第参節 現世は海月の骨ばかり

 眠い目を擦りながら朝ごはんを食べ、いってきますと言う。平凡な朝。

 友達との会話に花を咲かせる昼休み。気怠げな五時間目。いつもと変わらない。

 一人で家に帰り、ご飯を食べ、のんびり読書に勤しむ。平和な夜。

 平凡平和をググってそのままコピペしたかのような日常に、私は吐き気を催した。薄っぺらい。不完全な文章に、無理やり句点をつけただけなのだ。みんなとても大切なことを忘れていることが、信じ難かった。私以外、いつも通りの日常を歩いている。私だけが、日常を外から眺めている。周りの人間がテレビゲームのNPCのように見えて悲しくなった。

 私だけが覚えている。時雨が存在したということを。

 あの衝撃の後、私は自室のベッドにいた。まるで、たった今起床した、という設定を強制されたかのようだった。パジャマを着ているし、寝てもいないのに寝癖がひどい。でも、私の右手は時雨の小説を握り締めていた。よかった、時雨への手掛かりはまだ残されている。そのまま私は、一心不乱にその小説を読み進めた。


 その後は、小説を携えて時雨を探していた。ただひたすらに、小説だけを頼りに。何回も何回も小説を読み返し、何回も何回もこの街を駆けた。しかし、現実はそう甘くなかった。手詰まりの千日手。目の前に垂らされた細い糸は、私の分解能を超える細さだったのだ。時雨の小説が草臥れていくたびに、私は時雨のことが分からなくなった。

 そんな状態でも、やはり自室の窓から時雨の家を目に入れてしまうと、どうにも居た堪れない気持ちになった。時雨のお母さんが、庭先で花の手入れをしているのが見えた。夕暮れの情景が、ありもしない哀愁を漂わせている。

 部屋のカーテンを乱暴に閉めて、膝を抱えて顔を埋める。不甲斐なくて、涙が出てきた。飽和した感情が、嗚咽と共に滲み出る。行く当てもない恨み言に、自分が苦しくなった。

 その時お母さんの、夕ご飯できたよ、という声が聞こえた。何故か心がキューっと締め付けられて、限界を迎えた。徐々に滲み出ていた感情が、今度は堰を切ったように溢れ出す。

 その瞬間、私は部屋を飛び出し、お母さんの驚く声を背中に家を後にした。ただただ、苦しい。それだけが胸を支配していた。行く当てはなかった。でも、時雨との思い出がある場所にはいたくなかった。


 知らない街の、知らない公園で、見知らぬ親子を眺めていた。ボーっとブランコに座って、ただ何をする訳でもなく。やがて視界には誰もいなくなり、西の空には金星が輝き始めた。どうしようもなく落ち込む日は今までもあったけれど、私はどうやって再び歩き出してきたのだろうか。未来だけでは飽き足らず、過去さえも真っ暗の暗闇の中で、その事実に思わず力が抜けて目を閉じてしまいたくなる。

 時雨を思い出さないために飛び出てきたのに、小説とくらげのキーホルダーだけはしっかりと今も握りしめている。それらを膝に抱えて、私は目を閉じた。遠くで犬が鳴いている。カレーのいい匂いが漂ってきた。私の知らない誰かの日常があることを実感する。あ、そういえば、トランシーバーの電池、換えるの忘れてたな。

 また滲み出そうになった涙を邪魔するように、砂を踏む音が近づいてくる。顔を上げると、一人の少女が立っていた。

「葉月さん、ですよね?」

 言葉を出す気力もなく、私は徐に頷いた。

「私、りんと言います。時雨の妹です」

「時雨の、妹…?」

 時雨に妹がいたなんて、終ぞ聞いたことがない。警戒した様子の私をなだめるように、霖は話を続ける。

「私は月で生まれました。兄が地球に降り立った後に生まれましたし、私が地球に降り立ったあとは色々忙しくて会いに行く前にこんなことになってしまっていて……」

 どうやら、妹だというのは本当のようだ。時雨の出生の秘密なんて、そうそう出回っているものでもない。そんな、私の納得した雰囲気を感じ取ってか、霖は隣のブランコに腰掛けた。しかしなぜ今になって接触しに来たのだろうか。時雨を取り戻すためだとすれば、霖が欲してるのはこの時雨の小説だろう。なら協力を申し出ることが最善であることは自明の理だ。だが頭の片隅でまだ警戒している自分もいる。どうしよう。

 数秒間の沈黙が流れる。大きく深呼吸をする。くらげのキーホルダーをぎゅっと握りしめて、私は口を開いた。

「あの、霖さん。私、もう手詰まりで。助けてください。時雨を取り戻したいんです」

「私もそのつもりで来ました。こちらこそ兄を取り戻すため、よろしくお願いします。あ、どうぞ気楽に話しかけてください。せっかくなのでお友達になりたいです」

 霖は柔らかな笑みを携えそう言った。良い信頼関係を築いておいて損はない。そんなことを未だ警戒している部分の自分に言い訳がましく呟いた。

 そして私は小説を見せ、時雨が言い残したこと、これまでやってきたことを話した。小説に出てくる所を訪れてみたり、どこか引っ掛かる箇所を調べてみたり……

「でも結局、成果は未だにゼロで」

「成果なら、あるじゃないですか。これらはとりあえず、関係性は低いっていうことがわかったっていうことです!きっと手がかりは小説の中にありますよ!まだ見つけてないだけで。だって、兄がそう言ったんですよね?」

 底なしのポジティブ思考に、思わず釣られて口角が上がった。自ずと背筋が伸びる。数分前に出会ったのにも関わらず、霖にある種の魔力を感じることは容易だった。この子とは仲良くしたい、と思わせるような魔力だ。一緒にいると何故か落ち着くのだ。

「あ、葉月さんやっといい顔になってきた。そういう目をしてないと、見つけれるものも見つけられないってもんです!頑張りましょう!」

「う、うん!霖ちゃんありがとう……」

 それから、二人で小説を読み直した。霖のおかげで新たな仮説がどんどん出てくる。でも、それと同じくらいに心の負担が減ったのがとても助かった。そう自覚すると、なんだか頭が冴え渡るような錯覚を覚えた。

「あっ……」

 何か思いついたのだろうか。霖のページをめくる手が早まる。

「霖ちゃん、何か見つかった?!」

「いや……全部ノンフィクションって、比喩表現だと思っていたところも含めるのかなって思いまして。こじつけだと言われればそれまでなんですが、それにしてもこの『海月くらげの骨』っていうの、どこかで耳にした記憶があって……」

 それは、最後から二番目の章に書かれていた。

「ええっと、『あまりに早い情報伝達と、蜘蛛糸のように張り巡らされた回路はまるで、海月の骨のようだ』っていう部分?これって、インターネットの出現をくらげの骨、つまりあり得ない事のようだって慣用句を使って表現しているっていう認識だったんだけど、全部ノンフィクションっていうのが正真正銘比喩らしきところも含めるのなら、じゃあ、海月の骨っていうものすごいネットワークが存在しているってこと?!」

「全部ノンフィクションっていう前提でいくと、ですね。それにですよ、この、もうすぐ神隠しに合う予定の娘のダークマターを全て引き受けるってことは、兄はダークマターを操る術を構築していたってことですかね。事実私はダークマターを認識することは出来ますが、干渉なんて無理です。結局当時は失敗してしまったと書いてありますが。もしかしたら、葉月さんにも何かしてるかも……葉月さんが兄の記憶を無くしていない理由も、もしかしたらここにあるのかもしれませんね」

 あ、そういえば、記憶がなくなってない。言われてみれば、確かに不自然だ。学校のみんなも、時雨のお母さんも、おそらくもう時雨に関する記憶はない。なのに、私だけ残っているのは確かに不自然だ。この現象もダークマターによって説明できるというのなら、ダークマターというのはどれだけ万能な物質なのだろうか。

「ダークマターって一体なに……万能の超次元的物質っていうのがイメージしかわかないよ……」

「あ、ダークマターは一つの物質じゃないんです。ただの総称です。色々な原子があるように、ダークマターと一括りに言ってはいますが、数多くの物質が存在します。ただ、地球の科学で説明されている法則とは別のものに則って動いているだけなんです。人間には見えないっていうこともそれに含まれますね。えっと、人間が扱える原子とかも反応次第では凄まじい力を持ちますよね。だから、ダークマターが別に万能ってわけじゃなくて、要は使い方なんです。つまり、兄は科学者みたいなことをしてたかもしれな……あああ!!思い出しました!くらげって、もしかしたらダークマターに関与できるかもしれないです!海月の骨の真相もそれに絡んでます!絶対に!」

 突如、早口で霖が叫ぶ。溢れるように次々と出てくる新情報に、私は身を乗り出した。活路が見えたのかもしれない。あまりの興奮に思わず霖を抱きしめてしまう。

「霖ちゃん天才!そうと決まったら、次調べるのはくらげ?ここら辺の海ってくらげいるかなあ……」

「わざわざ自然界のくらげに会いに行かなくても、水族館にいっぱいいると思います!なので明日、水族館に行きましょう!それじゃあもう月が昇る時間ですし、今日はここらで解散ということでどうでしょう?」

「了解!じゃあまた明日!霖ちゃんほんとにありがとうぅ……」

 自分一人では何もできなかった不甲斐なさと霖への感謝とその他諸々の色々な感情が混ざり、私は感極まって泣いてしまった。その様子を見て霖はびっくりした顔で私の背中をさする。暖かなその手により一層涙がこぼれ落ちていく。

「は、葉月さん泣かないで。兄はきっと帰ってきます!その涙は再会の時に嬉し涙としてとっておいてください」

 霖に数分間ほど背中をさすられてから、やっと泣き止んだ私は、また何回もありがとうを繰り返した。

 それから霖と別れ帰路についた。数時間前とは、全てが違って見える。街を覆う暗闇が、どこか揺り籠のように思えた。ひんやりと冷たい夜風が私の頬を撫で、その頬に残る涙の跡をなぞる様に吹き抜けていく。閑静な住宅街を抜け、明るい商店街に出た。あちこちから陽気に笑う人々の声が聞こえて、どこか楽しくなった。商店街を後にし、少し歩くと家が見えてきた。どこかほっとした気持ちになり、足が少し早くなる。

 透き通るような夜空に、月が優しく輝いていた。

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