第肆節 ワタシの役割
「そういえば、今日どうやって集合するんだろう……?」
どうりで昨夜は何か忘れてるな、と感じたわけだ。カーテン越しに聞こえる雀の鳴き声が、なんとなく馬鹿にしているように聞こえる……
とにかく、やってしまったものは仕方がないと気を取り直し、外出の準備をする。お母さんに水族館に行く旨を言い残し、私はさてどうしたもんかと家を出た。
とりあえず、昨日の公園に行ってみようかなと思い顔を上げた時、想定外の驚きに私の眠気は遠い彼方へと飛んでいった。
「うわぁああ!り、霖ちゃん?!」
「おはようございます葉月さん!昨夜はよく眠れましたか?さてさて、善は急げ!早速水族館に行きましょう!」
朝早くからこのテンションの高さ、さては朝型だな、羨ましい。
「お、おはよう。朝から元気だね……んんん、霖ちゃんが私の家知ってることについては触れる予定ないけど、もしかしてずっと家の前で待ってた?ごめん……!」
「いえいえ全然!富士山が噴火する周期よりよっぽど短いですよ!」
そりゃそうだ。富士山の噴火周期と比べられちゃ、人の一生だって瞬きか、あくび程度の長さだろう。
そのまま私たちは駅へ向かった。電車に三十分ほど揺られ、バスに乗り換える。私は一番後ろの席の窓側に座った。霖は隣に来るかと思っていたが、予想に反し私の前の席に陣取った。乗客は他に誰もいなかった。運転手の間延びした声と共にドアが閉まり、バスはゆっくりと走り出した。市街地を抜け、堤防沿いを走り、やがて風景の七割が緑になった。山々にかかる白い雲が綺麗だった。滔々と流れる小川で子供達が水遊びをしていた。青々と揺れる稲穂を横目に、バスはぐんぐん進んで行く。
私たちはぼ〜っとその風景を眺めていた。特に何か話すことはなかった。でも別に何かを話さなくてもいいと思った。霖はどこか無表情に、流れる景色に目を向けていた。今までずっと笑顔しか見てなかっただけに、思わず二度見してしまう。霖の瞳をこんなにじっと見つめたのは初めてだった。でも直ぐに目を逸らそうとした。吸い込まれそうだったからだ。でも私の目は霖の瞳に釘付けだった。逸らせなかった。深い海という言葉が思い浮かんだ。でもよく小説とかで出てくるような深淵のような眼ではなく、どこか優しさを携えている、ような気がする。言うなれば、母なる海……?そして、時折瞳の中に見える煌めきは泡のようだった。暗喩ではなく本当に、眼の奥から泡が昇り、ぱちっと消えていく。そういう風に見えた。突如泡が急増したと思ったら、今度は跡形もなく消え去った。瞳の色もエメラルドグリーンになったと思ったら、今度は夜の入り口のような藍色になる。霖が小さくため息をつく。見蕩れたように視線を向けている私のことなんて気づいていないみたいだ。ずっと何か物思いに耽っている。
「次は〜
どこか間の抜けたアナウンスが響き渡り、私は現実に引き戻された。道の向こうに水族館が見えた。霖に視線を戻すと、ニコニコしながら降りる用意をし始めたところだった。
水族館は思ってたよりも閑散としていた。足早にくらげ館を目指す。何といってもこの水族館のウリはクラゲなのだ。クラゲが建物をまるまる占拠してしまうくらいに。中でも、トンネル状の水槽が人気だ。まるでクラゲが空を飛んでいるような、もしくは自分が海の底にいるような、そんな感覚を覚えるらしい。この水族館には来たことがあるのだが、残念ながらくらげ館は改修工事の真っ最中で、その幻想的な光景はお目にかかれなかった。項垂れていたが、帰り際に可愛いキーホルダーを見つけて、少し機嫌が治ったのを覚えている。
少しワクワクしながら入り口を抜けると、心地の良い闇の中に、綺麗にライトアップされたクラゲ達が早速目に入った。
「ふわぁ……」
思わず感嘆のため息が出てしまう。横に目を向けると霖もじっとクラゲを見つめていた。しかし私とは対照的に、彼女の目は真剣だった。眉間に皺を寄せ、何かを熟考している。そして、私をじっと見つめたと思ったら次はあたりを見渡し、またどこかを注視した後、クラゲに視線を戻し、ゆっくりと口を開いた。
「葉月さん。私、分かっちゃいました」
「ぇ?!ほ、ほんとに……?」
まさかここまで思い通りにコトが運ぶとは予想していなかった。ドクドクと徐々に大きくなる心臓の音が、今はファンファーレに聞こえる。唾をごくりと飲み込み、私は続きを促した。
「じゃあまずは、葉月さんが兄の記憶を無くしていない理由をお伝えしますね。結論から言ってしまうと、ダークマターによるマーキングが外されているからです。」
「ダークマターによるマーキング……」
思わず繰り返していってしまったが、人類の常識の範疇外に答えがあることは前々から容易に予想できていた。今更混乱することはなかった。
霖は、少し興奮した様子で説明を続けた。
「そうです。よくよく目を凝らしてみると、ここにいるクラゲ全部から全方位に向かってとあるダークマターが絶えず拡散されていることに気が付きました。実は人間から見る原子とか分子と違って、我々から見るダークマターは顕微鏡みたいな器具は必要ないんです。肉眼というか、なんか生身でも感知できるっていうか。まあとにかく話を戻すと、この放出されてるダークマター、人間を通り抜ける時にマーキングを置いていってるんですよ。簡単に言うと。でも葉月さんの体を通り抜ける時にはそのマーキングが一切見当たらない。これによってダークマターを基盤とするあるシステムから認知されなくなり、記憶が消される操作が為されなかった、というのが理由です。おそらく兄が葉月さんに何かをしたのだと思います。そして兄が神隠しにあったのもこれが原因だと私は思います。遠い昔に恋仲であった娘のマーキングを取ろうとした。しかし失敗してなんらかの原因で兄もマーキングされてしまった。その後に兄はマーキング切除術を確立させ、葉月さんにそれを施した。しかし何故か自分にその術を施すことはできなかった。そんなところだと思います」
「ダークマターを基盤とする、あるシステム……?」
「あっ……!え、いや……その……」
霖はハッと息を呑み、いかにもやってしまった、という顔をした。口が滑って間違えて秘密を言ってしまった、というような顔だ。霖が二、三歩後ずさる。
私は一息深呼吸をして、霖の肩を掴んで訴えるように言った。
「霖ちゃんが何か私に言っていないことがあるのは知ってる。だからそれを暴こうとするなんて酷だって言うことも知ってる。でも、私はどうしても時雨を取り戻したい。霖ちゃんも時雨を取り戻したいんでしょ?!でも、霖ちゃん一人では無理だったんじゃないの?だから私のところへ来た。この予想は、多分あってると思うんだ。でも、霖ちゃんがなんで全部秘密を言ってくれないのかは分からない。同じ目的なのに言えないのは私の信用がないから?それとも本当は目的さえも違うの?私は霖ちゃんのこと何も分からない。昨日会ったばっかだし、何よりずっと一緒にいたはずの時雨のことだって何も分かってなかった。だから霖ちゃんのことはもっともっと分からない。どうしても言えない理由があるなら、せめてその理由だけでも教えてよ……」
段々と声が嗚咽混じりになる。視界はぼやけて霖の綺麗な瞳がよく見えない。霖が口を開いて、また閉じた。俯き、今度は右上に視線をやり、私と目を合わすことはなかった。どこか乱れた呼吸と、うわずった声で霖は口を開く。
「り、理由は……えと、……」
霖の口がまたフリーズしたかのように止まる。私は何も言わずに霖を見つめ続けた。沈黙が流れる。霖にとっては数時間にも感じられるであろう数秒間をあえて作り出す。じっと、ただ待った。いつの間にかクラゲは視界から消えていた。
霖が小さく、されど深く深呼吸をした。視線があった。ゆっくりと口を開く。
「理由は今は言えません。でももう言います。覚悟を、決めました。クラゲは、脳がありません。彼らは反射で動き、生きています。クラゲはほとんど全ての生物の原点です。進化することなくずっと、悠久のときを過ごしてきました。ダークマターに干渉できたから。進化する必要がなかったんです。そんなクラゲに、特異点が生まれました。奇跡的な反応の末、ダークマターによる擬似脳を獲得したのです。便宜上
霖の説明は筋が通っているように聞こえた。でも、納得するのと同時に私のちっぽけなプライドのようなものもあっさり折れた。昨日も今日も、結局私は何もできてない。全部霖が突き止めた。そりゃ、霖は元々知識があったっていうか時雨と生まれた境遇が同じというか、しょうがないとは思うけれど。それでも、心のどこかで私がやらなきゃいけない事だと思ってた。だけど一番心を雑巾みたいに絞り取ろうとしてるのは、時雨を取り戻すために一歩また踏み出せたことを素直に喜ぶ事さえできずに、自分が与えられたと勘違いした仕事を取らないでほしいと懇願している自分自身への嫌悪だ。胸を掻きむしりたくなる。でも次の瞬間霖が甘い汁を私のその醜い心に注ぎ込んできた。
「私は兄を取り戻すコマンドと力を持っていませんでした。これが葉月さんに近づいた理由です。計画通りコマンドは見つかり、おまけに葉月さんには、紅雨と同じようにダークマターを操る力があることに気がつきました。というか、コマンドを達成して操れるようになったんだと思います。この力を利用すればシステムを騙せます!兄を取り戻せるんです!」
「え……?」
時雨が帰ってくる。取り戻せる。確かに霖はそう言った。いや、でも結局私の助けが必要ならどうしてあそこで情報の開示を渋った……?更なる情報を求めようと私が口を開いた時、霖がまたもハッとしたように息を呑み、叫んだ。
「ここにいたはずのクラゲ達は?!」
クラゲ達は消え去っていた。周りの水槽はもぬけの殻だった。いつの間にか他の客も見当たらなくなった。何故今の今まで気づかなかったのだろうか。いや、気づいていた。気づいていたが、何故か気にすることができなかった。ますます混乱する中で、突如内臓がひっくり返るような振動と衝撃が私を襲った。
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