雨が降る夜、月の下で。

夏雨 夜瀬

第序節 恋しさばかり、募るばかり

 私は、雨宮葉月という名前が好きだ。合計七音だし、音の響きは奥ゆかしさを感じさせながらも、しっかりとした物語を携えている。漢字の連なりだってそうだ。雨が滴る葉は、より一層緑が強調されているように思えて、好きだ。宮といえば平安時代を連想してしまう。満月を見て、恋しい人を思い、和歌を詠う。想像しただけでも、言葉では表現できない、柔らかな気持ちになる。でも、この名前が好きな、一番の理由は、他でもない君が、褒めてくれたからなんだ。

 ……素直にそう言えたなら、どんなに良いだろうか。最後の最後で、私の言葉は、いつも誰かに奪われてしまうのだ。

 ここはこんなにも静寂に包まれているのに、私の頭の中は雑音まみれだな、と少し自嘲する。

 雨が降り出した。

 規則正しくテンポを刻むそれは、まるで子守唄のようだ。

 しかし、今はどうしても、雨を無表情に弾く窓が、時雨に思えてしょうがない。

「……どうしよう」

 体の中から不安という毒気を抜くために呟いたその言葉は、すぐさまUターンしてその牙を私の足に突き刺した。妙に悪い予想が現実味を帯びてしまい、足が余計にすくむ。時雨とお揃いの、くらげのキーホルダーを無意識に握りしめる。

 約束の時間まで、あと十分を切っていた。

 今日こそは、必ず、と思うがやはり体は正直だ。

 今にも爆発しそうな、このはやる心臓が飛び出ないよう、手でぎゅっと押さえるが、どうにも抑えきれそうにない。体を丸めて押さえ込もうとするが、今度は息が荒くなる。くらくらする視界が徐に滲んでゆく。誰もいない暗い生徒玄関前のベンチで、足を抱えて顔を埋めた。肩は忙しなく震え、手は痛いくらいに握りしめてしまう。面倒見のいい先生がここを通ったら心配して声をかけられるかもしれない。早くこれを治さなければ。そして何よりも、時雨にこんな私を見られたくなかった。

 このままではずっと治らない、と悟った私は、すかさずトイレに逃げ込んだ。何回も顔を洗い、深呼吸をし、大丈夫だと自分に唱える。別に舞台に出るわけでもないのに、縋る思いで手のひらに人、と書いて何回も飲んだ。そして最後に、時雨の名前を書いて、飲み込んだ。

 君が来るまでは、立って待っていよう。座っているだけでは足はすくむばかりだ。そう思いながら生徒玄関へ戻った。

「やあ、葉月」

「あっ、時雨!早かったね……用事は、終わったの?」

 まだ心の準備ができていないのに!!

 気が動転しているのだろうか、私は何を言っているんだ。用事が終わったから来たに、決まっているだろうに。無意識に胸を押さえてしまう。時雨の目に映る、私は大丈夫だろうか。変じゃないかな。顔、真っ赤じゃないかな。うまく話せているかな。時雨は私のこと、どう思っているのかな。この頭が重くて重くて、うまく時雨の顔が見えないよ。

「いやぁ〜実は早く帰りたくてさ。頑張って早めに終わらせて来たんだよね。ああ、葉月」

「うんー?何?」

 上の空で返事をしながら頑張って時雨の目を見ようとする。

「今夜、時間ある?少し話そうよ」

「うん。十時くらいでいい?」

 目があった。一生分の鼓動が、この一秒の間に使い果たされていく。心臓が破裂して、胸の奥にじわ〜っと広がる。気づいた時にはもう喉はその温かな何かに支配され、言葉が生まれては陽の光をみることもなく消えていく。

「りょーかい。じゃ、帰ろうか」

 私の心は、心臓の残骸に支配されたまま。私ではないそれが体を操り時雨と共に帰路についていると確信できるのは、一緒に帰ってるときの記憶がないからだ。だからあれは私じゃないんだ。でも、その正体を考えても一向に何も思いつかない。何かぴったりな名前が欲しい。

 明日こそ、私のままで一緒に帰りたいな。




「この国には、“神隠し“と呼ばれるものが確かに存在してるんだ。でも、誰もがそれをフィクションだと思うのは、ただ単に、気づいていないだけなんだよ。本当は身の回りで起こっているのにさ。神隠しにあった人間は、徐々に、存在していた、という事実すらも現世から消されていく。まるで、最初から存在すらしていなかったかのように」

 わざわざスマホのある時代に、トランシーバーを使って会話をしている物好きなど私たちくらいじゃないだろうか。いや、物好きなのは時雨だろう。なんでもロマンがあるから、だとか。フィクションが現実と共存することを良しとし、このような空想話を大真面目に言ってくる。時雨の世界はさぞかし美しいのだろう。

「で、僕はそれをお題として、小説を書いてみたんだよね。設定が現実のものだから、リアリティ溢れる小説になってると思うな。それに、これを君に残しておけば、僕が神隠しにあったとしても、君に覚えてもらえるかもしれない」

 何かに熱中している時の君は、痛々しいほどに一直線だ。大真面目に自分の世界観を語るその様は、はたから見れば、いわゆる厨二病というやつに見えるのかもしれない。でも、何処か輝いて見えるのは、いわゆる恋という病がもたらす症状なのだろうか。

「小説出来たら読ませてね?楽しみにしてる!それにしても、時雨はなんでも自信を持って言えるの羨ましいな。私は思ってることがうまく口から出なくて」

 嘘だ。時雨が、何かを誤魔化すようにしゃべっていることは、なんとなく感じている。時雨だって逡巡くらいすることは私でも分かっている。同じ人間だもの。これは私なりの本音の聞き出し方で、別にぽろっと出た私自身の本音とかじゃないったらない。

 でも、それが、何かを言い出すことを迷っているのか、それとも今話している内容ではぐらかしているようなことがあるのか、それは分からなかった。私は、時雨の心が読めないから。

 時雨は何故か私の言葉に返答することなく、沈黙を貫いていた。時折聞こえる吐息の音が、何か言い淀んでいるように聞こえてた。私流の本音の聞き出し方がクリーンヒットしたのかどうかは定かではないが、とにかく時雨が言い淀むことってなんだろうか。

「……葉月、明日空いてる?ごめん今大事なことを言おうとしたんだけどやっぱり言えなくて」

 この感じ、もしかして時雨は告白を躊躇っているのでは、と思ってしまう。いやいやでもそんな、きっと時雨は何か他に言いたいことがあるのでは。時雨は私のこと幼馴染くらいにしか思ってないかもしれない。

 明日きちんと聞くのが、どこか楽しみでどこか怖く感じた。

「明日は空いてるよ〜。それと前言撤回。時雨でも言い淀むことあるんだね。ちょっと安心したよ。まあでも、明日聞けるのなら、それでいいかな〜。明日は何時に行けばいい?」

「僕だって言い淀むことくらいあるよそりゃ。えーーっと集まる時間は……十時でどうだろ。あ、僕明日の朝ちょっとだけ学校寄っていくから、集合は時計台で!」

「りょーかい。あ、もう寝なきゃ。それじゃ時雨、また明日」

「おやすみ。また明日、葉月」

 今夜の時雨は意外だった。やっぱり心のどこかで時雨が告白してくれるのでは、と思ってしまう。一度縋ってしまった希望はなかなか手放せないものだ。だから、時雨に想いを伝えるのは、別に今日じゃなくたっていいんだ。明日時雨の話を聞いてからでも遅くはないだろう。わざわざ一生涯で一番の覚悟を決めて想いを伝えなくても、時雨が告白してくれるのなら、そっちの方がいいに決まってる。大丈夫。今日、生徒玄関でうまく時雨への好意を口にできなかったのは、まだその時じゃなかったから。それは明日かもしれないしもっと先かもしれない。うん、きっとそうだ。まだまだいくらでも時間はある。よし、と頬を叩き気持ちを前向きに切り替える。

 トランシーバーを机に置き、目覚まし時計をセットする。

 そういえば、そろそろトランシーバーの電池が切れる頃だな。まあ、明日変えればいいか。

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