第弍節 時間はちゃんと進んでた
青い空に白い入道雲、おまけに蝉時雨。木々は精彩な緑を携え、心地良い風が吹き抜ける。先日までのあの湿気が嘘のように、この地は夏を叫んでいる。
街の中心にある時計台が、もうすぐ十時を指そうとしていた。この時計台は、一時間ごとに調べを奏でるのだが、ピッチの外れたあの鐘の音は、逆に風流なのでは、と最近思い始めている。
その時計台の下に時雨を見つけ、私は少し足早になる。
「おはよう時雨〜。待ったー?」
「いや〜今来たとこだよ……ていうか、もしかしてまだ眠い?」
「て、低血圧は仕方がないでしょ!」
「ごめんごめん、昼からにすればよかったかなぁ……」
「ちょっと歩けばすぐ起きるよ!天気いいし!なんかいい匂いするし!そーいえば、お昼ご飯なに食べるか考えといてね?」
「えぇ〜しょーがないなぁ……」
よし!何気なくお昼を跨いで一緒にいるっていう雰囲気にできた。なかなか策士なのでは、と思う。が、そんな浮ついたことを考えている余裕はすぐに終わった。
「葉月、早速だけど昨日言おうとしてたことを伝えるね。えっと、実は昨日言ってた神隠し、本当にフィクションじゃないんだよ。葉月はきっと作り話だと思ってたと思うんだけど、実際ある話なんだよ」
予想していた数次元違う部類の話が切り出されて、私は告白じゃなかったことに落胆することも忘れて、話の見えなさにただ首を傾げるばかりだった。
「それでね、まだ数週間は大丈夫なはずなんだけど、必ず神隠しに合うってこと分かってさ」
「し、時雨が?」
「うん……」
重苦しい沈黙が流れる。私はひたすら混乱していた。蝉の声が遠ざかり、地面がぐるぐる回っている。いや、ぐるぐる回っているのは私の方?時雨の話が本当だとすると、もうすぐ会えなくなっちゃう?時雨は悪い冗談をつくような奴ではない。事実は時に小説よりもよっぽどフィクションみたいなんだってことは理解しているつもりでいた。でも、この話は信じれないというよりかは信じたくない。
散々混乱した結果、私が出した答えは取り敢えず落ち着いて、最悪の状況を想定しておこうというものだった。信じたくないじゃなくて、信じる。私がどうしても阻止したいのは時雨がいなくなること。
「時雨、どうしても神隠しは回避できないの?」
「……信じてくれるの?こんな突拍子もない話」
「時雨はこんな悪い冗談つかないから。だから本当なんでしょ」
時雨は泣きそうな顔をしていた。こっちが泣きたい気分だよ!いきなり自分は消えるって。
今は頭で、理性で頑張って押し留めてるけど、心の底では未だに揺れている。例え目の前で時雨が神隠しにあっても受け入れられる自信がない。小説の中の主人公たちは、どうやって途方もない悲劇を受け入れたんだろう。
心はぐちゃぐちゃで、もう何が何だかわからない。でもここは現実で、物語の中じゃないから。一息つくまで待ってくれない。あまりにも非情すぎる。次の瞬間痛いほどそう感じた。
「し、時雨?!なに、これ……」
さっきの神隠しの話が頭によぎり、咄嗟に手を握る。
異変は突如、されど静かに始まった。午前十時ちょうど、ピッチのズレた鐘の音が街に響き渡る中、時雨の体が透けはじめたのだ。
蝉の音が静まっていく。燦々と照る太陽を馬鹿にするように、冷気が満ちていく。遠くの山影がどんどんぼやけていく。目の前で人が消えようとしているのに、人々は見向きもしない。まるで、私たちだけが世界から切り離されていくみたいだ。時雨の手を絶対に離さないよう、ただひたすらに力を込める。
時々感じていた説明できない不安感は、気の所為ではなかったのかもしれない。さっきまで神隠しを信じることにあんなに反抗していた心が今ではそれをさも当然のように受け入れてるのがとても気持ち悪くて吐きそうだ。
「嘘だ……っ!こんなに早く神隠しが?!ああああ、こんなことなら迷わずさっさと言っておけばよかった!まだ何にも伝えていないのに!葉月、僕は君に忘れられたくないんだ!ずっと君に秘密を知られるのが怖かった。君に嫌われたくなかったんだ。でも、やっぱり忘れられる方が辛い!お願い葉月、今から言うことを、記憶が消える前に!」
こんなに声を荒げている時雨は見たことがなかった。あまりの取り乱しように、私がしっかりしなきゃ、と冷静になる。
そう言っている間にも、時雨はどんどん透明になっていく。
「しっかりして!時雨がいない人生なんて嫌!渡したくない!どうすればいいの!何か方法があるんでしょ!ねえ!!」
時雨が、はっと気がついたような顔をする。どうやら、落ち着いたみたいだ。
「ごめん取り乱して。時間がない。手短に言う。僕の部屋の机、上から二番目の引き出しの中に、昨夜話した小説がある。今こうしている間にも、世界は整合性を取ろうと改変が進んでいる。この小説が鍵だ。中身全部が僕の秘密だ。開けばわかる。あれは全部ノンフィクションなんだ。世界に取り上げられる前に、お願い!」
強く握りしめた手の感触が、どんどんなくなる。全身半透明になった時雨の体は、末端から小さな泡の粒となって空へ消えていく。神隠しの進行は、思っていたよりも早かった。しかし、まだ時雨は何かを言おうとしている。
「葉月!この世界の秘密を殺して!雨が降る夜、月の下で僕の名前を!」
次の瞬間、時雨は消えた。ずっと続くと思っていた日常は、刹那のうちに崩れ去った。時間はちゃんと進んでいたんだ。当たり前のことを、今になって悟る。想いを伝えるチャンスはこの先いくらでもあるなんて、時雨がずっと隣にいてくれるだなんて、ただの思い違いだったんだ。
「あ……」
行き場のない右手が空を切る、ように思われたが、何かが右手に触れた。時雨にあげた、くらげのキーホルダーだった。時雨との思い出が、走馬灯のように吹き抜ける。そうだ、嘆いている暇はないんだ。一刻も早く、時雨に会いに行かなければ。
「上から二番目の引き出し、小説、雨が降る夜に月の下で。上から二番目の引き出し、小説、雨が降る夜、月の下で時雨の名前を……」
反芻しながら私は駆ける。未だに一体何が起こってしまったのか理解不能だったが、とにかく小説を手に入れれば全てが分かるはずだ。というかそれに縋るしかなかった。
もう下を向いて、立ち止まっていられる時間は残されていない。一刻も早く、早く。それだけが頭に反響していた。
時雨のお母さんへの説明もままならぬうちに、私は時雨の部屋へ飛び込んだ。そこに広がるのは、異様な光景だった。アナログテレビでよく目にした、砂嵐が視界に映り込んでいる。ザーという音ともに、そのノイズは椅子を覆い隠し、跡形もなく消えた。世界が、時雨の存在を全てから消そうとしている。明日か、早ければ今日中に、この部屋には一片の塵も残っていないだろう。もしくは、もともと別の部屋だった、という様な設定になっているのかもしれない。とにかく、一刻の猶予もない。
「あった!これが、時雨の……」
小説は案外容易く手に入った。原稿用紙百数十枚分の重みを感じる。題名は、書かれていなかった。すかさずページを開く。時雨らしい几帳面な字で、物語が綴られていた。
「あ、これは……」
原稿用紙の一枚目には、物語の概要が簡潔にまとめられていた。あらすじではなく、概要なのだ。やはり、これは小説の体をなしただけの、随筆のようなものなのだろう。
私は、手早くしかし慎重にその概要を読み進めていく。
『その生物は、老化という概念を持たなかった。月で生まれた彼は、宇宙に数多存在するダークマターを生命活動のサイクルに取り込んでいた。おかげで、彼はテロメア、通称“命の回数券“と呼ばれるものの回復ができたのである。地球に降り立った彼は、そこで人間が光の粒に包まれ消えていくのを目にした。人間には認識できない、ダークマターが作用してこの現象が起こっていることは、彼の目には明白だった。そして驚いたことに、神隠しにあった者が存在していた事実そのものが、抹消されていたのだ。関わりのあった者から犠牲者の記憶は消え去り、その犠牲者が暮らしていた物的証拠すらも虚空の果てへと飛ばされたのだ。彼は地球の生物ではない故に、記憶の消滅を免れたのだろう。それから、彼が地球人として暮らして数年が経ったある日、彼はある娘と恋仲になった。しかし、その娘の体は、いつ神隠しが発生してもおかしくない状態だったのだ。その娘を助けたい一心で、彼はある方法を思いついた。神隠しの原因となるダークマターを、彼が引き受ける、というものだった。結果は、失敗だった。娘は消え、彼もまたダークマターに徐々に蝕まれるようになった。そして、彼はその娘がいたという事実を少しでも消さないために跡形もなく消え去ったその娘の名前を名乗るようになった』
時雨が抱えていた秘密は、予想の何千倍も大きいものだった。年表のような、表情のあまり感じられない概要だけでも、時雨の思いが読み取れる。もっと知りたい。時雨の思いを。そのような心持ちで、私は本文を読み始めようとした、その時、突如あの細かい白いちらつきを携えた砂嵐のようなノイズが、私の体に触れた。
「っ……!」
凄まじい衝撃と共に、吐き気を催す浮遊感が訪れた。思わず目を閉じる。自分の体の皮が、へそから裏返しにされたような、そんな凄まじい不快感が襲ってきた。全身の感覚が徐々に無くなっていき、意識も遠のいていった。
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