第48話 今日の明日

 なにも感じなかった。

 生きているのか、死んでいるのかさえわからなかった。

 体が、細かく震えた――。


「美波、おい美波、大丈夫か!?」

 愛おしいひとの瞳を見つめる。そこにはいつも通り、わたしを心配そうに気遣う彼の顔があった。

「······瑛太は? なんともない?」

「さすがおばあちゃんだよ。ここまで爆風は届かなかったみたいだ。圧を感じた気がするけど」

 よかった、と思って顔を上げるとそれはまったくの嘘だったことがわかった。お手洗いの扉の破片が瑛太の背中に刺さっている。瑛太の笑顔は真っ青だった。

「ピンセット持ってくる」

「待てよ」

 足首をつかまれる。動けない。

「リビングはめちゃくちゃで入れないよ。俺、もう駄目だよ。こうやって美波を庇えたんだ。もう望むことはないよ」

「だって、それじゃどうやって」

 こぼれていく涙が、便座のフタの上にこぼれ落ちていく。

 ――どうしよう、どうしよう、どうしよう。


「ごめんなさい、ちょっと待ってて」

 壊れかけのお手洗いのドアを無理やりくぐってその狭い場所から外に出た。

 ガラスの破片が床一面に広がっている。素足じゃなくて良かった。ベランダ用のサンダルを履いたままだったから。

 床は歩く度にジャリ、ジャリと耳障りな音を立てた。なるべく気をつけて玄関を目指す。

 思ったより丈夫だった玄関ドアを表に開けて、惨状を目にする。


 運が、よかった。


 ただそれだけだ。


 ここにわたしたちを助けてくれる余裕のあるひとはいない。取って返して、自分のピンセットを探す。ここに、きっとあるはず。強く信じて手をガラスで切れないように気をつけて探す。

 ――あった!


「瑛太、瑛太、待たせてごめん!」

 消毒液と一緒にピンセットを持ってお手洗いに走る。

「ちょっと痛いと思うけど、それでも我慢して」

「俺はいいよ。望みは叶ったから。それで······」

「なに言ってるのよ! 八十年後も、······八十年後も一緒に生きていこうって約束! 破ったら承知しないんだから!」

 瑛太はそのセリフに顔を上げた。辛そうで、額に脂汗が浮いている。

「瑛太、お願い、もう少しだよ。わたしたち、生き残ったんだよ」

「一応な。······また降って来るかもしれないし」

「瑛太······お願い······」




「どなたか怪我をしている方はいませんか? 自衛隊です。どなたか怪我を――」

 振り返らず走った。そしてそれまでに出したことのない大きな声を出した。

「助けてください! お願いします! 助けて!」

 壊れかけた階段を自衛隊のひとたちは上ってきた。こっちです、と誘導する。瑛太はすっかり体を便座に任せて動くのもきついようだった。

「仰向けでは運べませんね。ちょっと苦しいかもしれませんがうつ伏せで運びましょう。大丈夫ですよ、助かります」

「助かりますか?」

 知らないうちにそのひとの袖を握りしめていた。

「助かります。いえ、助けるよう善処します」

「お願いします」

「お名前は?」

「高槻瑛太です」


 ――タカツキさーん、聞こえてますか? タカツキさーん。

 瑛太がごくわずかに反応する。

 ――お名前わかりますか?

 ――高槻瑛太です。

 ――ご住所は?

 ――東京都〇〇区✕✕······

 一、二、三の号令で瑛太は簡易ストレッチャーに乗せられた。わたしはピンセットを固く握りしめたまま、反対の手で瑛太の手を握りしめた。

 手を握ることしかできなくて······。




 晴天だ。

 気持ちよさそうに雲がたなびいている。窓を少し開けると、ちょっと寒いけど気持ちのいい微風が病室に流れ込んだ。アイボリーのカーテンが風に揺れる。

「なんの香りかな?」

「梅じゃないの? 柵の向こうに白梅が咲いてる」

「梅か。じゃあ桜の季節はまだってことだ」

「そうだね。もう少し後だね」


 あの日、わたしたちの街に落ちたのは小さな隕石だった。あんなに小さな隕石があれだけの被害をもたらすなら、いつだかは氷河期だって起こっただろう。

 幸い地球に核爆弾クラスの隕石は落ちなかった。そうしてわたしたちは一般レベルの市民生活を送れている。


「桜、また見に行く?」

「もちろん。キレイなものは見なきゃ損だろう。カメラは壊れちゃったけど、心のプロジェクターに残ってる。全部、残ってる。美波と知り合ってから、全部」

「そうだね、全部。あのラケットの日から」

 瑛太の顔が瞬発的に赤くなる。

 いまだにこの話はダメなんだ。

「お前さ、憧れの『読書の君』のスカートを、無意識とはいえめくっちゃった高校生男子の気持ち、わかる?」

「そのわりには堂々としてたじゃない」

「······嫌われたくなかったからだよ」

 この話はいつもこのフレーズで終わる。

 でもわたしたちの人生は続いていく。いつか、おばあちゃんと同じところへ行く時までふたりで一緒に、手を取り合って。


「美波、子供を作ろう。それであの時お花見で見たみたいに俺は肩車をして桜を間近で見せてやるんだ」

 ふふ、と笑いが思わずこぼれる。これから赤ちゃんを授かって、肩車できるようになるまで何年かかると思ってるんだろう?

「きっとかわいい子が生まれる。それで幼稚園の運動会を見に行ったり、ランドセルを背負った姿を写真に撮ったり」

「はいはい、気の早いパパですね」

 くすくす笑いが止まらない。笑えば笑うほど瑛太は不機嫌になったけれど、そのうちわたしの泣き顔に気づく。それは付き合いが長いからだ。

「······美波を守れて本当に良かったよ。でも退院するまでは悪いけど、世話になる」

「夫婦じゃない。当たり前のこと」


『当たり前のこと』が『当たり前のこと』じゃない時代にわたしたちは生まれてきた。普通の顔をして、いつも死と隣り合わせで。

 でもそれもすべて済んだことだ。

 わたしたちはあの日の約束の通り、いまも一緒にいる。難しいことはたくさんあるけど、大事なのはそれだけだ。


「あ」

 悪戯な風に乗って、白い花びらが一枚、窓から入り込んだ。ベッドの上に落ちたそれを、瑛太は指先で摘んだ。


(了)

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サヨナラ、今日の明日~もっとそばにいたいよ 月波結 @musubi-me

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