アップルパイにはアイスを添えて

佐倉島こみかん

アップルパイにはアイスを添えて

 私の恋が、薄紅の秋の実をつけることなどないと、初めから分かりきっていた。

 新着のメッセージを告げる軽快な電子音は、終わりの合図。

瑠衣るいちゃん! 田中さんからOKをもらえました! 瑠衣ちゃんのおかげだよ~! 本当にありがとう!!』

 キラキラした絵文字と可愛らしいスタンプから溢れる相手の喜びに、静かに溜息を吐いた。

『良かった~! おめでとう! 私はちょっと場を設けただけだし。ユキが頑張ったからだよ。勇気出した甲斐があったね!』

 私はすぐに返信をして、クマのキャラクターがクラッカーを鳴らしている「おめでとう」のスタンプを送った。

 ユキこと藤村幸恵ふじむらゆきえは、大学入学時に同じ基礎演習のクラスで知り合って意気投合し、二年でゼミが分かれてからも一番仲のいい友達である。

 小柄でちょっとぽっちゃりしているところが可愛くて、長くて綺麗な髪とぱっちりした二重、ぷっくりした唇の印象的な女の子だ。

 髪も短く背も高く、ひょろっとした貧相な体型で男子とよく間違われる私とは正反対の見た目である。

 ユキは温和で真面目だけどちょっと抜けたところもあって、世話焼き気質の私と気が合ったのだ。

『でも田中さんを紹介してくれたし、色々相談に乗ってもらったし、瑠衣ちゃんに背中押してもらわなかったら告白なんてできなかったもん! 何かお礼したい!』

 「田中さん」とは、うちのゼミの院生の田中一たなかはじめさんのことで、合同授業の際にユキが田中さんに一目惚れしたので、ゼミ合同の飲み会を開いて私がお互いをお互いに紹介したのである。

 田中さんは確かに背は高いけど、銀縁眼鏡に不精髭で、いつもよれよれの白衣を着ているお洒落とは正反対の地味な人で、正直、一目惚れの要素が全く見当たらない。

 でもユキ曰く、その見た目がいいらしく、また、授業の際の人とのやり取りの誠実さや、発想の面白さに惹かれたらしい。

 確かに田中さんは、院生だけど学部生の私達後輩にも優しくて、研究熱心で、とってもいい人なのだ。

 ゼミやその前後で話をするうちに私も『島崎しまざき』と呼び捨てにしてもらえるくらいには仲良くなって、飲み会で隣の席を確保できる程度には親しい先輩である。

 二年の終わりになるまで、ユキから恋の話題など出てこなかったのに、田中さんと出会ってから田中さんの話ばかりで、それならばと親友である私が一肌脱いだのだ。

 でも本当は紹介などしたくなかった。だって、両方と仲のいい私は、会ったら絶対お互いがお互いを好きになる確信を持っていたから。

 そしたら私の秘めた恋が決定的に壊れてしまう。

 それでも私は、幸せになってほしくて、キューピッドになったのであった。

『よければ瑠衣ちゃんの好きなもの何でも作るよ~!』

 ユキの提案に苦い気持ちを抱えて思案する。

『マジで? そしたらアップルパイがいいな』

 お菓子作りが趣味のユキが作るスイーツを、これまでたくさんご馳走してもらった。

 しっとり濃厚なガトーショコラ、ふわふわの紅茶シフォンケーキ、中華屋さん顔負けの杏仁豆腐、オレンジピールの香る上品なマドレーヌ、クリスマスに二人で食べたブッシュ・ド・ノエル――ユキの作るものは何でも美味しいのだけれど、私はその中でもアップルパイが一番好きだ。

『分かった! 明日とかどう?』

『空いてる! 楽しみにしてるね』

 メッセージの後に「ありがとう」のスタンプを送って、私はスマホを伏せて置いた。



 翌日、私はユキから『今オーブンに入れたよ~!』の連絡をもらって、家を出た。

 自転車ですぐのスーパーに寄って、バンホーテンのバニラのカップアイスを2個買ってからユキのアパートに向かう。

「いらっしゃい! ちょうど焼き上がったところだよ。図ったみたい!」

 インターホンでやり取りをしてから、エプロン姿のユキが満面の笑みで出迎えてくれた。

「焼きたてが食べたくて、来たからね」

 軽口を叩いて部屋に上がれば、煮詰めた林檎の甘い香りとパイ生地の香ばしい匂いが混然一体となった、幸せの空気で満ち満ちていた。

「バニラアイス買ってきたから、載せて食べよう。二個買ってきたから、一個は後でユキが自分で食べて」

「わあ、バンホーテンだ! ありがとう!」

 目を輝かせて言うユキの笑みが傷心に沁みるが、表には出さない。

「おめでたいから奮発しちゃった。ダッツだとバニラの香りが強すぎるから、こっちがいいかなと思って」

「さすが瑠衣ちゃん分かってる! それじゃあ、急いで切り分けるね」

 アイスが溶けないうちに、ということだろう。

 玄関からすぐの流し台の方へ小走りで向かうユキの小さな背中を見て微笑ましい気持ちになる。 

「慌てなくていいからね。私、お皿出すし。一個は冷凍庫に入れとくよ」

「はあい、よろしく!」

 流し台の下の収納扉から包丁を取り出しながらユキは言った。

 何度も泊りがけで遊びに来ているから、勝手知ったる他人の家なのである。

 冷蔵庫の上から二段目、小分けにしてラップで包まれたご飯や残り二枚になっている六枚切りの食パン、お肉や作り置きのおかず、刻んでジッパー付き袋に入れてある小葱などが整頓されて入っている冷凍室にアイスを一つ入れた。

 そのまますぐ後ろの食器棚からオフホワイトで縁が赤い陶器の平皿を二枚取り出す。

「はい、お皿。アイス掬うからスプーンも借りるね」

「ありがとう。どうぞどうぞ」

 渡したお皿に八等分にしたアップルパイを載せるユキの返事をもらい、金属製の大きめのスプーンをカトラリーケースから取り出し、水道の蛇口のレバーを温水側に捻った。

 蛇口の水がお湯になったらスプーンをさらして温める。

 十分な温度になったスプーンをキッチンペーパーで拭くと、道中で適度に柔らかくなったバニラアイスに入れ、力加減に注意して手前に引いた。

 アイスディッシャーいらずでくるりと楕円形に丸まって掬われたそれを、ユキが切り分けたアップルパイに載せる。

「何度見てもすごいよねえ。流石レストランのキッチン担当!」

 ユキはこのアイスを丸める作業を見るのが好きだ。

 バイト先の業務で必要な作業だから身に着けたのだけれど、こうも喜んでもらえると嬉しい。

「ほら、そういうのいいから早く運んで。写真撮るなら溶けないうちに撮っといてね。スプーン洗ったら私もそっち行くから。こっちの紅茶ポットも持ってく?」

「ありがとう。そうしてくれると助かる」

 照れ隠しで畳みかければ、ユキが隣の部屋に向かいながら返事した。

「はいはい」

 スプーンをサッとスポンジで洗うと、準備してくれていたであろうお盆に載っていた紅茶のポットとティーカップとソーサーのセットを隣の部屋に運んだ。

 ユキの家は1K風呂トイレ別の部屋で、ワンルームは六畳である。

 冬は炬燵になる机の上に私がお盆を置けば、写真を撮り終えたスマホを机の上に置いたユキがティーカップとソーサーをセッティングして紅茶を注いでくれた。

「ではでは、本当に色々とありがとうございました、瑠衣ちゃん! おかげでお付き合いできることになりました。心ばかりのお礼ですが、どうぞ、召し上がれ!」

 向かいに座った私に、ユキは大仰に畏まって言った。

「ふふ、どういたしまして。いただきます」

 そんなユキに笑って、まずはバニラアイスの載っていないアップルパイの先端にフォークを入れる。

 網目状に被せた上部のパイ生地がパリッとした手応えで、16等分くらいの薄さに切られて煮込まれた林檎はじゅわりと柔らかい。

 一口大に切った後フォークを上から刺して、中身が零れないように手を添えて口に運んだ。

 サクサクのパイ生地のバターの香りと少しの塩気、少しのシナモンが香る熱々の林檎のフィリングの甘酸っぱさが絶妙のバランスだ。

「はあ、何度食べても美味しい。天才」

 私が初めて食べた母手作りのアップルパイは、シナモンが効きすぎてフィリングの味なんかよく分からなくて、パイ生地はベタベタで、ちっとも美味しくなくて、それ以来、食わず嫌いしてきたのだった。

 でもたまたま、ユキの家に初めて遊びに来た時に出されたアップルパイを苦手と言い出せずに食べてみて、こんなに美味しい食べ物だったのかと驚いた。

 シナモンもバランスさえ取れていればフィリングの味を引き立てるものだと知り、それ以来、シナモン抜きか控えめのアップルパイなら食べられるようになった。

「もう、瑠衣ちゃんも褒めすぎ!」

 はにかんで言うユキのなんと可愛いこと。

 そりゃあ、田中さんも好きになるはずだ。

「んん、バニラアイスのところも最高だよ!」

 照れ隠しに咳払いして、バニラアイスのところから食べたユキが言うので、私もじわりと溶けだしているバニラアイスを掬ってアップルパイと一緒に口に入れた。

 ふわりとしたバニラの香りとミルク味わいが林檎の甘酸っぱさをまろやかにし、焼きたてのフィリングの熱さとアイスの冷たさの温度変化が楽しい。

「熱々のパイと冷たいアイスの組み合わせって、世が世なら王様の贅沢だよね」

 しみじみと言えば、ユキは小さく笑った。

「そうだねえ。贅沢だねえ」

 こんなしょうもない一言にも同意してくれる、私の

 意外と甘党の田中さんにも、お菓子を作ってあげていたのは知っている。

 食べやすく重すぎないブラウニー、ザクザクの食感が楽しいロッククッキー、バターとアーモンドの香りが素朴なフィナンシェ――全部、差し入れしやすく日持ちする焼き菓子だ。

 でもこの持ち運びに向かない、アイスを載せた焼きたてのアップルパイは、ユキのお部屋に来ないと食べられない。

 ざまあみろ田中さん。これはまだ、私だけの特別なお菓子だ。

 好きな人が作った私のためだけの特別なお菓子は、きっと、世界中のどんな貴族が食べるお菓子よりもずっと美味しい。

 それでも、いつかきっと、田中さんもこのアップルパイを食べる日が来るだろう。

 その時はアイスを買ってくる程度の甲斐性は見せてくださいよ、と心の中でよれよれの白衣姿に言い聞かせた。

 せっかく温かいので、アイスの載った部分が冷めないよう急いで口に運んでいるうちに、そのいつかなんて永遠に来なければいいのにと思えてくる。

 このアップルパイが美味しければ美味しいほど、ユキが誰かのものになってしまうのが辛い。

 ぐす、と洟をすすってまばたきしたら、涙が零れ落ちた。

「え、瑠衣ちゃん泣いてるの!? どうしたの、大丈夫!?」

 ユキは慌ててティッシュを取って渡しながら言ってくれる。

「ユキぃ、嬉しいけど寂しいよお~! 田中さんと付き合っても、私とも遊んでねえ~!」

 6割本音で大げさに言えば、ユキは私の方に来てハグしてくれた。

「もちろんだよ、彼氏ができたからって親友をないがしろにするわけないじゃん!」

 その胸が温かくて柔らかくて、背中を撫でる手が優しくて、無性に安心するのにどこまでも悲しい。

「ありがとう……そういうとこ大好きだよ、ユキ」

「私も瑠衣ちゃんのこと大好きだよ。心配しないでね」

 ああ、その『好き』とは種類が違うんだよ、と言えたらどれほどいいか。

 でも私はこのポジションを失くしたくない臆病者だから、絶対に、言わないのだ。

「でも、しっかり者の瑠衣ちゃんがこんな風に泣いてくれるなんて思わなかった。ちょっと意外な面が見えて嬉しいかも」

 笑みを含んだ声で言うのを聞いて、取り乱してしまって恥ずかしい気持ちがようやく湧いてくる。

「うう、ごめん。みっともなかったね。ユキもさ、田中さんとのことで困ったことがあったら……いや、困ったことなんてなくても、どんどん話してね。何でも話、聞くからね」

 私は二人の逢瀬を見守る林檎の木になりたい。

 昔、国語の教科書に載っていた私と同じ苗字の文学者の詩を思い出して、そう思った。

「えへへ、ありがとう。頼りにしてるね」

 ユキに言われて、私は身体を離した。

 そろそろ『しっかり者で世話焼きの瑠衣ちゃん』に戻らねば。

「でも私、独り身だから、あんまり惚気話を聞かされると寂しくなるかもなあ~」

 おどけて言えば、ユキは全く痛くない力加減でぺちりと私の肩を叩いた。

「もう、瑠衣ちゃんったら。そしたら、話を聞いてもらうお礼に、またお菓子作るね」

 私の気持ちなんて微塵も知らない優しい笑みに、私も笑顔を返す。

「いいねえ、甘いお菓子と甘い恋バナ! 女の子はお砂糖とスパイスと素敵なもの全部で出来てる! って感じがする」

「ふふ、その時はまたよろしくね」

 テンションを上げて言えば、ユキは照れ笑いした。

 大好きで、大事で、誰よりも幸せになってほしいから、私は林檎の木でいいのだ、と言い聞かせる。

「うん。ああ、ごめん、アイス溶けちゃったね。せっかくサクサクだったのに」

 すっかり溶けてしまったアイスを見て、私はユキに謝った。

「全然いいよ。これはこれで乙じゃない?」

「そう? ユキがいいならいいんだけど」

 冷めてしまっているであろうアップルパイを切り分けながら、さよなら私の初恋、と心の中で呟く。

 こんな苦しい想いも、砂糖漬けにすればいつかきっと消化できるようになるかもしれない。

「うん、まあ、悪くないね。でもやっぱりサクサクの方が美味しいよ」

「じゃあ、おかわり食べる?」

「うん、これを食べ終わったら食べたい」

 だから沢山、ユキの話を聞いて、お礼のお菓子を食べよう。

 傷心が砂糖漬けになるくらい。彼女が幸せならそれでいいと笑えるくらい。

 私は田中さんとは別の『特別』だし、ユキが私のために、私を思って作ってくれることに変わりはないのだから、と自分に言い聞かせる。

 溶けたアイスに浸かってびちゃびちゃになったアップルパイを口に入れれば、まだほのかに温かい。

 それは不格好で、どろりとしていて、生温なまぬるくて――きっと、失恋の傷からこぼれた恋の臓物の味だと、思った。

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