふ。どうやら私は君たち姉妹の神経を逆撫でする天才のようだ」
「否定はしない」
「自覚してますから」
「余計質たちが悪いわ」
「さて、と。とりあえずお昼ご飯にしましょうかね。雫さんは何か欲しいものありますか?」
「いらない」
「そうですか。じゃあ買ってきますね」
「勝手にどうぞ」
郁はなんやかんや言いつつもちゃんとこの家のスペアキーを所持しており、鍵を閉めコンビニへと向かった。ひとりになった雫はシンクに滴る水の撥ねる音を聞いて、小さくため息を吐いた。
「……茜はきっと夢を諦めたんだ」
血の滲むような努力をしてきたはずなのに。僕に少しでも追いつこうと、一生懸命練習を惜しまなかった彼女が、どうして夢を諦める必要があった。
茜の方が才能があったのに。どうして彼女が――。
「どうして……!」
その答えは到底知る由もない。雫の呟きは空気の中に薄れ消えていった。
「ただいま戻りましたー。……雫さん?」
郁が帰宅した時、雫はリビングにあった椅子に腰かけてどこか現実ではない場所を静かに見つめていた。郁はこの時雫の心が空虚であると感じた。
「雫さん」
「……! あ、うん。お帰りなさい」
「何かありましたか?」
「……何も。」
「…………茜さんに隠していることについて、何か考えていました?」
雫が、郁を見つめた。その目は怒りに満ちていた。それが意図するものは図星だ。この空気に似合わない、コンビニで買った昼食の温まった匂いがリビング内に広がる。
「――そういう、確信ついてくるの、やめた方が身の為よ。友達が減る。ああ……もともといないのだっけ?」
「これは手厳しいなあ! あはは!」
なぜ笑うのか。雫は今自分が、郁にとって不利益になる言葉を発したというのに。悪いことをした、と自覚しているのに、郁は笑う。その理由を知りたいが、雫はどうしても分からなかった。
「…………絶対に……見つけなきゃ……」
「雫さん? 大丈夫ですか?」
「うるさい」
ガタンッ――雫は小さく苛立ちを机にぶつけ、その場を立ち去った。郁はコンビニのレジ袋の中から店内で温めてもらった購入品を机の上に出し、蓋を開ける。湯気が彼女の目に映るが、目の前にはもう彼女の姿は確認できなかった。
ふと、先ほど雫が呟いていた言葉を彼女は口にして反芻した。
「……見つけなきゃ、ですか。いったい何を探しているんですかね、雫さんは」
購入品のカレーにスプーンを入れ一口分の量を掬う。
「本当に、あなたの娘さんたちは放っておけないですね、雪子さん」
そしてその一口分を口に運び、咀嚼した。
雫は、焦っていた。郁に言われたことを思い出して、ではなく、抜けていた記憶が徐々に蘇りつつあることについて。
「……は、はあっ、はぁ……」
弾かなければ。
誰の為でもない。
自分自身の為に。
§ § §
結局、私は須藤先生に昼間に捕まってから五時間以上拘束され、その内容は学校のことではなく個人的なものだった。好意を持たれていることはなんとなく。けれど私自身、色恋に今興味が無かった。昼食を共にし、気付けば夕食まで。しまったと思った時には遅かった。
食中のお酒がどんどん進み、やがて須藤先生は潰れた。私は彼よりも強かったので、気力のみで帰宅した――ちなみに食事代は全て須藤先生につけた――。
「……ただいまぁ」
この時間なら、もう郁さんは帰ったことだろう。粗方一階は綺麗に片付いた。明日は二階を綺麗にしなければ。思考が上手くまとまらないのはきっとお酒の所為だ。
「飲み足りない」
そう思った。この程度ではいい気分にはなれない。帰り道にあったコンビニでお酒を買い込んでいたのが役に立った。カシュッとビール缶のプルトップを開け、一口ぐいっと飲む。
「……熱い」
私は庭にある縁側に腰かけ、空を見上げた。満月だった。風が吹いており、それが冷たくて気持ちが良かった。このまま眠ってしまいたかった。けれどそれは出来なくなった。
ふと、どこからか音楽が耳に入った。これは、パッサカリアである。
「……雫お姉ちゃんが、得意な曲……。何かあったのかな……」
お酒の所為かおかげか、気分が微睡んできた。今にも倒れ込んだら眠ってしまいそうだ。……思えば、雫が一緒に音楽をしてくれなくなったのはいつの頃だったっけ。
「……確か……プロになってから……?」
「……茜? どうしたの、茜」
遠くの方で雫の声が聞こえる。幻聴かな。それでもよかった。彼女の声は私の心をいつもふわふわと優しく撫でてくれる。涙が出そうだ。
「気分でも悪いの? ……お酒臭いわね。不良」
「……ふりょうじゃ、ないもん。あかねは、もう、にじゅうはっさいだもん」
口が上手く回らない。
「本当に、十年なのね」
けれど、彼女は信じてくれたようだ。落ちそうな意識をどうにか保ちながら、私は雫の顔を見る。雫は何故か、泣きそうな顔をしていた。ゆっくり、左手を私の頬に近付け、撫でるように触った。そうだ。不安な時や恐い時はいつもこうしてくれたっけ。
「大丈夫よ。大丈夫。茜のことは、僕が守ってあげるから。だから、大丈夫」
「……おねえちゃん……? なんで、泣くの?」
「……泣いてないわよ」
「うそだよ。知りたいよ、おねえちゃんがどうして、悲しい顔をするのか」
「…………知ってどうするの。どうすることも出来ないでしょ。どうしたところで今更、過去は変えられない」
雫はそう私に告げると立ち上がった。
「弾かないと怒られる。そんな音楽なんて、無くなってしまえばいい。僕たちを縛る音楽なんて、消えてしまえばいい! ……消えてしまえばいいのよ」
その言葉を最後に、私の意識は夢の中へと落ちていった。
§ § §
夢は見なかった。
チャイムの音で目が覚める。きっと押しているのは郁さん。あの人、意外と律儀だよななんて思いつつ、浮上した意識をしっかり起こそうと体を起こした。
「……は、い。今行きま……っっ⁉ いったー!」
昨日の深酒が祟ったのか。二日酔いらしく、ひどい頭痛が私を襲った。けれどここで倒れていても仕方がない。早く郁さんを迎えなければ。私は床を文字通り這いつくばりながら玄関のロックを外した。
「あ、おはようございます。よく……は眠れなかったみたいですね。二日酔い?」
「……あはは、みたいです。凄く痛いですね、これ」
「オルニチンでも食べます?」
「しじみ苦手なんで結構です」
「そうですか」
郁さんはさっさと台所に行き、コップに水を汲んで私に渡した。渡された水を私は一気に飲み干した。ただの気休めにしかならないだろうが、市販の頭痛薬を一粒飲む。
「……あんまり、憶えていないんですけど」
「ん、はい?」
「昨日、雫と話したんです。夢でも、とても幸せでした。いつもの雫が戻ってきたって」
「……たとえそれが、幽霊でも。ですか?」
郁さんが真面目なトーンで私に問う。
「……はい。何も、伝えられなかったあの日をいくら後悔しても、雫は帰ってこない。恐くて、お墓参りにだって行けてない。夢でも幽霊でもいいんです。今なら、ちゃんと伝えられる。……まあ、知りたいことを素直に教えてはくれませんでしたが」
「知りたいこと……?」
「はい。……っ」
頭痛がぶり返す。やはり頭痛薬では意味はないのか。ズキズキと晴れない痛みが続く。
「本当に大丈夫ですか?」
「……ええ。頭痛薬飲んだので、大丈夫です」
「でも顔色悪いですよ」
「……少し寝ようかな……。雑魚寝したのが悪かったのかも。三十分したら起こしてくれませんか?」
「それは構いませんが……。今日はどこを」
「に、かいを……お願いします……」
私は郁さんに指示を出し、自分の部屋に向かった。
ベッドに体を沈めるとすぐにまた夢の中に入る。
雫が近くにいて、何かを呟く夢だ。私は彼女には触れなくて、いつも見る夢とも違う。あの夢の真実を知ってしまったらもう続きを見ることは叶わないのだろうか。
――深く眠って。全てを忘れなさい。
――僕のことも、あの人のことも全て。
――そうすれば茜は、完璧になれる。
苦しそうにそう話す雫。どうしてそこまでしてお母さんを憎むのか。この時はまだ、私には理解が出来ていなかった。
「茜さーん、三十分経ちましたけど……大丈夫ですか?」
「ん……。はい。ありがとうございます」
「まだ顔色悪いですね。まだ休んでいた方が」
「いや、そういう訳にはいかないですよ」
「私が掃除はしておきますから。捨ててもいいか迷えばちゃんと起こして聞きますし、それにその頭痛は二日酔いの所為だけではないかもしれません」
「……」
「それに、明日までに治さないといけないんでしょう?」
「!」
郁さんは分かっている。明日の部活で行うリハがとても大事なものだということを。私は渋々家のことを郁さんに任せようとした。郁さんは微笑んで承諾してくれた。
せめて水分補給をと思い、コップを取りに台所に向かう途中、階段の側に何か黒いものが蹲っていた。その正体は雫だった。
「雫……?」
どうしたの……と声を掛けようとした時、ふと彼女の様子が可笑しいことに気が付いた。
――震えている……?
「…………絶対、守ってみせる……」
何を何から守ろうというのか。その目はどこも何も映していなかった。
「雫? どうしたの、こんなところで蹲って」
雫の肩に手を触れると、今気が付いたのか私の方を見て凄く驚いた顔をした。「どうしてここにいるの」と言わんばかりの表情で私を数秒間だけ見つめて、すぐに目を逸らした。
「なんでもない」
雫は私の手を肩から払うと、その場から立ち去ろうとした。私はすぐにそれを止める。
「なんでもないって……。……待って。行かないで」
「放して」
「どうして? なんでそんなに私を避けるの?」
「は? 別に避けてなんかないわ」
「じゃあどうして私を見てくれないの」
掴んだ腕が一瞬強張る。幽霊だというのに、実体を持っていることに疑問が募るが、しかし今はそんなことを気にしている場合ではない。今は、彼女を掴めるのだ。
待っていた返事は、私の想像よりも残酷なものだった。
「…………見る意味が、見つからないから」
私は思わず絶句して、掴んだ手に力が入った。痛みに顔を歪ませた雫の感情を無視して、私はもっと手に力を入れる。
「私、どうしてそこまで雫に拒絶されるのか分からない! ねぇ、こっちを見てよ、お願いだから! 私を見て!」
雫はようやく私の目を見た。ずっと、逸らすことなく、私の目を。けれど、どんなに頑張っても、雫の心を開くことはできないとここで初めて理解した。
完全なる拒絶。私は無性に泣きたくなった。
「……………………何も知らないくせに」
「……え?」
雫の目から、目が離せなかった。深い、深い黒。
「何も、知らないから幸せなの。それでいいのよ茜は」
なんで……そこで笑うのよ。知らないことがどれだけ恐いか、分かって言っているの? 私は知りたいことを知らないまま終わらせることが一番……。
その時、どうして私は気付いてしまったんだろう。
雫の、首元に赤い線が見えてしまった。
「茜さん、何を騒いで……って、あれ修羅場?」
郁さんが私が騒いでいるのを気にして、二階から降りてきた。いつもであれば突っ込むところだが、今の私にその心の余裕は無かった。雫の首元をもう片方の手で触れる。
「……これ、なに」
「……! 触るな!」
「雫、」
「茜さん、一体何を」
「この痣はなに!」
「放しなさい!」
「嫌! 答えるまで放さないから! これはなんなの⁉」
嫌がる雫をよそに、私の握る力は強くなるばかり。
「茜さん落ち着いてください。雫さんも嫌がってるじゃないですか」
「でも郁さん……!」
「よーし、両者落ち着くまで私が真ん中にいますから。ほら、これで安心だ!」
郁さんが私と雫を引き裂いて、双方の真ん中に立った。もう少しで大切な何かが思い出せそうだというのに、ここで引き下がれるはずがない。ふと、嫌な予感が脳裏を過ぎった。口にしてはならないことだということは理解していたはずなのに、ほろっと、漏れてしまう。
「…………それ、お母さん?」
「……っ」
雫の表情が、答えだった。
「茜さん」
「お母さんなんでしょ」
「茜さん、」
「まさか十年前――」
「美音茜‼」
……しまった、と思った時にはもう遅かった。郁さんが私を制した。
「そこまでです。雫さんが恐がっています」
「……私、今……」
「はあ。……雫さん、雫さん。大丈夫ですか?」
「…………っ、」
「雫……。雫‼」
雫は複雑な表情をしていた。泣きそうな顔だと思った。どうにか弁解を、と手を伸ばしたが、本気の拒絶を受け、雫は消えてしまった。
「雫さん⁉ ああ、もう……。茜さん、どうしてあんなこと……。茜さん?」
「…………あ、……郁さん……」
郁さんの顔を見た瞬間、私の体から力が一気に抜ける。私は思わず床に座り込んだ。
「はい」
「わ、私、何か思い出さないといけない気がするんです。あの時のこと、もうすぐ思い出せそうなのに……どうして思い出せないの⁉」
「無理に、思い出さなくても」
「だけど今思い出さないと、絶対、一生後悔する! 雫のこと、十年前のこと全部……ちゃんと思い出したいの!」
私は郁さんにしがみついた。縋ったところで、郁さんがその真実を知っている保証なんてどこにもないのに。
「……茜さん、少し落ち着きましょう。……? 茜さん? 大丈夫ですか?」
聞こえますか、茜さん、と言う郁さんの声が遠い。頭が痛くて、体が熱い。頭痛薬の効果が切れたのか。割れるように痛くて、死にそうだ。私はついに意識を保てなくなり、平衡感覚を失うと共に崩れ落ちた。
§ § §
二十八年前――私たちは天才ピアニストだった母の美音雪子のもとに生まれた。父親のことはあまり知らない。お母さんが言うにはかっこよくて素敵な音楽家らしい。もっとも会ったこともその演奏を聞いたことも無いのでよくは分からなかった。お父さんは飛行機事故で亡くなったらしい。まだ私たちが二歳になったばかりの話だった。演奏会の帰りに墜落したと、どこかで聞いたことがあった。
それから一年後、お母さんの指導の下、私たち双子は音楽家の子として日々楽器の練習を重ねた。ピアノから始まり、ヴァイオリン、ビオラ、チェロ。弦楽器が主だった。お母さんの弾くピアノが一番好きでピアノを習いたかったけれど、お母さんはどうしても私たちに弦楽器を教えたかったらしい。その理由は大人になった今でも分からなかった。
そうして十年が経った頃、転機は突然やってきた。
「「デュオ?」」
「そうよ。あなたたち二人の初舞台を用意したわ。頑張りなさい」
お母さんは演奏会をよく開く人ではあったが私たちにはあまり開いてはくれなかった。だから、その言葉を聞いて、私はとても嬉しくなったのを憶えている。だって、初めての披露会。それも個人ではなく、雫お姉ちゃんと一緒に。
「わあっ、やった! ね、お姉ちゃん! ……お姉ちゃん?」
けれど、雫はあまり喜んではいなかった。そこに表情は無く、ただ次の仕事があるため去って行くお母さんを睨みつけていた。
「……うん。そうだね」
「……どうしたの?」
「なにが?」
「なんで、そんな顔してるの?」
「そんな顔って?」
「……楽しくなさそうな、顔?」
「ははっ、なあに、それ。疑問なの? 別に、そんな顔してないよ」
「楽しくない?」
「そんなことないよ」
「……それならいいんだけど……。あっ、そう言えばね、今度の演奏会でね、郁さんは見に来てくれるんだって。だからいっぱい頑張らないとね!」
「……茜」
「ん?」
やっとちゃんと目を見てくれた雫は、どこか悲しそうな顔をしていた。その顔をする時はいつも私は不安になるのだ。
「頑張りましょうね」
柔らかく、優しい声音で私を落ち着かせてくれるのに、不安は拭い切れない。
「……お姉ちゃん?」
「うん?」
「……。ううん。なんでもない」
その時の違和感に私は口を出すことが出来ず、そのまま閉じてしまった。いつもそうだった。有無を言わせない目をして、私の意見を言わせない。
でも、その理由は分かっていたし、だから何も言わない。いつもそうしてきた。
だからだろうか、私はこの日を酷く後悔することになる。
二人での演奏会当日、事件は起きた。
デュオ曲に選んだのは雫が好きな『パッサカリア』。二重奏で奏でるこの曲は私たちにぴったりだと思っていた。曲も中盤に差し掛かった頃、曲が止まったような気がした。
……え、と思わず隣で佇む雫を息を止めて見つめると、またあの悲しい顔をして「ごめんね、茜」と呟いた。私にだけ聞こえるくらいの、か細い声で。
「僕は、僕のために。僕が生きるために、演奏する」
その瞬間、雫の目に光が宿った。
この時、私はやっとあの日の違和感の正体に気付いたんだ。
これは、お母さんへの復讐なんだと。
その後の演奏会はグダグダと進み、それはもう酷いものだった。終わったあと、私は顔から熱が冷めていくのが分かった。そこにいるはずなのに、そこにはいない。雫が遠い。
楽屋に戻ると、雫は何事も無かったような顔をしてヴァイオリンをケースに仕舞っていた。私はゆっくり近付き、声を掛けた。きっと、その時の声は震えていただろう。
「どうして? どうして曲を途中で変えたの雫! お母さん、凄く……怒ってた」
「別にいいじゃない」
どうして雫がこんなにもお母さんに反抗するのか。その理由はなんとなく分かっていた。過剰なまでの愛とも言うべきだろうか。お母さんが雫に取る態度はいつも過ぎていた。私にもそこそこ過剰だったと言えるが、雫の方が出来るからか当たりが強かった。別の理由があると雫は言っていたけれど、その理由を教えてはくれなかった。
「反抗したい気持ちは分かるけど、でもそれは今日じゃないでしょ?」
「……茜まで僕を否定するの?」
「否定だなんて、そんな……。そうじゃない、でも! 雫は私と違って全部持ってるじゃない……」
初めて、こんなことを言った気がする。どこかで雫に嫉妬していたことを。心の奥底に眠っていた気持ちを吐き出してしまった。ハッとして、俯いた顔を勢いよく上げ雫を見た。雫は絶望した顔をして一歩、二歩と後ずさった。
「……茜がそれを言うの?」
「え……」
「僕に無いもの、全部持ってるくせに‼」
その心の叫びが、スイッチだった。
雫が叫んだのと同時に、楽屋のドアが勢いよく開けられる。開けたのは、お母さんだった。
「――雫!」
その勢いに、これは止めなければと思った。「お母さん!」と必死に手を伸ばしたが、それはあと一歩のところで届かなかった。お母さんは容赦なく雫の頬を叩いた。
「痛っ……」
雫の頬が赤くなっている。私まで痛くなる。
「誰があんな演奏をしろと言ったの?」
「誰も言ってないよ。僕が勝手にしただけ」
何が気に食わなかったのかお母さんはもう一度雫の頬を叩いた。
「その汚い一人称を直しなさい雫。ここは家の中ではない」
「……わ、た、し、が、勝手に曲を変更しました」
「どうしてそんなことをしたの」
「……どうして? 私は、自由に演奏しただけ。理由なんて無い」
「なんですって? デュオは個人競技じゃないのよ⁉」
「やめてよ、お母さん‼」
二人の争う姿なんて見たくなかった。だから、どうにかして止めようと仲裁に入る。
「茜……?」
「ね? もうやめよ?」
「茜、今日はびっくりしたわよね? 大丈夫だった?」
先ほどまでの怒りの矛先はどこへと消えたのか、お母さんは私の肩を撫でた。どうして私には優しくするのだろう。どうして雫には厳しくするのだろう。
「わ、私は大丈夫。だけど……」
私は雫を横目に見た。
「話は終わり? じゃあ帰るから」
「待ちなさい! 雫‼」
本当に帰ってしまった。どうやって帰るのだろう。いや、雫のことだから自力でどうにかしてしまうはずだ――実際どうにかしていた――。
この時、雫が何故私に「全部持ってるくせに」と八つ当たりしたのか、分かった気がした。
この日から雫はよく家出をするようになった。行き先は郁さんの家だと分かっていたので私はあまり心配はしていなかった。けれど、やはりお母さんも人の親。あんなことをしてしまったことをあの日からずっと悔いていた。思えばあの日から、壊れていたのかもしれない。愛ゆえの、暴力。才能を誰よりも大切にする人だったから、心を病んでしまった。
あの演奏会から一年が経ったある頃。雫はあの演奏会にたまたま来ていたレコード会社のプロデューサーに声を掛けられ、音楽家としての才能を開花させた。
今日はそのレコード会社に足を運んでいたらしく、そのまま家に帰宅してくれた。
「あ、雫お姉ちゃん! お帰り!」
ちゃんと家に帰ってきてくれたのは実に一週間ぶりだった。よかった。思ったよりも痩せていないようで安心する。
「茜」
「凄いね、デビューなんて。憧れるなあ」
「そうかしら。あのプロデューサーは馬鹿よ」
「どうして? あそこ大手だよね」
「大手とかどうでもいい。僕よりもよっぽど茜の方が才能があるのに」
びっくりした。本気で雫は言っていた。それが凄く嬉しくて、私は思わずへらっとしてしまった。私のその姿を見て雫は少し心配そうな顔をしていた。
「そんなことないよ。……えへへ」
「? なに」
「お母さんよりも、お姉ちゃんに褒められた方が嬉しいかも」
雫は私を見て、目をぱちぱちと瞬きを数回した。その後、ふっと柔らかく笑った。
「そう。……そういえばあの人は?」
雫の周りの空気が変わる。あの人、というのはお母さんのことだ。
「なんか次の演奏会の打ち合わせだって。部屋で電話してる」
「ふーん」
自分で聞いておいて雫は興味なさそうにする。その身勝手さに少しだけむっとするけれど、久しぶりの再会なのだからと私はぐっと堪えた。
「ねえ、お姉ちゃん。次の演奏会は一緒に演奏、できる?」
私は気にしていなかった。あの日の雫の行動を責めることはしない。あの行動こそが彼女であると知っていたからだ。けれど雫はそうは思っていなかったらしく『一緒に』という言葉に酷く反応した。
「……。そうね……」
「……帰って、きたんだよね?」
「ええ」
「……じゃあ……その、大きい荷物は……なに?」
帰宅してから今まで、彼女はなにやら荷造りをしていた。いつもの郁さん家へ行くときの荷造りかと思っていたのだが、今日の雰囲気は少しだけ違った気がして、私は思わず雫に問い質した。
雫は――笑った。
「……ごめん。その約束、守れそうにないわ」
「え……?」
それって、と彼女の裾を取ろうとした時、後ろから「どうしたの」とお母さんの声がした。このタイミングで、正直来てほしくはなかった。
「お母さん」
「雫……」
「なに、その顔」
雫はお母さんに対して反抗の矛先を向けていた。
「早く部屋に戻ってヴァイオリンの調整をしなさい」
「はあ? ……僕はもうあんたの言いなりになるような人形じゃない。僕はこの家から出て行く。自由になるんだよ。二度と帰らない」
「え⁉ ど、どういうこと⁉」
私は驚愕した。この家に帰ってきたのではない。郁さんの家に家出をするための一時的な準備をしに来たのではなく、本気で彼女はこの家を出て行くと公言した。
「そのままの意味よ。この荷物はね、出て行くためのもの」
「そんなわがままが許されると思っているの? まだ未成年でしょう‼」
「今のあんたに教わることなんて何もない。僕は一人でも生きていく!」
「そんなに言うんだったら、止めはしない。出て行きなさい‼」
「言われなくても出てってやるよこんな家!」
「お姉ちゃん!」
二人はいがみ合い、雫が啖呵を切ってそのまま、今度こそ本当に美音家を出て行ってしまった。私は、彼女が出て行った時のドアが思い切り閉まる音に、悲しいものを感じた。
「……あんな出来損ないのことは忘れなさい。いいわね」
「…………はい」
出来損ない。その言葉は私の頭の中をぐるぐると回る。出来損ないなのは、私の方なのに。
雫がこの家を完全に出て行ってからあっという間に二年が過ぎた。私は高校三年生になった。その頃、お母さんは音楽家としての活動を引退し、私がプロになるための指導に力を入れ始めた。もう進路を決め始めなければならない。最後の夏休みがやってきた。同時に、悪夢のような『それ』が、私の足下へやってきた。
「ただいま」
自室で音楽大学への進路希望調査を記入していた時、玄関が開いた音がして部屋から出るとそこには雫が入りにくそうに立っていた。
「え、雫……? お、お帰り!」
「帰ってきたわけじゃないけど……ただいま。いるとは思わなかった」
なんでもよかった。本物だ。私は無性に目頭が熱くなる感覚を覚え、目元を軽くこすった。
「元気だった?」
「それなりにね。そっちも」
「うん。元気だよ。……急にどうしたの?」
彼女の活躍は耳にしていた。天才ヴァイオリニストとしての活躍の場を広げ、『あの美音雪子の娘がリサイタルを開く』、なんて言われていた。少しだけ悲しいと思ったけれど、これは私たちの性であると飲み込むしかない。雫もそれは理解しているみたいだった。
「二年も音信不通だったから、心配してた」
「……忘れ物したことをこの間思い出したから、それを取りに」
「……忘れ物……?」
「うん」
雫は階段を上がり、二階にある自分の部屋に入った。家を出たとはいえここは彼女の家でもある。いなくなった日からずっとそのままにしていたので少しだけ埃っぽい。何故掃除をしていなかったのかと釘を刺されるかと思ったが、雫は微笑んでいた。
ヴァイオリンの楽譜を陳列している本棚に優しく手を添える。一冊一冊タイトルを読むように触る。その姿は、本人には言えないが、まるでお母さんにとてもよく似ていた。
「……あった。……よかった。まだ、綺麗なままで」
「それ…………、パッサカリア?」
雫と初めてデュオを演奏した時の曲。彼女が好きな曲。とても愛おしそうに弾いていたのに、あの日この曲の所為で全てが狂ってしまった。私はこの曲が少しだけ苦手だった。
「……僕ね……、あの時のこと一回も後悔したことないんだ」
「…………え」
「でも、一回でもいいから、ちゃんと茜と演奏したいなと思っていて……」
雫は少し、恥ずかしそうに言う。
「いつか、お互いプロのヴァイオリニストになったら……。今度こそ、“デュオ”、しましょうね、茜」
――それは、ずるいよ。
音楽家になることを諦めかけていた私に、雫はまっすぐ道を示した。これでは雫に追いつくほかないじゃない。
「お姉ちゃん、もうプロなのに。私が追い付くしかないじゃん」
「ああ、ちょっとおかしかったね。ふふっ」
「……あははっ」
ああ、何年ぶりだろう。雫のちゃんと笑った顔を見たのは、もう随分だった。
「…………………………今更何をしに来たの」
その声に、私たちの体に緊張が走った。一階の自室で寝ていたはずのお母さんが二階に上がってきていた。まさか雫の戻っている時に鉢合わせるだなんて。私は気が気でなかった。
何故なら、今のお母さんの状態は『異常』で、二年前とは異なるから。
「私のことを、蔑みに来たの?」
「誰がそんな無意味なこと。……それじゃあ、茜、約束忘れないでね」
そんなのお構いなしに雫は私に声を掛け、そのまま帰ろうとした。しかし、それで終わればよかったのにお母さんは雫に突っかかった。
「あなた……茜に何吹き込んだの」
「何も吹き込んじゃないわよ。じゃあね。もう二度と会うことは……ないわ」
「待ちなさい、雫‼」
お母さんは雫の右腕を思い切り引っ張った。その反動で持っていた楽譜が手から落ちた。
「お母さん⁉」
「何よ、放して」
「今があの子にとって一番大事な時期なの! 邪魔しないで‼」
私は、目の前の光景に目を疑った。お母さんが雫の上に乗り、あろうことか雫の首を絞めていた。いくら女性とはいえ大人の力。このままでは雫が死んでしまうと頭では分かっているのに、私の体は頑としてそこから動かなかった。指の一本すらも、動かせずにいた。
お母さんが雫に対して、物理的に暴力を振るったのを見るのはこれが初めてのことだった。
「そ、んなの、知らないわよっ! うっ……。茜の道は、茜が決めるの。あんたの言いなりに、左右されないで、自分を……持つの……!」
雫を助けなきゃいけないのに、雫の言葉に心が揺れる。
「私を捨てて出て行ったあなたに、私の気持ちが理解されてたまるものですか‼」
「ええ、そうねっ、理解するなんてまっぴらごめんよ……っ!」
どうしてこうなったのだろう。
私が雫と話していなければこうならずに済んだ?
話さえしなければ、雫が、お母さんに首を絞められることも無かった?
私は目の前が暗くなる感覚に襲われた。そして、目の前で起きていることを否定した。けれど、体は実に優秀で、私の手は自然と携帯を持ち、郁さんに電話を掛けていた。
何回目かのコールで郁さんが電話に出る。
『……はいはーい、もしもし。こちら七葉ですが……って、茜ちゃん? 珍しいですね、電話なんて――』
私は切羽詰まった声で郁さんに雫が危ないのだととにかく伝えたかった。
「助けて‼ は、早くしないと、お姉ちゃんが、お姉ちゃんが!」
『落ち着いて。通話はそのまま続けて、状況をできるだけ細かく教えて。すぐそっちに行くから!』
郁さんはそれ以上私を責めることなく通話状態を続けた。私は震える手で携帯を持つことしか出来なかった。
「……は、なせぇ……!」
雫がお母さんの腹部に向かって蹴りを入れた。必死の抵抗だった。けれど、その力は見るに堪えないほど弱く手が離れることはなかった。しかし蹴られたということを認識したのか、お母さんは雫の首を掴んでいた手の力を緩めた。雫はその瞬間を見逃さず、すぐにお母さんの下から抜け出した。
やっと酸素を取り込むことが出来たのか噎せ返る。雫の視線はお母さんに向けられていたがそこに感情は無かった。
「けほっ、…………あーあ……。やっぱ、戻ってくるんじゃなかった」
その一言で、私の中の何かが崩れ落ちた。
「……ねえ、茜」
「やだ……。いやだ……」
何がなのかは分からない。けれど、その後の言葉を聞きたくない。
「僕は……」
雫はこの時何を私に伝えようとしたのだろう。彼女はまるで嘲笑うかのような表情をしてゆっくりとベランダへ続く戸を開けた。そしてベランダの床に足を置く。みしみしと軋む音が酷く痛い。
「な、にしてるの、お姉ちゃん。そっちは危ないよ」
「知ってるよ。だからこっちにいるんじゃない」
何で笑っているのだろう。軋むベランダの上にいることが恐くないのだろうか。
「早くこっちに戻って!」
「戻って、僕が利益を得るの?」
時が――止まったような気がした。
耳鳴りが酷くて頭痛がする。今日は雲がひとつない晴天のはずなのに、雨が降りそうな気がして。息が詰まる。止めなければ。彼女が部屋の中に戻るようにしなければ。
でもどうやって?
次の言葉が出てこない。私の耳には、私の嗚咽声だけが支配していた。
「あー……ふふっ。やっぱりダメ。ここに帰ってくれば……茜に会えば、少しは何かが変わると思ってたんだけどなぁ……」
ふふ、とふらふら揺れて雫は笑う。
「……僕ね……死ぬために、戻ってきたんだよ」
「…………は?」
「去年からスランプになったの。僕には、茜みたいな才能なんかないのにプロになって。デビューから公演会から……そんなのが毎日続くの。初めのうちは楽しかった。けどもううんざり。学校にだってほとんど行けてない。それで何が楽しいの? 何も楽しくないわよ。自由に、なるためにこの家を出たはずなのに……また縛られて。ばかみたい。……みんな口を揃えてこう言うの」
“あの美音さんですよね”って――。
雫は疲れていた。美音雪子という消し去ることの出来ない先駆者がいることでそれがプレッシャーになって、心をすり減らしていたんだ。
「僕は僕なのに。誰でもないのに! ……もう、疲れたのよ、こんな世界にいることに」
「分かんない……分かんないよ……!」
「だから、死んでいなくなればいいかなって。……でもね。楽譜のこと思い出したの。茜に会って、考えが変わればって。何か変わるかもって……思ってたのに、なあ……」
私は雫の声を聞く度に涙を堪え切れなくなった。けれど、私よりも辛いはずの雫は泣くことすらできていない。私の声も、届かない。
「……泣かないで茜。もう、遅いの。こんな逃げ方、格好悪いけど、許してね茜」
「行かないで――‼」
私の願いは、彼女にはやはり届くことはなかった。
雫はベランダの柵に立ち、そのまま浮くようにして落ちた。
ぐしゃ、という歪な音が、耳にこびりつく。お母さんが「雫……?」と言った声が最期に聞こえた。果たしてそれは本当に雫のことだったのか。私を『雫』として認識していたのかは分からない。ただ、その声がとても優しい音で、私は吐きそうになった。
§ § §
「いやああああぁぁああ‼」
「茜さん⁉ 落ち着いてください、茜さん‼」
「……え……っ、……郁さん……?」
ここは、どこだ。私はまだ残る頭痛に顔をしかめながら辺りを見回す。
「大丈夫ですか? ゆっくり息をしてください。ここはあなたの部屋です」
急に倒れたんですよ、と郁さんが心配そうな顔をして笑う。ここは実家の自分の部屋。外は暗くなっており、月明かりがほのかに閉め切られていないカーテンから漏れていた。
「夜…………? あれから何時間くらい……」
「んー、五時間ほど。気を失っていたので救急車を呼ぼうかと思ったんですけど、熱も下がっていたようだったので呼びませんでした。体調の方は?」
「は、い……。もうほぼほぼ。……っ」
「茜さん?」
「……思い、出した……」
「え? んぇっ⁉」
私はさっきまで見ていた夢――過去――が脳裏を掠めた。フラッシュバックのように記憶の波が襲い、勢いよく郁さんの肩を掴んでしまった。
「あの日のこと……! 雫が、死ぬ前、お母さんに首を……。でも、理由はそれだけじゃなくて、じ、自分で、死を選んだ……」
「……」
「自分に自信を無くして、お母さんのプレッシャーもあって、壊れて……私を頼って戻ってきてくれたのに……私が、その手を掴まなかったから……!」
「あーかーねーさんっ!」
「へぶっ⁉」
郁さんが私の両頬を思い切り掌で挟んだ。痛くはなかったけれど、急な攻撃に私は驚いて変な声を上げてしまった。
「今は、あの日じゃない!」
「――!」
「実際、私もちゃんと思い出したのは、あの飾られたヴァイオリンを見かけてからでした。昨日、彼女の演奏が聴こえてきた時から……ただ、信じられなかったというのが本音ですが」
「……。……はい」
「でも、なんで雫さんは……。……ああ、そうか!」
郁さんは何か閃いたのか、目をキラキラとさせて私の目を見つめた。
「茜さん。いつか私の家に来た時に雫さんが言っていたんですが、きっと、茜さんと演奏できなかったことが心残りでまだこの世界にいるのかもしれません」
「パッサカリアの二重奏のこと……?」
「はい。そのことさえ分かれば、こちらにも打つ手はあります。雫さんを探しに行きましょう。ちゃんと、雫さんが安心していけるように、話し合いましょう」
「はい!」
きっとこれが最後のチャンスになる。今度こそ絶対に、私は雫の手を放さない。あの時の約束を果たしに行くために、私たちは雫を探し始めた。
§ § §
「……こんなもののために……、こんなもののためなんかに‼」
雫を探すことにそう時間は掛からなかった。雫はリビングに立っていた。目の前のヴァイオリンを数分見つめて、動いたかと思ったらそのヴァイオリンを力強く掴み、壊そうとした。けれど、ヴァイオリンは結果として壊れることはなかった。雫が自分で自分を制したからだ。
「…………どうして……? こんなものの所為で僕は死んだのに……! 僕たちは狂ったのに、憎いはずなのに……! どうして、壊せないの……!」
雫はそのまま憎いと言っていたヴァイオリンをぎゅっと優しく抱きしめた。切りたくても切り離せない音楽。それは私も同じだった。小さく震えて泣いている雫が痛々しかった。
「雫……」
声を掛けようか迷ったけれど、郁さんが背中を押す。私は覚悟を決めて彼女に話しかけた。雫はハッとして背後に立った私のことを見ると驚いた顔をしていた。今の彼女の目には、私は映っていないような気がした。
「茜……?」
「うん、そうだよ」
何に怯えているのか雫は私をじっと見て震えている。
「来ちゃダメ! あいつに、あいつに壊される!」
「ここにお母さんはいないよ。この間、死んじゃったから」
ゆっくり雫に近付いてしゃがんで目線を合わせる。雫の涙がほろほろと零れる。
「お、かあさん……」
「うん。私、ちゃんと思い出したよ。あの日のこと、全部。だからもう、雫を苦しめるあの人はいない。大丈夫だよ」
「うそ」
雫は私の言葉を受け入れようとしない。簡単には聞き入れてくれないとは思っていたけれど、まさかここまで否定されるとは思わなかった。雫はふるふると首を振った。
「嘘だ嘘だ嘘だ! あいつはまだそこに――‼」
「雫‼」
我を失い暴走し始める雫を私は抱きしめた。強張った体から力がゆっくりと抜けていくのが分かる。握っていたストラディバリウスがコロンと床に落ちた音がした。
「あか……ね……?」
「……そう。私は、美音茜。美音雪子の娘で、美音雫の双子の妹。……大丈夫。落ち着いて。ここに、雫の恐がるものはない。何もないよ」
私は優しく雫の髪を撫でる。十年前のままの姿で現れた魂の片割れは、未だこの家に縛られ続けている。その恐怖は私にはきっと計り知れないものだから、せめて、和らげることができないだろうか。少しして、雫は私の背中に手をやり、力強く服を握った。
「……ぼ、僕、恐かったんだ」
「……うん」
「僕の名前は『美音雫』なのに、誰もが口を揃えて言うんだ……“あの美音雪子の娘か”“さぞ素晴らしい演奏をするんだろうね”って……!」
「うん」
「その、肩書きや、間違えてはいけないプレッシャーに、耐えられなくて、好きだったあの世界が嫌になった! だから、だから――!」
「うん……もういいよ。分かったから。ごめんね、辛い時に側にいられなくて。もう絶対、雫を放さないから。私が雫を守るから」
「ぐすっ……。うん……」
「気付いてあげられなくて、助けてあげられなくてごめんね」
「…………もういい。いいよ、茜」
私たちは二人して泣きじゃくった。辛いのも、恐いのも、雫から伝わるものは悲しいものばかりだった。幽霊だということを忘れそうなほどに、彼女は私の服を涙で濡らした。
「茜さん」
郁さんの一声で現実に戻る。
「雫さんは……大丈夫、みたいですね」
「はい」
「…………いつから?」
「うん? なに?」
「僕は、目が覚めてから自分が死んだんだなってことは分かってた。茜はいつから僕が幽霊だって……気付いたの?」
雫が自分で幽霊、と言ったことに私は少しだけ身震いした。今も普通に会話しているが、確かに彼女は十年前に死んでいて、目の前にいるのは間違いなく幽霊なのだ。現実味がない現実に、戸惑いが一気に押し寄せたのは言うまでもない。
「んー……ついさっきかなぁ……」
「え」
郁さんが本気で驚いた声を出した。
「いやっ、死んだことは憶えてましたよ? でも、霊感なんて無いし、ちゃんと雫かどうかは……確信は無かったの。普通に考えて、不思議な体験だし。それに、死んだことは憶えてても、どうして死んだのかまではさっき思い出したばっかりで。全部、思い出したの。楽しかったことも、辛かったことも」
私が感傷に浸っていると、雫が急に怒り始めた。
「今すぐ忘れなさい! 茜は、あいつに縛られる必要なんてない!」
「大丈夫。私はお母さんに縛られてなんかないよ。それに、雫は忘れろって言うけど、私は思い出せて嬉しいの。空っぽだった心が満たされたみたいで。何も悪いことだけじゃないから」
「そう、なの?」
「うん。だからこうして雫とちゃんと話せる。ね?」
私が笑顔を見せると、つられて雫も不自然ではあったけれど笑顔を見せてくれた。
「……僕、ずっと茜とちゃんと話したかった。でも、気が付いたら茜は大人になってて」
「あー……もう二十八だからね」
「私は三十五ですよ!」
「いや今聞いてないですから郁さん」
「おや失礼」
「こっちは幽霊だし。どうすれば伝わるのか考えてはみたんだけど、分からなかった。そもそも会う手段も無かったしね」
「なにそれ」
「こんなことなら、早く会って伝えるべきだったわね」
「そうだね。……あ、でも最初は信じられなくて逃げるかも!」
「なにそれ、ふふっ」
「へへっ。……私ね、雫に謝らないといけないことがあるの。……お母さんのこと」
「……え?」
私は、一度深呼吸をして、真面目なトーンで雫に言う。雫は笑うのを止めて私を見た。
「中学の時、雫がお母さんに初めて反抗した日あったでしょ? その後ね、お母さん色々重なっちゃって心の病気になったの。妄想性障害っていう精神障害で、私のことを雫だと思い込んでた。よっぽど、拒絶されたのが堪えたみたい。雫が帰ってきた時はちゃんと雫だって認識してたみたいだったけど……」
「なに、その話」
「雫が自殺してからは鬱になった。死んだこの間まで、精神病棟に入院してたんだけど……」
「……」
「ずっと、雫のこと後悔してた。口を開けば雫のことばかり話してた。だから、私が言いたいのは、雫はちゃんとお母さんに愛されてたよってこと」
「そんな、こと」
「今更、信じてあげてとは言わないよ。けど、知ってほしかった。お母さんのこと、早く、話すべきだった。ごめん」
雫の顔を見るのが恐かった。
雫にとってお母さんは恐怖の対象でしかなかった。それを今更「愛していた」などと言ったところで、彼女の中のしこりはほぐれることはない。それでも伝えたかった。私ではなく、私を通して『雫』を見ていたこと。本当は後悔していたこと。少しでも、知ってほしかった。
「…………教えてくれて、ありがとう茜」
時間にして数秒の沈黙の後、雫から出た言葉は感謝だった。その言葉一つで、私の心は温かくなった。
「茜さん」
「あ、そうでした」
私は郁さんに肩をつつかれ、今ここにいる理由を思い出した。リビング奥にある箪笥に仕舞っておいたクリップで止めてある紙の束を取り出して雫に渡す。
「……はい、雫」
「?」
「あの日の約束、ここで果たしましょう」
「……これ……」
それは昨日郁さんから受け取った雫の生きた証――パッサカリアの楽譜だった。私は昔ヴァイオリンをリビングに仕舞っていたことを思い出し、テレビの下の戸棚から自分のヴァイオリンを取り出す。きっと保存状態は悪いが、今日一回くらいは持ちこたえてくれるだろう。調律をしながら雫のもとへ戻ると、雫は何も言わずただ私と私の持つヴァイオリンを見た。
「私、今は高校で音楽を教えててピアノが専門なんだけど、ヴァイオリンの練習はずっとしてた。このヴァイオリンはこの家に眠ってたものだから少し音が変だけど、これでも上手くなったつもりだし、雫の“自由”に合わせられるようには、成長したはず……?」
「……ふ、ふふっ」
「なに、急に」
「僕は、幸せ者だなと、思っただけよ」
「……恥ずかしいこと、平然と言わないでよ」
「本心よ。……準備は?」
「できてる。いつでもいいよ」
雫が、床に落ちたストラディバリウスを持ち、弦を思い切り引いた。
ずっと夢だった。
雫との二重奏。ずっと諦めずにヴァイオリンを手放さなくて良かったと今なら心を張って言える。悲しみの中に光を見つけ、共に支え合う家族のような曲だと私は解釈している。この曲は、雫の願いそのものだと言えた。
……やっぱり、雫は「出来損ない」なんかじゃない。天才なんだ。
ついていくのがやっとだった。凄く楽しそうに奏でる彼女は今までになく輝いていた。私まで嬉しくなってアレンジを加え続けた。
曲の終盤になると、段々雫の演奏が聴こえなくなった。ついには私のみが演奏しており、曲は終わりを迎えた。
「……すっかり、夜中ですねぇ」
「……はい。ありがとうございました、郁さん」
「いえいえ。私は何も。雫さん、きっと喜んでますよ。……雪子さんも」
「はい。……そうだと、いいんですけど」
天国で、二人が仲良くしてくれれば、私はもうなんでもよかった。仲直りして、笑顔が絶えない日々を、どうか過ごしてほしかった。こっちの世界ではできなかったことを。
「絶対そうですよ!」
郁さんは、自信たっぷりに私に言った。この人が言うんだから間違いないと思わされる。自然と私は笑っていた。
夜が明けて不思議な二日間が終わった。
朝の六時、玄関には郁さんが帰りの支度を終え靴を履いていた。今日の目覚めは最高だった。今まで靄がかかっていたものが晴れた感覚だった。郁さんもそのようだった。
「また、何か困ったことがあればいつでも呼んでください。あ、珍しい楽譜が見つかったらいつっでも、呼んでくださいね!」
「そっちが本音ですよね。声張りましたよね? ……まあ、その心遣いだけありがたく受け取っておきます」
「ははは、手厳しい!」
「それじゃあ」
「ええ。それじゃあ」
郁さんは美音家を出た。これでこの家も少しだけ静かになる。
「……はあ……。よし! 帰って今日の準備しないと!」
私は荷物をまとめて今住んでいるマンションに戻る。
リビングのストラディバリウスがキン……と鳴った、そんな気がした。
§ § §
郁は帰り道、後ろについてくる存在に微笑んだ。
「……これで、よかったんですか?」
消えたはずの雫が目の前に現れた。その姿はまるで幽霊のようで、本来の姿なのだと郁は笑った。
『……ええ。まあ、演技の下手な郁にしては、上出来なんじゃないかしら?』
「あはは、殺すぞクソガキ」
『黙れ独身。……あー、楽しかった。もう行くわね』
「そうですか。雫さんならあちらでも綺麗な音楽を奏でられますよ」
『そりゃどうも。……あ』
「はい?」
『僕の部屋にある楽譜は特に面白くないわよ』
じゃあね、と彼女は再び消えた。今度こそ、完全に成仏したと言える。最期の表情はあのベランダから落ちた時とは違い、心から笑った顔だった。
「お元気で。ふふ、安眠生活も今日で終わりですか~」
郁はウキウキとした表情で坂道を下って行った。
§ § §
一週間近く開けていたからか妙に音楽室の香りが懐かしく感じた。私はやはり間違えてなんかなかったんだと思えて、感慨深くなった。
「……ねぇ、茜ちゃん」
吹奏楽部が全体リハに入る前、一人の生徒が私に話しかけた。
「茜“先生”ね。なにかな」
「なんか……いいことあった?」
「どうして?」
「んー? 空気が明るいから?」
「……顔に出てたかな?」
「うん!」
言われて初めて気が付いた。私は思わず自分の頬をくいくいと上下させた。自然と口角が上がっていたのだろう、ずっとにやけていたのかと思うと少し恥ずかしくなった。
いいこと、か。十年間心を蝕み続けていたものが剥がれ落ちたから、そのおかげかもしれない。
――雫に、感謝しなきゃ。
ありがとう、私の大好きな、たった一人のお姉ちゃん。
「はいはい、それはいいから。リハ始めるよー!」
今日も私は大好きな音楽に縛られ続ける。それは今後も変わらないことだろう。けれど、それは辛いことではない。
これからも、ヴァイオリンは続けるよ。
大好きな家族との、思い出の為に――。
――了――
笑うヘンデルと二重奏 KaoLi @t58vxwqk
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