第47話 今日も、明日も
その日の正確な日時は公表されないままだった。
ジリジリと背中から焦げつくような真夏になっても、まだわたしたちは生きていた。いつぼとりと木の幹から落ちるかわからない蝉のように。
空気が肺に熱い。
「やたらに外に出るなよ」と瑛太は言った。
それでもわたしを待っているおじいちゃん、おばあちゃんがいて、中には隕石のことなんかすっかり忘れちゃってる人もいて、どちらがしあわせなのかわからない。
わたしにできることをいつも通りにするだけだ。
仕事帰りに流れ星を見てドキッとする。
このところ見ることが多い気がする。
そしてわたしはそのことを瑛太に言わない。代わりにふたりで少し昔のロマンティックな映画を観たりする。
瑛太はそれをわかっていて、黙って立ち上がってよく香る紅茶をいれてくれる。
いろいろなものが目の前から消えていく。お店が閉店していく。人波はまばらになってまるで無人の街のように見えてくる。
もちろん中には普段通りに負けてくれてわたしを笑顔にしてくれる八百屋さんがいたりしたけれど、大手スーパーが経営を辞めたり、書店や、文具屋など生活に直に必要ではないお店は次々と閉じていった。
手に入る食料は自然、同じようなものばかりになり、とうとう自衛隊が出て配給が始まった。
『いよいよだ』という思いが胸を軋ませる。
わたしの仕事も解雇され、ケアサービスは閉じた。
洗濯を干していると、なんだか瑛太が陽気な歌をうたっている。鼻歌だけど、このところそんなことがなかったのでおかしくて笑ってしまう。
「なにその歌?」
「昔の。地球が壊れるのに移民船に彼女と一緒に乗り遅れちゃって」
「うん」
「ふたりなら一緒だよねって曲」
寝転んでた瑛太は起き上がるとスマホを取り出して、YouTubeでその曲を聴かせてくれた。
「ヒップホップだね」
「うん、でもなんか笑えるでしょう? 移民船に寝坊して乗り遅れるなよってさ」
「そうだね、せっかくの移民船だもの」
わたしはくすりと笑った。笑うしかなかった。だってふたりの代わりにそれに乗ることはできないから。
瑛太が強くわたしの手を引いた。彼は床の上から仰向けの状態でわたしの頭を寄せてキスをした。
それがすごく真面目でいて甘美なキスだったので、わたしはまいってしまった。
ギュッと抱きしめられる。鼓動が聞こえる。
「この一週間らしいよ」
「······うん、聞いた。噂になってる」
「そっか。隕石が来ても離さないから」
ギュウッと抱きしめ返す。
「うん······」
街は静けさに満ちていた。
とにかく『終わり』の雰囲気に満ちていた。終わる時はみんなでうわぁーってパニック映画のようになるのかと思っていたけど、そんなことはなかった。
地球が、人類から自分を取り戻したかのように静かだった。
ベランダで缶ビールを飲みながら、シャッフル再生で音楽を聴く。その夜の空は湿度を感じさせず一様に透明な空だった。
流れ星が、時々飛んでいる。星空のシャワーだ。
「今のはずいぶんデカかったな。火球クラスだ」
「でも落ちなかったみたいだね」
「音も振動もないしね。落ちる前に大気圏で燃え尽きたんだ。運が良かった」
そうだね、と頷いた。
すると、もう一段上という感じの大きさのものが目に入って、瑛太は突然立ち上がってわたしを守るように覆い被さった。わたしは驚いて足元の缶ビールを蹴飛ばしてしまった。
「ラジオ! ラジオをつけて!」
全然知らない人がアパート前の小道で大きな声で叫んでは向こうに走っていった。そして同じことをまた叫んだ。
ラジオなんて。
国営放送も少し前に終了した。いまは同じ音楽をひたすら流すだけになった。
ふたりで顔を見合わせて、普段は聞かないラジオをつける。
驚くべきことに砂嵐のようなザザッという音の向こうで声が聞こえてくる。久しぶりに人の声が箱から聞こえてくるのが不思議だった。
「······落ち着いてください。皆さん、落ち着いてください。政府は先ほど小惑星の軌道が地球から少し逸れたことを発表しました」
なんのことかすぐにわからない。胸がドキドキする。
悪い予感しかしてこなかったから言葉が飲み込めない。
「繰り返します。日本政府は先ほど、小惑星の軌道が地球から少し逸れたことを発表しました」
瑛太と顔を見合わせる。どちらからと言うまでもなく、寄り添って手を繋ぐ。
「最新のニュースが入ってきました。アメリカ、NASAによると、小惑星に人工衛星をぶつけて軌道を変える実験が成功したとのことです。これにより地球に小惑星が衝突する可能性はほとんど回避された模様です」
同じニュースが繰り返される。信じられない。もしかして、死ななくてよくなったの?
「小惑星は起動を変え、地球から逸れていきますが、その時に小惑星の欠片が隕石として落ちてくる場合があります。大きさにもよりますが、落ちる時の衝撃波は甚大な被害をもたらします。皆さん、コンクリートの建物の内部など窓ガラスから離れたところに避難してください。繰り返します······」
瑛太はわたしの手首をつかんでラジオを拾い上げた。わたしはまだ訳がわからないままぼんやりしていた。――だって、こんな時どうしたらいいかなんて誰も教えてくれなかった。
「うちの中で一番安全そうなところはどこだと思う?」
「え? どこ? リビング?」
「リビングはダメだ。衝撃波が来た時、窓ガラスが割れて衝撃波を防ぎきれない。隕石は爆弾みたいなものなんだ。美波は爆弾が来た時、家の中ならどこに逃げる?」
「え? ······お手洗い、かな。うちはお手洗いには窓もなくて換気扇しかないし、地震の時には狭いところに逃げるといいっておばあちゃんが」
「おばあちゃんナイス。その案、もらおう」
え、え、と思ってるとわたしは瑛太とお手洗いに入っているという奇妙なことになっていた。ラジオは依然、同じ情報を流している。
外からはまだ爆発音は聞こえない。
あんなにわたしを震えあげさせた流れ星も、見えなくなってみると不思議と不安が込み上げてきた。
「大丈夫だよ、ほら、一緒にいる」
「でも怖い」
「そうだな、隕石の落ちる場所はNASAなら把握できてるのかもしれないけどそういう報せはないしね」
ふたりの間に白い便器が邪魔だった。なんとか体を寄せ合って、瑛太にすがりついた。
外の様子はまるでわからない。
瑛太が「心配しないで」と言ってお手洗いを出たと思うと、シャンパンを持って現れた。
「最後の最後にと思って取っておいたんだ。乾杯しよう、この奇跡に」
「ふふ」
「なんだよ?」
「こんな時なのにお手洗いで上等なシャンパンで乾杯するなんて」
「おかしくなんかないよ。俺たち、生まれ変わるんだ。それで八十まで生きてやるんだろう?」
彼の首に手を回して抱きついた。だってそうせざるを得なかったから。うれしくて、うれしくて、うれしくて、声を上げて泣いた。まるで子供のように。
――その時。
大きな振動と鳴り響く轟音とともに、リビングのガラス窓が一斉に割れる音がした。
瑛太の腕が一瞬乱暴にわたしを強く引き、わたしは彼の腕の中に収まった――。
(つづく)
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