角砂糖が溶けるまで

室園ともえ

誰かに、聞いて欲しかったんだ────

「よし……これで終わりっと」


 肩を伸ばしつつ時計を見れば、針はちょうど午後7時を指していた。


 長い8月も、あと数日で終わる。と言っても、相変わらず気温は高く、外ではセミがせわしなく鳴いていた。放課後の学校の中は人気ひとけが少なく静かなせいか、余計にその輪唱めいた音が耳にこべりついてくる。


 もうすぐ9月になり、新学期が始まる。高校3年生の私にとっては、非常に大変な時期だ。この夏で整えた基礎学力を、これからさらに伸ばしていかないといけない。


 今まで積み重ねてきた学力を、細い木の幹のように目標に届くまで伸ばし続けるのだ。


 志望校に近づくため、夢を叶えるため、今日も必死に復習して、帰りのバスの中でも単語帳の内容をひたすら覚えて……。


「……あぁ、面倒くさい」


 机の上に並べていた参考書を放り投げるように鞄の中に入れた。少々乱暴過ぎたのか角が少し曲がってしまったけれど、中身は変わらないのだから今はそんなことなんてどうでもよかった。


 もう、耐えられなかった。


 我慢する日々の繰り返しに。


 毎日努力を重ねる度、「今日ぐらいは自分を甘やかしてもいいんじゃないか」と心のどこかでささやいていた。


 部活も、文化祭も、体育祭も、楽しみにしていた行事が全て中止になっても、頑張り続けた自分を褒めなければ、いつか折れてしまうに違いないから。


『来年は……俺たちの分まで頑張ってくれ』


 涙を流しながら学校を去った先輩たちに報いることも出来なかった悔しさも同時に込み上げてきて、頭の中がぐちゃぐちゃになりそうだった。


 ……帰りにコンビニにでも寄って、肉まんにかぶりつくぐらい許されると思う。あ、どうせなら竜田揚げも食べたい。炭酸ジュースもがぶ飲みしたい。


 そんな妄想をして目を伏せた。


 瞼の裏に浮かんだのは、これ以上ないほどの幸せを噛み締めている自分の姿。


 思わず喉が鳴った。


 なんでもいいからお腹いっぱい食べたい。そう考えた時には、自然と足が動いていた。


 我慢など、しようとすら考えられない。それほど幸福に飢えていたのだろう。


 己の衝動のおもむくままに歩いていると、私はとある店にたどり着いた。


 バス停の近くにぽつんとたたずんでいる、こじんまりとした小洒落た喫茶店。


 和と洋を足して2で割ったような独特の店のデザインが、妙に印象的だった。


 高らかに鳴り響く腹の虫をなだめながら、私は吸い込まれるように、その店へと近づいていった。


 木製の洒落た扉を軽く引くと、チリンチリンと来客を告げる軽やかなベルの音が木霊こだまする。


 それと同時に、1人の女性店員がこちらに小走りで向かってきた。


 高校生の私より3つぐらい年上だろうか。小麦色の艶やかな髪をルーズサイドテールにまとめ、その瞳は、澄み切った空のように鮮やかな色をしていた。


 全体的に黒を基調としている服装は、ムカつく程に似合っている。仮に私が着てもこうならないだろうと自信を持って言えてしまう。


「いらっしゃいませ。おひとり様ですか?」

「……はい」

「では、こちらのカウンターの席にお座りください」


 その女性は、鈴を転がしたような声で、奥の席に座るように勧めてきた。


 椅子に座り、可愛らしい丸文字で書かれてあるメニュー表を手に取ってしばらく眺めていると、カウンターの向こうから、先程の女性店員がこちらの様子を窺っていた。


「ご注文はお決まりですか?」

「すいませんまだ決まってなくて。……もう少し考えさせてください」

「かしこまりました。ご注文がお決まりになりましたら、お声掛けください」


 ぺこりと丁寧にお辞儀をして、その女性はカウンターの奥へと向かっていった。


 ────


 悩んだ末、私は小豆トーストとコーヒーを頼もうと、呼び出しベルを鳴らした。


 呼び出しに応じたのは、さっきと同じ女性店員。


「ご注文はお決まりになりましたか?」

「小豆トーストと、コーヒーをお願いします」

「かしこまりました。コーヒーに、ミルクはお付けしますか?」

「あ、いえ……大丈夫です」

「かしこまりました」


 私の注文を胸元のメモ帳に書き記すと、その店員は足早に作業へと戻っていった。


 ほんとうに、一挙一動がムカつくぐらいに可愛い店員さんだ。


「少し暇だし、今日の復習でも……」


 店員が私の注文したものを運んでくるまでの時間が暇だった。


 自習でもするかぁ、と鞄から参考書を取り出そうとして、手を止めた。


「……今日ぐらいは、いいよね」


 自分を甘やかすためにここに来たのに、そこでも自分に厳しくしてしまえば、元も子もない。


 取り出しかけた参考書をしまい、近くに置いてあった週刊誌を読んで時間を潰すことにした。


 ────


 しばらくすると、注文していた小豆トーストとコーヒーが運ばれてきた。


 まずはコーヒーで一服。できるだけ優雅に、上品に────


「にがっ」


 無理だった。


 少し大人ぶってブラックにしてみたけど、これは無理だ。喉越しはいいけど、口の中にこれでもかと苦味が押し寄せてくる。


「大丈夫。こっちが本命だし」


 反省は次に活かせばいい。今はそんなことより空っぽのお腹を満たさなければ。


 焼きたてのトーストに、冷えた小豆とバターを塗って思い切りかぶりつく。


「はふぅ……幸せぇ……」


 疲れた体に染み渡る小豆の甘さ、コクのあるバターの風味、サクサクのトーストの心地よい食感、全てが私に幸せを感じさせてくれる。


 食事は人生という長い手術を耐えさせてくれる麻酔薬なのかもしれない。


 そんなことを考えながら1口、また1口と幸せを噛み締めていると、あっという間に無くなっなってしまった。


 楽しい時間が、終わってしまった。


 ただ目の前のトーストを食べ終えただけなのに、底の見えない奈落に突き落とされたような感覚におちいっていた。


 明日からも、頑張らないといけない。


 修学旅行、懇親会こんしんかい、地元の夏祭り。楽しかったであろう何もかもが中止になってしまったのに、耐えなければならない。


 友達が言っていた。


『皆状況は同じなんだしさ、一緒に前向いて頑張ろ?』


 同じだから、耐えなくちゃいけないの?


 どうしようもなく、胸がざわついた。


「はぁぁぁ……」


 時間が経ちぬるくなっていたコーヒーをちびちびと飲みながら、カウンターにだらりと顎を乗っけた。


「……あの、お気に召しませんでしたか?」


 魂が抜けきっていた私の様子が気になったのか、入店してきた時と同じ店員が私の顔色をうかがうように、私の横顔を覗き込んでいた。


 明らかにしゅん、と落ち込んでいるようだったので、誤解を招いてしまったのではないかと慌てて首を横に振った。


「あっ、いや……不味かったとかじゃなくて、その……個人的な悩み事と言いますか」

「悩み事?」


 言うべきか迷った。友人や家族ならまだしも、相手は名前も知らない赤の他人だ。


 相談するには、ハードルが高かった。


 でも、それ以上に、今の心の中のモヤモヤをこらえる方が、ずっと困難だった。


「私……頑張り続ける意味が、分からなくなっちゃって」


 意識したつもりはなかったが、私の声は震えて出して、うわずっていた。


 そんな私に対してどのような対応をしたらよいのか分からなかったのだろう。


 その店員さんは、しばらく私を見つめた後、厨房へと行ってしまった。


 しかし、ものの数分で私の所に戻ってきた。気のせいか、先程とはまとっている雰囲気が変わっているような気がした。穏やかというか、おしとやかというか。


 手元にはオレンジ色の液体が注がれているティーカップが1つ。


「これ、よかったら飲んでみて。落ち着くと思うから」

「……ありがとうございます」


 目の前に置かれたティーカップからは、ほのかに甘い香りが漂ってくる。


 1口飲んでみると、南国の果実のような爽やかな風味と優しい味が突き抜けていった。心なしか、気持ちが軽くなった。


 まるで、角砂糖が溶けていくように。


「甘くて……美味しいです」

「よかった。……どう? 少しは落ち着いた?」

「はい……ありがとうございます」

「ニルギリっていうんですよ、その紅茶」

「なんだか、魔法の言葉みたいですね」

「どうせなら、魔法みたいにあなたの悩みを消せたらよかったんだけどね」


 その一言に、私は何も返す言葉が見つからなくて、意味もなく紅茶に反射された自分の顔を眺めた。


「私は常宮花凛とこみやかりん。あなたは?」

「……矢島琴音やじまことね、です」

「琴音さん。私でよかったらさ、相談に乗るよ。幸い、今日はお客さんも少ないから」

「……いいんですか」

「うん。いいよ」

「……えっと────」


 荒々しい自分の感情を押さえ込んで、できるだけ伝わるように話した。


 頑張る意味が分からなくなった。


 それがどうしてか、と訊かれても、その理由すら私にも分からない。


 突然私たちを取り巻く環境が変化して、それについていかなくちゃいけなくなることにイラついて。


 その環境の中で新たな楽しみを見つけていこうとする人たちと同じように順応できるほど、私は人間できていなくて。


 それでも結局学生の本分は勉強だから、ひたすらにノートや問題集の空白を埋めていくことしかできないのが何故だか悔しくて。


 気づけば、ぐちゃぐちゃになりそうな感情が途中で溢れて涙がこぼれ落ちていた。


「……悩みなんですかね、これ」


 頬を伝う涙を拭いながら、私はため息混じりにそう呟いた。


「最近の学生さんって、凄いんだね」

「え?」

「私が学生の時なんて、『あー勉強したくない』とか『人間関係めんどくさーい』とか、くだらないこと、毎日悩んでたのに」


 花凛さんは私の横の椅子に腰掛けると、私の顔を見て、髪をくように撫でた。


「望んでなくても、拒んでいても与えられたらどうしようもない。だからって、それを仕方ないって割り切るのは、難しいよね。自分で決められるものじゃないから。私もそうだったから」


 その華奢な手から伝わってくる温もりが、私の涙腺を刺激して、再びしずくがこぼれてくる。


 相談してよかった。心からそう思えた。


「琴音さん。おかわり、いかがです?」

「ぜひ、お願いします」


 いつの間にか空になっていたティーカップを、私は笑顔で差し出した。

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角砂糖が溶けるまで 室園ともえ @hu_haku

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