第終節 雨が降る夜、月の下で
「ぅ、うう……こ、ここは……海?」
刹那の意識の断絶の後、私たちは浜辺にいた。体がだるさを訴えたが、じっとしているうちに治ってきた。横を向くと魂が抜けたように立ちすくむ霖がいた。呆然と空を眺めて、何かを呟いている。何かあるのだろうかと思い空を見上げようとした時、霖が突如自分の頬を両手で思い切り叩いた。
「……霖ちゃん?大丈夫?」
霖と目が合った。その瞬間、私は小さな悲鳴をあげた。あまりに霖の眼が怖かったからだ。思わず後ずさろうとしたがまだ足がガクガクしていてよろける。突如、霖が前屈みになったかと思うと砂を蹴る音と共に彼女の手が私の腹に食い込んだ。
次の瞬間、私の視界には空ばかりが映っていた。いや、正確には空に浮かぶ無数のクラゲと満月だった。内臓が持ち上がる嫌な浮遊感に一拍遅れて、経験したことのない恐怖が一瞬で身体中を支配する。反射的に目を瞑ってしまう。しかし地面に打ち付けられる衝撃はいつまで経っても訪れず、代わりに訪れたのは弾力のある柔らかな何かだった。恐る恐る目を開けるとその柔らかなものは何故か見当たらず、私は自分の二本の足でしっかりと砂浜を踏みしめていた。
「り、霖ちゃん……どうして?!」
そう言うと霖は悲痛な顔で口を開いた。
「ごめんなさい葉月さん。こんなことよくないってずっと悩んでたんです。でもあのクラゲ達を見てやっぱりこうするしかないんだって思って。私、実は紅雨の子供なんです。兄と違って紅雨の居城である月からうまく逃げ出せませんでした。紅雨の側に長くいてしまったせいで、私はあいつの支配を受けやすくなってしまったんです。私は、今空に浮いているクラゲような考えることすら許されない操り人形になりたくないんです!でも私には力が足りなかった。紅雨は今も私たちを見ていて、きっと気まぐれで浜辺に転移させてクラゲを空に浮かべて、なのに私は怖さで震えることしかできない!だから兄の助けを乞おうと思ってた。なのに兄はもう神隠しにあっていて!兄はきっと帰ってくるなんて葉月さんに言ったけど、本当はそんな保証どこにもないんです!システムを騙せるかどうかも分からない。月が出ている時に狐の嫁入りが起こるのを待つ時間なんてない。私にはできることも時間もないんです。最近どんどん自分の体が言うことを聞かなくなってきているのがとても怖くて怖くて、夜も眠れない。そんな時、葉月さんが紅雨に対抗できる力を手にしていることに気づいてしまいました。その力は元々兄のものです。兄が葉月さんに譲渡できたなら、それを私が手に入れることもきっと可能なんです!人間が死んだら、その体の中にある魂という名のエネルギーはクラゲに吸い寄せられます。すみません葉月さん、あなたを殺して魂ごとその力を貰います」
そう言い放つと同時に霖は力強く砂を蹴り、私に肉薄する。悲鳴をあげる余裕も、目を閉じる余裕もなく、私はただ呆然と突っ立っていた。
私の頭の中はカオスだった。死にたくない。時雨が帰ってこないかもしれない。霖に対してどういう気持ちを持てばいいのか分からない。幾つもの感情と疑問が生まれ、そして暴風の吹き荒れる頭の中で粉々にされていった。
私の眼は霖を見ていたが、その映像を脳が正しく理解することはなかった。コマ送りの様な世界の中で、私は何かを思うわけでもなく、ただ存在するのみだった。
――いつまで経っても身が軋む様な衝撃が来ないことに疑問を持たないままで。
私を正気に戻したのは耳を
はっと顔を上げると海水が空に飛び散り月の光がそれを煌めかせていた。それは雨の様に降り注ぎ、私は考える前に月に手を伸ばして叫んでいた。
「助けて、時雨……!」
次の瞬間、頭上のクラゲ達がパッと消えたかと思えば無数の泡が私達に降り注ぐ。未だにパラパラと降ってくる塩の香りのする雨の中で、泡はゆっくりと寄り集まっていき、徐々に光を発し始めた。いつの間にか霖の攻撃は止んでいた。しかし未だに見えない何かが私を守ってくれていることはなんとなく感じていた。霖は呆然と、されど食い入るように勢いを増していく泡を見つめていた。
刹那、視界が白に染まるほどの強い光が放たれた。再び色を取り戻した世界で私の目に飛び込んできたのは一つの人影だった。
「葉月、ただいま」
「っ……!時雨の小説、難しすぎなんだよ……大変、だったんだから」
ずっと会いたかった人が目の前にいる。なのに涙でよく見えない。拭っても拭っても涙は洪水のように溢れてくる。言いたいことはいっぱいあるのに何故か出てくるのは憎まれ口ばかりでまた泣きそうになる。
時雨はそんな私の背中をそっとさすってくれた。そして霖の方を向き、宥めるようにゆっくりと言葉を紡いでいく。
「実は神隠しにあった後、気づいたら僕は月に居たんだ。紅雨の居城で、ずっと葉月と霖のことを見ていた。いや、見せられていた。葉月が辛そうな顔をする度にもどかしくて胸が締め付けられる思いだった。僕は君のこと知らないけど、妹だってことはなんとなく分かった。まずはここまで葉月を支えてくれてありがとうと言っておくよ。でも君が葉月を殺そうとしたことは例えどんな理由があっても許せない。だけど君をそんな行動に駆り立てる原因となった紅雨のことはもっと許せない。だからこの力、君にやるよ。今からコマンド教えるから、受け取って紅雨に一発ぶちかましてきなよ」
そこで思わず私は口を挟んだ。
「私は、霖ちゃんとこれからもおしゃべりしたり遊んだり、また水族館に行ったりしたい。ずっと友達でいたいよ!」
霖はそこでやっと固まっていた体を動かし、私と時雨を交互に見た。その目には涙が一雫浮かんでいた。
「私、私、葉月さんに酷いことをしてしまいました。ごめんなさい。悔やんでも悔やみ切れないほど後悔してます。そして時雨兄さん、本当にありがとうございます。紅雨に一発入れて、葉月さんに罪滅ぼしするためにまた帰ってきます」
最後は絞り出すような声で霖はそう言った。彼女の眼には既に大粒の涙で溢れていたが、それでもその眼の奥に宿る真っ直ぐな信念は今も変わらず燃え続けていることはいとも容易く感じ取れた。
それから、時雨は霖に力を譲渡した。私の周りに感じた何かは、いつの間にか感じ取れなくなっていた。私は小さくありがとうと呟いた。
霖はその後すぐに飛び立った。私たちは遠ざかっていく霖を眺める。彼女はずっとこちらを振り返って見ていたが、やがて前を向きそのまま姿は見えなくなった。
「霖ちゃんは、自分で自分の道を切り開こうとする人だなって感じた。そうせざるを得ない環境にいるからかもしれないけど。とにかく、無事に帰ってくるといいな……」
「うん……」
沈黙が時雨との間に流れる。でも何処か居心地の良い沈黙だと感じた。波が寄せる音だけが辺りを包む。傾きかけた満月が、二人の影を結びつけた。
耳を澄ますと微かに息遣いが聞こえる。手が触れた。
「ねぇ、今まで言えなかったことがあるんだ」
東の空の星々が消え始める。夜と朝の狭間。微かに覗く陽の光が、喜びに満ちた涙を輝かせる。
「ずっとずっと、君のことが好きでした」
雨が降る夜、月の下で。 夏雨 夜瀬 @Natsusame_Yoruse
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