【小説】怪談

紀瀬川 沙

本文

 はじめは一九九八年、私が九歳、小学校四年生の頃のできごと。現在では都会だけでなく私の地元ですら中学受験がポピュラーになって、小学生たちは放課後も長々と遊んでいる暇もないのかもしれないが、その頃はまだ地域の子どもは皆地域の公立中学校へ進むため、高学年になっても勉強とは無縁でさんざんっぱら遊び歩いていた。私も洩れずに夕方の町内を友達と一緒に駆けずり回っていた。そんな頃にあった短いお話。

 或る秋の日の放課後、町内の埃っぽい道を空き地へと駆けてゆく私たちの一人が急に立ち止まり、一行から離れてつかつかと路傍の塀のほうへと進んでいった。

 空き地を目指して先に行ってしまった他の友達を夕日の向こうに見送り、私はその子を待っていた。なぜ待とうと思ったのかは分からない。その子と特別仲が良かったわけでもなく、本来なら私も他の子どもと同様、目的地へ急いでいたはずである。しかし、その時は不思議にもその子を待ったために、私はこれから起こることの唯一の目撃者となった。

 彼はどうやら尿意を催して止まったようだった。家から随分遠くへ来てしまったためにトイレを借りたり探したりすることもできず、道端で用を足そうとしていたのである。当時の私もすぐ見当が付き、物陰でさっさと済ませたらいいといったような短い会話をしたことを覚えている。その子は路地のコンクリート塀、土塀、垣根のあいだへともぐり込み、やがて止まった。こちらからはその子の頭だけが塀越しに見えていた。

 この時、私はその子の頭越しに、彼が向き合うコンクリート塀のそのすぐ裏に古さびてくすんだ何かの社、赤い鳥居、黒ずんだ幟がのぞいているのを見た。コンクリート塀を越えて垂れる庭木と角度からして、その子の位置からは見えていないようだった。ところどころ破れている幟には、「正一位稲」という文字が見えた。

 当時の私にはそれが正一位稲荷大明神を屋敷神として祀ったものであるとは分からなかった。ただ、子どもながら直感的に、何か神聖なものに汚穢をかけることの不吉さを感じた。その子を止められればよかったのだが、もう遅かった。用を足して戻ってきたその子を迎えつつ、一抹の不安を感じながら私は空き地へと仄暗い秋の夕暮れを走っていった。

 祟りへの私の恐れをよそに、その後すぐには何も起こらなかった。そのうちに、幼い私は恐れはもちろんのこと、その出来事自体忘れてしまった。

 しかしその年の暮れ、寒さも滅法強くなってきた時節にそれは突然起こった。何が起きたかというと、その子の父親が職場である土木工事の現場で転落事故に遭ったのだった。私はそれを近所の井戸端会議で聞きつけてきた自分の母親から聞いた。その子の父親は命を失うことはなかったものの、数日間生死の境をさまよい、一命をとりとめたのちの今も寝たきりの状態であるとのことだった。その子もまだ小学生であったためか、学校での様子に大きな変化はなかったが、稼ぎを失ったその子の家の窮状はこれから深刻になってゆくに違いなかった。

 年末にそんなことがあってまだ落ち着かない年明け、確か一月の半ばか終わりくらいであったと思うが、父親に続きその子の母親までもが不幸に襲われた。軽度であり命に別状はないがその病名は癌であると伝わってきた。その後、新学期の前にその子はどこかへ転校していってしまった。それからのその子の行方は知らない。せめて彼だけは無事であればと祈っている。

 それにしても、不慮の事故や不幸な病魔を前に、私は後になって、その子の立ち小便とその塀の向こうの稲荷社との関係を邪推し、その不気味や理不尽さに鳥肌が立った。もっとも、これらを結び付ける科学的根拠がないことは言うまでもない。


 次いで二〇〇二年、私は十三歳、中学校二年生の時であった。思い返すに、確か、曇天ののち雨が降り出した冬の日の放課後だったかと思う。

 放課後の教室は、冬のこともあり蛍光灯をすべて点けていなければもう宵闇に包まれたかのように暗黒であった。私と同じクラスの友人が二人、隣のクラスの友人が一人、のあわせて四人が、放課後も長々とおしゃべりしているクラスメイトたちが帰るのを待っていた。それまでは私たちもそれに混ざって適当にしゃべりつつ、教室に誰もいなくなる時を今か今かと待っていた。他のクラスメイトたちはまもなく下校していった。

 教室に残る目的というのは他でもない、コックリさんであった。当時からしても既にかなり昔に流行は過ぎた降霊術にどうして今さら興味を引かれ実行するまでになったかというと、それは分からない。数年後、私をはじめその場にいた四人が卒業後再会した席の思い出話でも、誰も心当たりがなかった。誰かしらが上の世代の人や昔の本からこの降霊術の話を知り、仲の良い数人を誘って実際にやってみようということになったのではないかと思うが、真相はやぶの中である。

 また、理由ばかりか、その日に使った道具一式を用意したのが誰だったかということも、四人とも自分以外の誰かだったろうと思い込んでいたことが、後になって分かった。私も他の友人と同様、それが自分ではないと誓って断言することが今でもできる。

 これらの不思議は置いておいて、とにかく、冬のほとんど夜のような闇に囲まれた誰もいない教室で、この四人がコックリさんをしたのである。真っ暗で何も見えない廊下に人の気配がしないことを確かめ、教室の前後のドアと窓硝子すべてを閉ざし、いよいよ開始する段となった。はじめのうちふざけていた私たちも、ここにいたっては自然と神妙な面持ちになっていた。

 教室の机を二つ並べて四角い面をつくり、そこに五十音と鳥居などが書かれた紙を広げた。誰かが十円玉を用意した。誰か気の利く者がいて、十円玉が机に引っ掛からないよう下敷きを並べて下地を平坦にした。そして私たち四人は固唾をのんで十円玉に指をのせた。霊を降ろすという決まり文句を述べたあと、今はもう覚えていないが下らない質問をいくつかした。多分に、危険を冒して尋ねるまでもない低俗下品な質問だったかと思う。

 結果としては、何も起こらなかった。十円玉は微動だにせず、私たちの目も見開いたままそれを見つけ続け、教室には冬の風が窓に打ち付ける音の他に何の音響も生じていなかった。

 一人が最初は丁寧に、無反応のコックリさんへと呼び掛けた。しかし依然何の反応もない。彼の催促する口調が、次第次第に厳しいものになった。そして最後には汚いものになった。相手が姿も見えず反応もしないものであるとなると、だんだんに恐怖が薄らいできていた。これだけやっても反応しない、すなわち存在しないと結論付けて、私たち四人は半ば嘲るような半ば安堵するような表情を浮かべ、コックリさんを正しく返霊することもせずに中途半端で終えてしまった。当座は何の変化もなかった。

 見栄を張って不安を口にしない私たちは、互いに物足りなさを誇るように言い合ってから、下校していった。

 成否は別として、降霊術を試みた後にその霊を正式な手順に則って返すことを怠れば、事後、何か罰が当たるかもしれないというのは当時もよく知られた説であった。それでも私たち四人はそれを怠った。そしてこの四人に洩れなく痛い目が降り掛かった。先の話とは異なり、今回はその間隔は非常に狭かった。その放課後から一週間のうちに四人全員が大なり小なりの怪我を負った。

 軽いものから順に、一人は早くも翌日に手の指を骨折した。当事者の話によると、下校中、急にボールがぶつかってきたという。不思議なのが、ぶつかった後も彼に駆け寄って謝りに来る者もおらず、結局自分の手にぶつかったボールが誰によってどこから投げられたのかも分からずじまいだったという。ボールの投げ手は逃げてしまったのか、あるいは。

 二人目は自転車から転落して頬から顎までを広く擦り剥いた。怪我後はじめて登校してきた時の、彼の顔に巻いた包帯が衝撃的であった。何の障害物もない、これまで何百回も通った道で転んだのを彼は不思議がっていた。そしてこの時にはもう皆、あの場にいた四人のうち二人が短期間で連続して怪我をしたことの不可解さを認識するに至っていた。私は友人には強気に振る舞ってみせてはいたが、内心では恐懼していた。

 覚悟していたが、ついに私の番が来た。ちょうど体育の授業で行っていた柔道の乱取りの際、多年にわたる使用で歪みきった畳のくぼみに足を取られ組み合う相手とともに転倒し、左の鎖骨を骨折した。畳のくぼみに足を取られたというのはあくまで事後の説明であり、実際は分からない。レントゲン写真では骨が真っ二つに折れていた。それ以降、今でも私の裸の肩に浮き上がる鎖骨は左だけ段差を作っているのがはっきりと分かる。プールでも温泉でもベッドでも、気づかれたら逐一説明せざるを得ないという手間が煩わしい。不謹慎だろうから私のことはこれで留める。

 最後に、四人目の最も重い怪我を負った者は、部活でサッカーの練習試合中に、ボールの競り合いのなかで他の選手と衝突して大腿骨を折った。彼は直後は車椅子を使わざるを得なくなり、次年度のはじめまで松葉杖が取れなかった。

 ここで、怪我をしたという事実以外に当事者四人に恐ろしい暗示を与えたものは、この一連の怪我の重さ軽さがあの放課後におけるコックリさんへの悪態の程度に比例しているということだった。一番軽い手の指の骨折をした者はあの時他の三人をなだめるような役回りであり、一方、大腿骨の怪我をした者はもっとも辛辣に無反応のコックリさんを誹謗していたのだった。このような暗黙の差異にも、私たちは超自然的な意思を感じ取ったといえよう。

 

 中学時代にはもう一つ奇妙なことがあった。これはその当座には誰もその原因を思い当たることはなかった。しかし、私が高校生になってから日本古典をよく読むようになって、回想して原因らしきものに突き当たったのである。順に説明する。

 二〇〇三年、私は十四歳、中学三年生の時のことだった。具体的には、夏休みが明けた後の九月一日の日の出来事。私の所属する三年六組は窓際の一つの大きな虫籠で、蟻やらバッタやら芋虫やらを飼っていた。野の自然を現出させて観察するとかいったようなコンセプトが掲げられていたと記憶する。

 夏になり、学校は夏休みの長期休暇に入るので、夏休み中の虫の世話はクラスの生徒が交代でやってきて行うことに決められた。当番の者はわざわざ夏休みに登校し、学校に宿直する管理人か教師に言って校舎内へ入るのである。夏休み初盤から中盤にかけての女の子らによるローテーションはきちんと守られた。しかし、夏の終わりから新学期までの期間はクラスの不良男子たちの番であり、ローテーションは守られることはなかった。そういう場合は担任の教師がしかるべき措置を取るものだが、諸般の事情で担任の教師も気が回らなかったのであろう。餌を与えられぬ虫たちの次の行動は想像に難くない。共食いである。

 そうして新学期となった九月一日のこと。久しぶりの再会に盛り上がる学生たちは気づく由もなかったが、夏休み中虫籠のことなど忘れていた担任の教師がホームルーム前に虫籠の異変に気付いた。あれほど多くの虫が蝟集していた一つの大きな虫籠のなかに、この時にはたった一匹、記憶もあいまいなものの夏休み前には見た覚えもない異形のバッタしかいなかった。夏休み中に虫籠のなかで何があったかは、この虫の丸々と太った格好を見れば容易に想像がついた。

 担任の教師は、さぼった世話係たちを皆の前で象徴的に𠮟りつけて事態を収拾した。その後は、新学期初日の変則的なタイムスケジュールからか、担任の教師は次の時間割までやや長い休み時間を言い渡した。

 休み時間中にも生徒たちは虫籠になどほとんど注意を払わなかった。

 しかし、虫の世話をしなかったことで人前で叱られた男子生徒は依然腹の虫がおさまらなかったようで、八つ当たりのように虫籠を叩いて唯一の生残を脅かしつけた。それでも足りなかったと見え、生残の一匹を虫籠より取り出し、周囲で気色悪がっている女子生徒らにわざと近づけておどけた。そして一通り用が済むと、最後にはその虫を、クラスのいじめられっ子の教科書を乱暴に取り上げてそれでもって叩き潰した。

 拉げた昆虫の、床にへばりついた体液と、無抵抗ながら怨恨の目で事態を見ていたいじめられっ子の表情とが実におぞましい印象を放っていた。

 奇妙なことはその日のうちに生じた。

 新学期初日のため午前には放課となるその最終コマ、先の虫を叩き潰した男子生徒の頭上の蛍光灯が何の前触れもなく落下した。幸い誰も怪我を負うことはなかったが、床には蛍光灯の残骸が粉々に散らばっていた。偶然蛍光灯の落ちるところを見ていた後ろの席の子は、蛍光灯は床に落ちて粉々になったのではなく、天井から落ちる時には既に破裂していたというような不可解なことを言った。クラスが騒然となっていたまさにその時、今度は教室後ろの掃除用具入れが前へと倒れた。もちろん地震もいたずらもなく何の力も加わっていない。最後方の生徒がそれに背中を打たれ、クラスに響き渡る複数の悲鳴に送られるように保健室へと連れて行かれた。

 蛍光灯を片付け、掃除用具入れを元に戻すことに時間を取られ、私たちのクラスだけが十二時を過ぎても教室に拘束されていた。この臨時の掃除の時間に、暇をしてベランダに出ていた生徒たちから叫び声が上がった。教師や他の生徒たちが駆け寄ってのぞくと、なんとベランダの手すりが崩れ地上へと落ちていた。凭り掛かっていた者は辛うじてベランダ側に踏みとどまり、三階から地上へ落下してしまう者はいなかった。経年の風雨に曝されて錆びきったことが原因と推定される、との調査結果が後日出たのだが、その日はとにかくもう早く下校するようにということになった。

 翌日登校すると、校門を入って校舎を一望すれば誰もがすぐに異常なことに気づいた。私たちのクラスの窓硝子だけがまるで狙ったかのようにすべて割られていたのである。先にも述べたが教室は三階にあり、一階二階の窓は割られていないのに三階のその教室の窓だけが割られているのが非常に不自然であった。教室の入り口のドアまでは行けたので中を見てみると、硝子は教室側に散らばっており、窓の外から割られていることが明らかだった。だが、投石など投げ込まれたらしき物体はどこにも残されていなかった。そして管理人や宿直の話では、昨夜は侵入者はおろか怪しい物音もしなかったということだった。

 その日のうちに生徒のあいだでは新しい学校の七不思議の一つができあがった。結局、誰も真相にたどり着く者は現れなかった。不可解な出来事は未解決のまま、皆の記憶の薄らぎとともに月日が流れていった。

 私は高校生になり、日本古典に興味を抱くようになり、種々の古典籍を次々と読み漁っていた。そんな或る日、偶然読んでいた故事にまつわる本に、蟲毒の欄があった。読んでみるに、先の私の中学時代の経験に当てはまっているように感じた。

 蟲毒とは古代中国発祥の呪術の一つで、日本では主に平安時代に陰陽道やそこから派生した民間呪術で行われていたという。術の内容は、多数の虫を一つの箱のなかに入れたまま給餌せず餓えさせ、互いに争わせ共食いさせる、そうして最後に生き残った一匹にはそれまで箱のなかで壮絶な経験をしてきた分だけ激烈な生命力と呪力が宿っているという。それを人間が呪術に利用する。

 先の、夏休みを唯一生き残った虫こそ、蟲毒でいうところの呪力を有する存在と化していたのかもしれない。あの日から翌日にかけて私たちの教室を襲った一連の現象も、あの虫の呪力に起因したものとして考えられるのではないか。


 次の体験は二〇〇五年、私が十六歳、高校二年生の時のこと。その夜、私たち高校生の一群が高校近くの神社へと肝試しにやってきていた。月は半月で澄んではいたが、今時分ちょうど広い雲が月を隠しはじめ、あっという間に辺りは闇に包まれた。風に吹かれ動いているといえども広く厚い雲が月を再び見せるのは、まだだいぶ先のことだろうと思われた。

 一週間前にこの神社であった夏祭りは一夜のあいだだけこの神社に賑わいをもたらしたが、それも儚いものであって、今の境内は本当に閑散としていた。一群は男女混じっていたため道中は面白おかしく喋りながらも、皆内心では一様に怖がっていたはずである。私たちはまだ入り口近くで足踏みしていた。夜風が高い梢を鳴らす音の他、何の音も聞こえない。正確な時刻は分からないが、午前二時近いことは間違いなかった。入り口から見える高殿もご神木も、既に深い眠りに就いているように静かで暗い。今や常駐する神主もおらず、月一回ほどの近所の老人たちによる掃除以外には人の手の加わっていない社は、荒廃に荒廃を重ねて鎮座していた。

 一週間前にも夏祭りでこの神社を訪れた私たちは、あくまで軽い考えで来ていたが今回来てみて初めて、ただの夜の神社のすさまじさを目の当たりにし、興味本位で肝試しに来たことを後悔し始めていた。それでも集団心理からか、怖がりながらも入り口から前へ進み、石段を登りきったところでいったん立ち止まった。女の子数人を含めた仲間同士の手前、まだ誰も引き返そうと言い出すことはなく、不気味な境内へ恐る恐る目を凝らした。

 ようやく一歩一歩動き出すことができるようになった私たちに、変な音が聞こえてきた。梢の鳴る音とは違う音であった。その音は社の裏一面に広がる林の奥から聞こえてくるようだった。もちろんその林は真っ暗闇のなかにある。その音は、誰かが鑿を木に打ち付けるような音だった。啄木鳥が杉を掘る音であったらどれだけよかっただろうか。さらに木を打つ音に混じって金属の衝突音のようなものも聞こえた。私たちは互いにこれが聞こえるかと確認し合った。皆、聞こえていた。

 全員がまるきり同じ想像をしていた。その想像はあの音を聞いた者なら誰もが考えるものだったろう。それは、丑三つ刻の真っ暗な林で、陰惨で病的な女が何かを呪い一心不乱に藁人形に五寸釘を打ち付ける姿であった。女の五寸釘が女の異常な力の込め方によって人形を貫通し、後ろの木までをも穿つ音にしかもう聞こえなかった。そんな絵に描いたような想像を苦心して脳から消して、私たちは勇気を振り絞ってさらに近づいていった。音は近づけば近づくほど増幅してゆく。私たちはついに社裏の林へと至った。

 暗闇のなか林の向こうに、幽かだが白い何かが見えた。それが人だと認めたくはなかったが、洋服にしては明らかにだぼだぼであるように思えた。もう白い着物しか連想できなかった。何ともステレオタイプだが、当座はそのことが却って想像に具象を肉付けして恐怖心を煽った。

 女の子たちを後方へ下がらせ、男たちは林の向こうに向かい誰かいるのかと呼び掛けた。と同時に、今の今まで続いていた音が急にやんだ。依然応答はない。これによって私たちは暗に相手が少なくとも人語を解する存在であることを知った。無論、その時は誰もそんなことを考える余裕はなかったが。続いて一人、彼は普段から心霊やオカルトを否定して憚らない人間であったが、その彼が、大きい声で林の向こうに対し、呪いは他人に見つかった時点で意味がないというようなことを茶化すようにして言った。沈黙が続いた。風に梢が鳴った。

 その時、真っ暗闇の林の向こうから、人のものか獣のものか、とにかく怒り狂って尋常ならざる咆哮が轟いてきた。私たちは飛び上がった。次の瞬間、林の向こうに見えていた白い靄のような影がぐんぐんとこちらへと近付いてくる様子が見えた。木の小枝や草を勢いよく踏み付けて来る音が響く。私たち一行は悲鳴を上げて一目散に神社の入り口のほうへと逃げた。はじめから女の子たちを後方へ下がらせておいて本当によかった。誰も逃げ遅れずに済んだ。

 全員が必死で遮二無二走り、石段を下りきった後、一行に欠けている者がいないことを確認し合った。当然、後ろはまだ警戒を怠れない。幸い、皆揃っており、追いかけて来る白い影も足音もなかった。

 一安心してもなお恐怖に震える私たちは、あれが一体何だったのかなどと話したが、当然誰も分からなかった。だが想像は皆、真夜中の神社で藁人形に五寸釘を打つ女で一致していた。

 すると一行のなかの一人が、おびえながら石段の上を指差した。彼女からは声にならない声が吐き出されていた。皆すぐにそちらを見た。

 石段の頂上に、白い人影が仁王立ちになっているのがはっきりと見えた。同時に、偶然広く厚い雲の一部の切れ間からいっときだけ月明りが差し込んだ。たちまちに明るくなってゆく地上で、石段の上の人影も月の光に照らされていった。

 私たちの想像通りの姿があった。白い着物をだらしなく着て、白い鉢巻きをし、右手には釘を打つための、いや今に限っては我々を叩き殺すための金槌を握った、病的に蒼白な女である。ちょうど光が女の顔へと差し込んだ。女の鼻から上はまだ暗くて見えなかったが、月光の差した口元は、邪悪な含み笑いをしているように見えた。

 月は再び雲に隠れ、不気味な女はすぐにまた暗闇の白い人影となった。次いで、はっきりとは見えないにもかかわらず、その女が鬼の形相で石段をすごい速さで下ってくるイメージが直感に届いた。これはくしくも私たち全員が同様に感じたらしい。ほぼ同時に、再度私たちは逃げに逃げた。今度は近くなどでは決して止まらずに、一番体力のない子が疲れ果てるまで走り続けた。どうにか逃げきれたらしかった。あまりの恐怖のため誰も振り返ることすらできなかったので、以降のあの女の行方は誰も知らない。その日以降、私は数週間にわたって、あの夜あの女が元の場所に引き返し、替わって私たちを呪っていたらどうしようという恐怖に苛まれた。幸運にも後には何もなかった。今でもあれが生きている人であったか、この世のものではない存在であったか、つゆ分からない。しかし、後者であれば当然恐ろしいが、前者であったとしても生きている人間があのような方法で他の人間を呪っているのだからまことに気味の悪い話である。


 大学生になった今、ここに書けるような新しい体験はまだない。ただ、最近の私の興味を引いているものはある。何かというと、犬神である。この犬神も蟲毒と同様、出典は古典籍である。平安時代以降、主に西日本を中心に民間に流布した呪術である。

 その方法はいくつもの異なる形態のものが伝えられているが、もっとも広く知られているのは以下の方法であろう。犬を頭だけ地上に出るようにして土に埋め、目の前だが絶対に届かないところに食物を置く。犬が飢餓状態に陥るまで放置する。まさに餓死しようとする間際のところで犬の首を切り落とす。すると切り落とされた犬の首が飛んで食物に食らい付くらしい。その首を捕まえて焼き、祭器に入れて祀ると、人に憑依するかして当人の願いをすべて叶える存在となるそうだ。残念なことに、私はまだこの降霊術に対する返霊方法を知らない。これからも調べ続け、返霊の方法を知った暁には、すみやかに実行に移してみたいと考えている。いやいっそのこと、返霊方法を知る前に決行したとて、罰はこの一身で受ければよいもの、気安いものであろうか。あるいは私もどこかおかしくなってしまっているのか。


 最後に、私にとって唯一、はっきりと見えた経験のあらましである。

 年は二〇〇三年、私は十四歳、中学三年生であった。季節は初夏で、前出のコックリさんに起因したと思われる鎖骨骨折はもうほとんど完治していた。

 その頃市内で最大の病院が私たちの中学校の学区内にあった。町の診療所と比べてはるかに現代的な施設や設備を誇り、近所の人たちは何か不調あればたいていそこの厄介になる病院であった。

 そしてその病院には、病院を訪れる大半の人が赴く本棟や事務員の詰め所、関係者のための保育園などの建造物の他に、敷地内のはずれに人目にもつかず茫々たる草のなかにたたずむ廃墟が存在した。

 私たちの親の世代が子どもだった頃でさえ、既に使われなくなって久しい廃墟だったという。同じところで生まれ育った私の両親も、その建物が廃墟となっている状態しか記憶にないと言っていた。

 廃墟と隣接してたつ古寂びたお堂の存在もまた、何か現世ならぬ雰囲気を醸し出していて、ますます周囲の人々の足を遠のかせた。電灯はもちろん明かり取りさえない暗いお堂の奥には、いにしえの建立の目的を今に伝える五百羅漢像があった。廃墟と同じく、このお堂に関するさまざまな噂話も地元には綿々と伝えられていた。子どもにとって、この廃墟と五百羅漢を祀るお堂の二つはともにとうてい理解しがたい異様な存在であった。

 廃墟に関して、中学に上がったのち、友人の一人がその祖父母に尋ねてみたことを伝え聞いて初めて、その建物が戦中から戦後直後にかけて肺結核の重篤者を収容、いや隔離しておくための病棟であったことを知った。現代において、ましてまだ中学生の子どもにとって、一昔前の不治の病であった肺結核などはもう昔話のようであって、ほとんど実感をともなうことはなかった。肺結核が今でも確かに存在する厄介な病気であることも、もちろん当時は思いも寄らない。

 電気も通っていない、コンクリート打ちっぱなしのその建物は昼間でも薄暗く、言い知れぬ不気味さをもってたたずんでいた。当然、そのような廃墟は肝試しなどの格好の対象となりえる。壁には落書きが、周囲にはいっぱいのゴミが散らばって、惨たらしい光景であった。小火や不審火のたぐいは半年に一度は必ずと言っていいほど起きた。

 そしていつの頃からか、その廃墟にまつわる様々な噂が世代を越えてまことしやかに語られるようになり、それはたちまち隣のお堂にまつわる噂をはるかに凌駕する怪異譚となった。その廃病棟は近郊でも有名な心霊スポットとなった。

「あの建物、出るらしいよ」

「窓硝子もない三階の窓から血だらけの女がのぞいていた」

「肝試しなどもってのほか。夜には絶対に近づかないほうがいい」

 こんなことがよく言われていた。

 その廃病棟は私の家から近い距離にあったので昔から見慣れていたとはいえ、夜道でその横を通らなくてはならない時など、決して横を見るまいと心掛けながら通り過ぎたものだった。

 しかし中学三年の時の或る日、私が登校すると教室は朝から既にその廃病棟に関する話題で持ちきりだった。

 友人が聞かせてくれた話によると、隣のクラスのK君たちが先週日曜日の夜にあの廃墟に入ったところ、とんでもない体験をしたとのことだった。当然、子どもの肝試しの取るに足らない功名話であったから、こと細かなものではなく、肝心の内容はぼんやりとしたまま伝えられた。彼らが見たという幽霊も、噂通りの女であること以外、何もわからなかった。

 とにかく、その日のうちの、その日限りの学校内における心霊熱の盛り上がりは異常なものがあった。そして、男子生徒有志六人ほどが、K君らに続けとばかりにその日の放課後、廃墟へ入ってゆくことが決まった。私は衝動的な決定に危険を感じていたが、廃墟から一番近所であったことを頼まれ、同行することになってしまった。

 夕方、場所柄かやけに不気味に見える柳をくぐり、草をかき分けて私たちは廃墟へと入った。一階内部は淫猥な落書きや雑然とした焚き火の跡、スプレー缶のゴミなどがあり、悪童たちのいたずらの跡が残されていた。結果としては、一階では何も起こらなかった。私はこれ以上進みたくなかったので戻ろうと言ったが、一行は計画通り二階、三階へと上がってゆくことを変えなかった。

 やはり肝試しで入ってくる人々もなかなか二階までは上がる勇気を持ち合わせないのか、二階は一階よりも全然人跡が残されていなかった。いつの時代のものか分からない、昔は病人の寝床であっただろうベッドの骨組みだけがいくつも残されていた。そんな同じ型の部屋が複数連なっていた。幸い、二階でも何も起こらなかった。そしてここでもう一度私から引き返すほのめかしをしたが、却下され、一行は三階へと進んだ。

 三階にも大半は二階と同じ病室のような部屋が並んでいたが、こちらの廊下はほとんど落書きもゴミもなく歩きやすかった。進んでゆくと、途中に一部屋、内部に何もない壁と床だけの一室があった。

 一行はその一室の入り口を何の注意も払わずに通り過ぎようとしたが、私は通り過ぎる時の一瞬、横目にちらりと不自然に人の影を見たような気がした。人影は部屋の奥の窓際のほうにいるようだった。通り過ぎながら、そちらへ視線を移してみようかという考えが頭をよぎったが、そこで私の直感か何か、第六感めいたものが私自身に対し絶対にあれと目を合わせてはならないと訴えた。見てはいけない、存在に気が付いた素振りも見せてはいけないと思った。そのまま通り過ぎようとした刹那、極めて小さいが確かに私の耳に届く女の声を聞いた。

「ねえ、見えてるんでしょ?」と確かに言っていた。幽かに横目に映った影と今聞こえた声からして、女は若いが幼くはないほどの年の女だと感ぜられた。友人たちにはこのことを言わないほうがよいと思った。

 その部屋を過ぎたのちも、後方からは同じ、

「見えてるんでしょ?ねえ、こっち向いてよ」という言葉がずっと繰り返されていた。

 そのうちに私たちは三階の西から東までフロアーを調べ尽くした。何も見えなかったようだった。私以外には。ようやく引き返せることとなった。二階へ降りる階段へ行くためには、先の一室をまた通らなくてはならなかった。その入り口を横切る時、私はあと少しでそれを直視してしまうほどにぎょっとして飛び上がった。

 先刻横目に見えた気がした女の姿が、今度はその一室の入り口の壁すれすれに内側からもたれかかるようにいて、一行を睨みつけていた。いや、正確には睨みつけているように感じた。私は直視してはいなかったが、女の着る衣服が粗末で汚れきった藍色の着物であることは見て取れた。さらに、着物の上半身、特に衿から下に、藍の地へ何かの液体が多分に染み込んでどす黒く変色した部分が見えた。吐き出した血液が藍色の着物に染み込んだらきっとそうなるだろうという色合いであった。女の顔は絶対に見ることを避けていたが、同時に聞こえてくる声が今度は怒鳴り声で、

「おい、見ろ。見ろ、見ろ、見ろ」と叫んでいたことから、女の表情もきっと憤怒に満ちた形相であったと推測できる。

 私は女がその部屋から出ることは不可能であってくれと祈りながら、その前を横切ろうとした。するとその時、藍色の着物からのぞく白く細い片腕が、勢いよく私に掴みかかろうとして繰り出されてきた。これを避けようとして、私は女の腕と胸から首にかけてを至近距離で見てしまった。そこには女の口から吐き出されたであろう血がべっとりと付着していた。当時私は肺結核の病状を詳しくは知らなかったが、この大量の吐血は強烈に死を私に感じさせた。私がこれを悟ると同時に、女の新たな言葉で、

「見なきゃ殺せないんだよ」という恐るべき声が聞こえた。

 何とか女の手に触れられることは避けられたが、思わず大声で「うわっ」と言ってしまった私を発端に、他の友人たちも巻き込んで一行は突然のパニックに襲われた。全員が全員、とにかく全力でこの廃墟を脱出しようと走り出していた。

 ほとんど自動的ともいえるほど一目散に廃墟から吐き出された私たちは、少し離れた草むらに荒い息をしながら集まった。パニックの発端となってしまった私は、いまさら三階で幽霊に襲われたなどとは言えずに、ただ落ちていた木の板につまづいて驚いてしまったのだと、わざと照れながら説明した。その場では皆、安心と羞恥の入り混じった表情で、驚かせるななどと言いながらこれを聞いていた。皆、必死の形相で逃げた自分を恥ずかしく思っていて、お互いにこれ以上話を進めることはなかった。ただ私が勝手につまづいただけで、決して幽霊が出たわけではないという共通理解ができあがった。無駄話をしながら、その実全員が心を落ち着けるのを待ってから、私たちは家路についた。廃病棟三階のあの部屋の窓を下から振り返ることはできなかった。

 それ以来、近所に住みながらも私はあの廃病棟へはまったく近寄らなくなった。廃墟の一室にいたあの女も、廃墟の外までは何か力を波及させることはできないようで、それからの私の身や生活に目立った変化はなかった。学校における心霊熱も、その日から数日間続いただけで冷めてしまい、以降は何事もなかったかのように日々が過ぎた。

 四年もの年月が経って初めて私はあの廃墟に近づいて周囲を歩いてみた。しかし、その時も建物のすぐ隣までは近づくことができなかった。それからも私は極力その廃墟のわきの道を通るのは避けたけれども、どうしてもやむを得ない場合は、目を伏せるようにして素早く通り過ぎた。

 現在では、手入れもされず伸びに伸びきった周辺の草木に蔽われて、廃墟はまるっきり道からは隠されているが、今でも私はそのわきの道を心ならずも通る時決まって、何か言い知れぬ嫌な視線が自分へ注がれているように感じられてならない。

 話は少し転換するが、その四年のあいだに、確かいつかの年の盂蘭盆の時節だったと思うが、私は何とはなく祖父にあの廃病棟のことを尋ねたことがある。

 祖父は戦時中には陸軍の志願兵として大陸に配属されていたが、入営する前、復員した後、いずれもずっと地元に生活していたため、あの廃墟が病棟として現役で用いられていた頃の事情にも精通していた。私がこれを書いている平成二十二年現在も矍鑠として健在であるから、近々愛飲のヱビス麦酒でも手土産に詳しい話を聞きにゆこうと思っている。きちんと当時のことを確かめたのちでなければ、この稿は脱稿の日の目を見ないであろう。この稿が世上に出たということはすなわちその経過をたどったということを保証するものである。

 なお、祖母も同じ地域で生まれ育っているのだが、無論悪気のあるべうもないが、病気に関する当時の偏見もあり、意識的に病棟を避けて暮らしていたらしくあまり詳しい事情は知らないようだった。

 祖父の話によると、その廃墟は実際に重篤な肺結核患者のための病棟であり、昭和十年代の初葉に建てられ、そこへは主として県東部の都市から患者が輸送され収容されていたという。しかし、そのような患者が送られてくる内実は、都市部の貧民層の家々における感染者を、半ば強制的に、持て余し捨てられるようにして送られてきたというものだった。さらには病棟の建設以降、戦争や悪化するその戦況により世の中はますます窮してゆく一方で、病棟の環境は劣悪化の一途をたどったという。無論、物質的にも治療らしい治療が行われていたとは考えにくいであろう。

 祖父は昭和十七年に陸軍へと志願して教練を経てすぐに日本を離れてしまったため、そこから先の数年間の病棟の様子は分からなかった。ただ、満州から復員して帰郷したのちでも、あくまで外側から見た限りでは、病棟の状態は決して良いものではなかったように見えたという。

 これが事実だとするならば、重篤な症状にもかかわらず、近親の人々からは捨てられるように突き放され、劣悪な環境で治療らしい治療も受けられずに亡くなっていった人々の忿恨は察するに余りある。

 私が廃墟の一室に見たあの女も、同様の思念をこの世に残したまま儚くなり、死してなお現世のあの一室に縛られ続けているのだろうか。


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【小説】怪談 紀瀬川 沙 @Kisegawa

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